行為と現象 「具体」と「ゼロ」をめぐって

・つみとられた果実

「(…)具体の10年前の作品に対する、これらの人々の驚きが、まざまざと感じられた。たとえば、こんどの展覧会にはハッケやピータースが盛んに水を使っているが、元永の水の作品ははるかに早く、田中の10年前の風の作品がハッケのいまの作品と近似している。10年以前われわれが芦屋の松林で、あるいはさまざまな劇場でやったグタイのマニフェストが、つまり当時具体の機関誌に私の書いた『つみとられるべき果実』が、フランスの批評家タピエに、いまはまたオランダの美術館によってふたたびつみとられたのである。」(*1)

以上は吉原治良によるヌル国際展の報告記事の、結びの部分である。1965年4月、アムステルダムのステデリック美術館で開催された同展に「具体」が招待され、初期作品の再制作のためにリーダーの吉原治良、および次男で具体のメンバーでもあった通雄とが現地に赴いた。その際の成果を、吉原は「つみとられた果実」と表現している。実は吉原は、'60年代を通じて同趣の発言を折に触れて繰り返している。まるで初期「具体」への日本美術界の無関心に対し、うっぷんを晴らすかのようである。

事実「具体」に対する正当な評価は、常に海外からの逆輸入であった。その第一波は、1957年アンフォルメル運動の主導者ミシェル・タピエの来日によってもたらされた。よく指摘されるように、その功罪については議論の分かれるところである。タピエの関心はあくまでも絵画が中心であり、彼の来日を契機として、それまでの「具体」の多様な表現が加速度的にタブローへと収斂していったからである。

第二波は'60年代半ば、批評家よりもむしろ一連のアーティストによるものだった。よく知られているのはアラン・カプローの著書『アッサンブラージュ、エンヴァイラメンツ&ハプニングス』(1966年刊)である。「具体」に一章を割き、自ら主唱する「ハプニング」の先駆的事例として、その初期の活動を紹介している。

「ゼロ/ヌル」の作家たちも、自分たちの先駆者として初期「具体」に着目した。ただしカプローと「ゼロ/ヌル」とでは、その関わり方に大きな違いがある。カプローは記録写真でしか「具体」を知らなかったが、「ゼロ/ヌル」は、リアルタイムで吉原父子と直接接触しているのである(*2)。

・もうひとつの「ゼロ」

さて、ゼロという概念は、芸術家たちにとって非常に魅力的なものであるらしい。古今東西、その名を冠する美術のグループが多数あるのが、その証左である(*3)。'50年代末から'60年代半ばにかけて、ドイツとオランダを中心に、フランスやイタリアなどにも広がりをみせた「ゼロ/ヌル」はその代表的なものだが、実は彼らは、ゼロの名を冠するもうひとつのグループとも「間接的に」関わっていた。

「ゼロ/ヌル」と「具体」をつなぐ立役者の一人として、イヴ・クラインの存在が見逃せない。クラインは機関誌「具体」をほぼ全巻所有していた。それらは現在はベン・ヴォーティエの所蔵となっており、筆者は本人から現物をみせられたことがある。

クラインが日本で柔道を学んだことはよく知られている。それは「具体」などまだ影も形もない頃のことだが、彼が東京にいた1952年、ちょうど関西では「ゼロ会」が白髪一雄、村上三郎、金山明らによって結成されている。この時、両者が接触していれば話は非常に面白くなるのだが、その可能性はまずありえないだろう。東京と関西との距離もさることながら、「ゼロ会」は作品を持ちよっての勉強会、あるいは合評会的な性格が強く、展覧会は1954年、大阪そごう百貨店のショーウインドーを使って一度行われたきりである。当時の日本の美術界では「ゼロ会」はほぼ無名に等しかったし、「具体」に吸収合併されなければ、その存在は歴史から忘れ去られたかも知れない。

「芸術とはなにも無いゼロの地点から出発して創造すべきだ」というのが「ゼロ会」の合言葉で、グループ名の由来でもあった。総勢約15名といわれるメンバーの全貌はよく分からないが、中心となって活動していたのは白髪一雄、村上三郎、金山明、田中敦子、さらに白髪富士子(一雄夫人)といった面々だった。

白髪と村上は、美術団体「新制作協会」に所属し、その正会員で芦屋にアトリエを構えていた伊藤継郎のもとで学んでいた。当時、二人は「構図の排除」という共通の課題に取り組んでいた。白髪は油絵具の流動性に着目し、また絵画と身体との距離を限りなく近づけるために絵筆を放棄し、爪や指、手のひらで直接絵具を画面上に延ばしていく方法を試みていた。その際、一筆書きのように、一続きのストロークで画面を埋め尽くすことにより、構図的なヒエラルキーを極力生じさせないことが重視された。

村上三郎も、ペインティングナイフで絵具の塊を順番に置いていくようなやり方で、構図の原因となる筆勢を殺し、むしろ絵肌の質感そのものが発言するかのような作品を試みている。彼らは、こうした傾向の作品を持ちより、1954年に大阪の阪急百貨店で二人展を開催している。実は村上が吉原と初めて出会ったのはこの時で、吉原は初対面の村上の作品を全般的に評価しながらも、構図の意識がなおも見え隠れする数点について、その不要性を厳しく指摘したという。なお、モノクロームのパターンで画面を埋め尽くすことで構図を無化する点、物質的なマチエールの発言力が大きいという点で、二人の作品は後年の「ゼロ/ヌル」の平面作品との親近性を示している。

この後、白髪はより大作に取り組み始めるが、画面の中央に手が届かないという理由から、天井から吊り下げたロープにつかまって足で描く方法を導入する。この時点では、彼の意識はまだ構図の除去に重きが置かれており、後年の滑走するようなダイナミズムよりも、丁寧に絵具を踏み延ばしていく感覚が顕著である。一方の村上は、白髪の足による描画に触発され、絵画と身体の直接的な接触とは全く逆の、間接性を強調した作品を試み始める。絵具を塗ったゴムまりを画面に向かって投げつける「投球絵画」である。

金山明は、幼なじみである白髪の有機性とは対照的に、当初から極端なまでの無機質さが持ち味だった。彼の関心事は、白髪や村上とは少々異なっていた。それはモンドリアン的な幾何学抽象をさらに押し進め、どこまで画面から要素を省略してもまだ絵画として成り立つのか、という問題である。「具体」に合流して後のことだが、単純化の果てに、遂にキャンバスの縦横の比率のみが残った。なにも描かれてない新品のキャンバスでも作品であるという極論は、しかし吉原には認められなかったという(*4)。

田中敦子は、1951年、大阪市立美術館付設美術研究所で出会った金山の影響で抽象絵画を模索し始めたが、当時の作品には明らかに彼の影響が色濃く現れている。身体の弱かった田中は、入院中に眺めていたカレンダーをモチーフにした作品を制作するが、金山もよく使っていた印刷物(船荷証券)が部分的にコラージュされ、独特な質感を醸し出している。やがて衣類に使う芯地の上に数字を描き、場合によってはそれを裁断して再構成した作品へと移行する。

これら「ゼロ会」の作品群は、彼らが「具体」に合流した後、1955年の第1回具体美術展にも出品され、あるいは機関誌『具体』にも図版が掲載されているため、「具体」時代のものと混同されやすい。しかし実際には、彼らは「具体」に合流する以前から、自らの方向性をほぼ確立していたことに留意しておきたい。

・穴の絵画

一方の「具体」が結成されたのは、「ゼロ会」が唯一のグループ展を開催したのと同じ1954年である。その母胎は、戦後間もない頃から芦屋の吉原治良のアトリエに出入りしていた若い作家たちだった。吉原はすでに戦前より美術団体「二科会」に所属し、わが国における抽象絵画のパイオニアの一人と目されていた。当時の関西では、弟子が風変わりな非具象を描き始め、師匠が持て余すと「吉原さんのところへ行け」という具合だったようだ。

吉原のもとに出入りする若者たちの中で、抜きんでて頭角を現していたのが嶋本昭三である。当時の彼の作品について、村上三郎による興味深い回想が残されている。

「1952年、或る会場で、黄一色の大画面の前に、私は呆然と立ちつくした。小児のなぐり描きに等しい筆触で殆ど塗りつぶされた色の塊りだけが、其処に在る。/こんなものが絵画と言えるかどうか。然しそう思ったとき、私はその絵の前に立った瞬間のガーンと殴られたような強烈な衝撃を失い始めていた。従来の絵に対する知識で貶そうとしている、言い訳をさがしている、そんな自分に気付いた。が、こんな理屈は無用だ。その衝撃の内包するものは何なのか。/今までの種々の作品に見受けられる美的感覚をくすぐるような要素を、一切拒否した開放的な哄笑が、その底から襲いかかってくる。それは嶋本昭三の作品であった。(…)具体の運動は、正に一つの対話として、吉原と嶋本の師弟の間に、作品を媒体として秘かに始っていた。」(*5)

他にも、当時の嶋本には注目すべき作例がある。他でもない、穴の絵画である。キャンバスを買う金がなかった嶋本は、古新聞を洗濯のりで貼り合せた手製の「紙バス」に絵を描いていた。ある時、嶋本は誤って画面を破いてしまい、修正する時間がなくそのまま吉原にみせたところ、意外にも「おまえは天才や」と大絶賛される。気を良くした嶋本は穴の絵画を量産するが、それをみた吉原は「これはもうみた」といったきり、見向きもしなかったという。いうまでもなく、フォンタナが「空間概念」を発表したのとほぼ同時期、'50年代前半のことである。

村上が指摘するように、オリジナリティをめぐる吉原と嶋本との息詰まるような応酬のうちに、「具体」の芽は着実に胚胎しつつあった。しかし一方、吉原のやり方に疑問を持つメンバーが決して少なくなかったのも事実である。ひとつには、吉原があまりにも独裁的で、また作品の出来栄えに非情なまでに厳格だったこと。機関誌の刊行に熱心なわりに、一向に展覧会をする気配が無かったこと(*6)。さらに同時代の他の美術団体と比べて理論武装が未熟だったことなどである。

理論武装については、吉原が作品に文学性を持ち込むのを忌避したことと表裏一体だった。作品は自立していなければならない。「何かのために」制作したり、作品が他の何物かを指し示すような事態を、彼はよしとしなかった。一方、例えば同時代に関西で結成された「デモクラート美術家協会」などの場合、戦後の貧しい社会状況における美術の役割、位置づけに対する問題意識が明確だった。「具体」は理屈でなく、作品そのもので勝負する、というスタンスだったわけだが、「デモクラート」との論争の席上、何を尋ねられても「吉原先生と同じ意見です」とおうむ返しにしかできないメンバーの有り様に、愛想を尽かす者が出てくるのも分からないでもない。

かくして、17名の創立メンバーのうち、まもなく約半数が脱退してしまう。存続の危機に立たされた「具体」は、1955年嶋本を使者として「ゼロ会」に送り込み、その誘いを受けた「ゼロ会」は発展的に解消、白髪夫妻、村上、金山、田中は「具体」に合流した。

・時間と空間

「ゼロ会」の吸収合併は、「具体」にとって極めて効果的なカンフル剤となった。吉原は吉原で、次々と過酷な試練をメンバーに課していった。他でもない、野外や舞台など、通常の展示空間とは異なる場での発表である。以降の「具体」の大幅な飛躍については、方々で言及されているとおりである。要約すると、それは時間と空間に対する鋭い意識の目覚めということができるだろう。

野外展に際し、従来の展示空間のために構想された絵や彫刻を単に持ち込むだけでは無意味であることを、彼らの多くが理解していた。ここで彼らは、あたりまえに考えていた絵画空間というものを、脱構築する必要に迫られたのである。例えば、白髪の「どうぞお入り下さい」は、列柱の内側を斧で傷つける行為の激しさが印象的であるが、観客が丸太の内側に入り、行為の痕跡を360°のエンドレスな画面としてみることが意図されている。また、白髪富士子の「白い板」は、よく誤解されるような立体造形では全くない。その意図するところは、天空に裂け目を入れるという、単純だが壮大な二次元作品なのである。屋外のための作品ではないが、田中の「ベル」に至っては、作家は当然のようにこの作品を第3回ゲンビ展の絵画部門に出品している。観客がスイッチを押している間、ベルの音が配線の順番に移動していくこの作品は、サウンド・インスタレーションの先駆かと思えるが、実は絵画からその空間性「のみ」を抽出するという無謀な試みに他ならない。

今までにない絵を実現するには、今までにない方法論を開拓しなければならない。初期「具体」においては、ありとあらゆる描画方法が総動員されている。白髪は己の全身を絵筆と化し、大量の泥の山に飛び込んだ。村上も同様に、全身でハトロン紙=絵画空間を突き抜けた。嶋本は10メートル四方の巨大な絵画を、大砲を用いて一瞬で描き上げてしまった。こうした奇矯ともとれる行為の数々は、評論家の眉をしかめさせ、三面記事の記者たちを喜ばせた。文字通り、「具体」の制作はスキャンダルであり、社会的な事件だったのだ。文化面ではなく、主に社会面の取材に応じて制作の様子を公開し、露出する過程で、制作プロセスの肥大化は彼らに新たな問題意識を芽生えさせる。描く行為そのものも、作品の一部なのではないか。すなわち、空間芸術における時間性の問題である。舞台空間を使用する前代未聞の展覧会は(1957、58年)、いわば必然の帰結だったといってよい。

しかし当時の彼らは、自らの作品を定義づける概念を持ち合わせていなかった。ハプニング、パフォーマンス、アクション、インスタレーションなどの言葉が一般化するのはずっと後のことである。意外に聞こえるかもしれないが、彼らにとってすべては絵画だった。いや、絵画ということばの響きは、いかにも研究者や評論家向けであり、少々硬すぎる。彼らは、今でも自らの作品のことをしばしば「絵」と表現する。関西弁で発音すると「えぇ」であり、おおらかな音感が暗示するように、それはフォーマルに規定された矩形のキャンバス内に限定されるものではなかった。

あれも「えぇ」、これも「えぇ」。作品は二次元の絵画空間を逸脱して現実空間を浸食し、さらには仮想空間へと広がりはじめる。そこでは、どんな荒唐無稽も許容される。精神の絶対の自由が保証されたフィールド、それこそが「具体」における「えぇ」に他ならない。それは第二次大戦中の全体主義に対する反動のエネルギーでもあっただろう。また、彼らが子どもの絵に敬意を払い、むしろ彼らから学ぼうとしていた点も見逃せない。既成概念に縛られず、白紙=ゼロの状態から物事をやすやすと発想できる自由さこそが、彼らには重要だったのだ。

・南天棒

ゼロ=無に豊饒を見出す態度は、必然的に禅に代表される東洋思想を想起させる。ただ我々日本人は、一般的にそれらを語ることに慎重である。相当に西洋化(アメリカナイズ)の進んだ日本社会にとって、それはともするとリアリティを持ちがたい、というのがひとつ。一方、少数派ではあるが、より禅を深く理解する人々は、安易な言語化を遠ざける。彼らは「語りえぬもの」への畏敬の念を忘れないだろう。

「具体」のリーダー吉原治良もまた、安易な言語化に対して用心深い人物だったが、蔵書をみる限り、彼が特に東洋思想に傾倒していた痕跡は認められない。吉原はむしろモダニストであり、その財力を背景に、当時としては驚くほど大量の美術書を西欧から買い求めていた(*7)。ただし、その画業を解き明かしていくと、思いがけずある禅僧との接点が浮上する。

実は吉原家の宗派は禅宗であり、西宮市の臨済宗寺院、海清寺の檀家である。かつてこの寺には、南天棒という著名な禅僧がいた(*8)。豪快な逸話に事欠かないこの僧の、これまた豪放このうえない書や墨画が、この寺には多数残されている。いくつかは特大の筆で書かれたものらしく、制作途中で墨が画面に粘着すると、筆を蹴飛ばして書き続けたという逸話も残されている。ある意味、南天棒はアクション・ペインティングの先駆者なのである(fig. 1)。

「クラインの墨の流れた美しさ、ポロックのエナメルのトバッチリ、それとこの墨のトバッチリはそれだけ見ても共通した魅力がある」(*9)。「具体」結成以前の1952年4月、吉原は南天棒の書と出会い、その大胆な墨の飛沫に着目する。後に、彼は「具体」のメンバーと共に同寺を訪れ、空間芸術に胚胎する時間性の問題について語ったという。南天棒は、彼らが行為を重視した表現を生み出すための、もうひとつの栄養源だったのだ。

一方、吉原のアンフォルメル作品は、東洋絵画における時間性の問題を抽出し、造形的に昇華させる試みだったといえる(fig. 2)。彼はしかし、絵具の飛沫までも偶然に任せず、構築しないと気が済まないタイプの画家だった。世代の相違かもしれないが、他のメンバーのように、絵画が成立する諸条件を脱構築するには至らなかったのである。タピエとの接触により、メンバーが飛躍的に絵画の強度を増していくなか、吉原は本質的な矛盾を抱え込んだまま一種のスランプに陥る。リーダーでありながら自らの作品が最良でないという事実は、目利きであるがゆえに、余計に彼を苦しめた。

第16回具体美術展(1965年10月)において、初めてハード・エッジの「円」を発表した吉原は、ようやく桎梏から解き放たれる(fig. 3)。それは意外にも、あれほどまでに彼がこだわり続けた、絵画における時間性を隠蔽することで成立している。禅僧による円相との表層的な類似を指摘されがちだが、実際には、それはむしろ東洋美術からの影響を断ち切った結果なのである。この大胆な変貌の背後にあるもの、それこそ、1965年のヌル国際展に他ならない。

・隠された事実

ヌル国際展のために渡欧した際、吉原は滞在先のオランダやパリから「具体」の一同に当てて手紙を書き送っている。現在は芦屋市立美術博物館で整理作業が進められている吉原治良アーカイヴに保管されており、これを読むと、非常に興味深いエピソードや、冒頭の凱旋報告では意図的に語られてない事実があることが分かる。

まず面白いのは再制作の様子である。実はヌル国際展は、初期「具体」の仮設的な作品、今でいうインスタレーションが海外で再制作された初めての機会であり、他のメンバーの作品を、吉原父子が本人たちの代わりに現地で制作する必要があった(fig. 4)。

それら初期作品が初めて発表された'50年代、「具体」のメンバーは皆、決して裕福ではなかった。広大な野外、あるいは舞台空間に対抗する作品を成立させるために、彼らは安価で大量に手に入る素材を探すところから始めねばならなかった。逆説的に、それは彼らの物質に対する直観を養うことになるのだが。

規格化された工業素材を求めて、彼らは画材屋よりもむしろ、大阪の松屋町や神戸の高架下などの卸問屋街を徘徊した。村上の紙破りのためのハトロン紙、元永の水のインスタレーションのためのポリエチレン・チューブ、田中の強烈な色のサテン生地など、こうした単純な素材ほど、国ごとに規格や仕様が異なる場合が多い。当方が知る限りでも、村上のハトロン紙は原産国によっては化学素材が練り込まれている場合があり、日本のもののように乾いた炸裂音が出にくい、あるいは丈夫すぎて破れにくい。元永の水は、ヨーロッパの硬水だとインクが溶けずに分離してしまうことがよくある、などなど。意外なところで、「具体」の作品は日本の地域性に依存しているのである。

吉原の書簡には、材料調達をめぐる苦労談が繰り返し綴られている。他にも言葉の壁の問題や、作業員が思うように確保できずやきもきする様を読んでいると、'80年代半ば以降の海外での回顧展におけるドタバタの状況とあまりにも酷似しているのに苦笑させられる。

吉原の書簡から読み取れるさらに興味深い事柄、それはタピエとの距離感である。アムステルダムに赴く際、当然吉原は「恩人」タピエにその旨を連絡していた。彼としては、ヌル国際展のオープニングという晴れ舞台で、タピエと旧交を暖めるつもりだったようだが、その反応は予想外に冷たいものだった。オランダを切り上げて早くパリの自分と合流するように催促された吉原は、搬入作業の合間をぬって、急遽パリで一夜を過ごし、すぐさまアムステルダムへとんぼ返りしている。この短いパリ滞在中に、吉原は初めてタピエが「ゼロ/ヌル」を嫌っていることを知るのである。

「パーティにはアペル夫妻、タピエ、アメリカのブルトマン、鈴木タカシさん、クッシャー等知人も多く楽しかった。/タピエと話して、彼が0グループを嫌っていることを知った。絵をもって来ている話をしたらオランダはやめてスタッドラー画廊で6月に具体展をやることになった。(このことはあとでかく)アペルは日本へ来年も来る。ピナコテカでも個展をやるだろう。彼は大変感じがいいしオランダではただ一人の国際級の大画家のようだ。みんなでアペルを押し出している感じさえある。」(*10)

ここで注目されるのは、絵画作品の出品に関するくだりである。ヌル国際展に際して、初期作品の再制作のみならず、吉原が平面作品、つまり当時の「具体」の新作を出品するつもりだったことは、これまで全く知られていなかった。ちなみに、パリのタピエを表敬訪問する直前、吉原の書簡には次のような一節がある。

「荷物は空港に土曜日に着いているが、まだ美術館へは届けてくれていない。ペインティングは原則的には陳列しないというが、なるべく陳列させたいと思う。(数は少なくとも)」(*11)

「荷物は美術館へ漸く届いた。立体作品の出品者のものだけ絵も一点づつ並べることを承諾させた。山崎さんのものだけ絵の匂いが強すぎる感じでやめることになるかも知れぬ。ほかのものはどうにか合わないこともなさそう。山崎のものも絵としては悪くないのは勿論だから誤解ないよう。浮田のものはくっついて全然だめ。アメリカの時を思い出す。やや恰好が悪い。白髪は案外無事。ほんの少し絵のぐが押しつぶされていた。(目立たぬ程度)それすら荷物部で大騒ぎ。」(*12)

文面からは、「具体」の新作絵画を陳列するかどうかで、「ゼロ/ヌル」側との間で押し問答があった様子が窺える。結果的には、平面作品はすべてキャンセルされたのだが、この一件について、オランダの「ヌル」のヘンク・ペータースも実は書き残している。大阪から到着したクレートを開梱した「ゼロ/ヌル」の作家たちは、わが目を疑った。それが「具体」の作品だとはにわかには信じがたかったのである。中から現れたのは、典型的なアンフォルメルのペインティングだったからだ(*13)。

ここでタピエ−「具体」−「ゼロ/ヌル」の相関図が浮かび上がる。「ゼロ/ヌル」が目指していたのは、表現主義などに顕著な主観性、身体性の否定である。パターン化された画面構成、光や運動などへの関心は、いわばアンフォルメルを克服し、その次段階を目指すもので、彼らが敬意を払ったのは自らの先駆者としての「具体」のはずだった。ところがタピエに見出されて以降、'60年代の「具体」は皮肉にも「ゼロ/ヌル」が最も嫌悪するところの、アンフォルメルの王道を突き進んでいたのである。ちなみに、吉原が具体ピナコテカでの個展まで考えたアペルだが、同じオランダのグループ「ヌル」は、表現主義的な「コブラ」を嫌悪していた(*14)。

「ゼロ/ヌル」との接触を経て、吉原はある種の時差を痛感したに違いない。前述したとおり、ヌル国際展を境に、吉原自身、そして「具体」そのものも大きく変貌する。吉原はハード・エッジの「円」を発表、「具体」はライト・アートやキネティック・アートの新人を大量に受け入れ、大きく様変わりする。しかし国内においても、テクノロジーと結びついた表現傾向はもはや「具体」のみの専売特許ではなかった。それらは1970年の大阪万博へと収斂する、より大きな「環境芸術」の流れに位置づけるべきものである。

・物質から現象へ

「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を與えるものだ。具体美術は物質を偽らない。/具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまゝ、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のまゝでその特質を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ。」(*15)

吉原が1956年に執筆した「具体美術宣言」の有名な一節である。まず注意せねばならないのは、この宣言が執筆された時期である。1956年10月、第2回具体美術展の頃であり、すでに二度の野外展を経験し、破天荒な作品が一通り発表された後である。つまり彼らは、明確な理念のもとに制作した訳ではなく、とりあえず手当たり次第にやってみた結果にもとづいて、自分たちが一体何をしでかしたのか言い当てるべく、事後に言語化したのがこの宣言なのである。

まず読み取れるのは行為と物質の問題であり、それに関連する展覧会は既に複数試みられている。大規模な国際展としては1998年にロサンゼルスのMOCAが組織した「アウト・オブ・アクション」が記憶に新しい。いうまでもなく行為の痕跡の問題にフォーカスしたもので、クラインやフォンタナと「具体」との関係がクローズアップされる一方、「ゼロ/ヌル」はまったく蚊帳の外である。このねじれ現象をどのように理解すればよいのだろう?

再度、宣言に目を通してみると、後半部分に次のような一節が現れる。「体全体で味わう芸術、触覚の芸術、具体音楽迄ある」…強調されているのはある特定の方向性というよりも、実はむしろ何でもありの多様性なのである。「具体」における最重要課題はオリジナリティであり、それぞれが遠心的にバラバラな方向に突き進むのは、ある意味必然だった。

考えてみれば、冒頭で述べた海外からの「具体」に対する評価は、あまりにも多様なその活動の中から、それぞれある特定の側面に着目するものだったのではないか。タピエが注目したのは平面作家集団としての「具体」である。事実、今日ならアクションやインスタレーションと見なされ得るその作品群も、ほとんどの場合平面作品の思考回路に根差していた。一方のカプローは、芸術と日常との境界を無化するかのような彼らの行為に着目し、ハプニングの先駆的表現をそこに見出した。

ならば、「ゼロ/ヌル」が「具体」に見出したものは、一体なんだったのか。それは「具体」のもうひとつの側面である、「現象への眼差し」ではなかったか。

オリジナリティの追及は、従来は美術の素材とは考えられなかった物質へと向かい始める。ありふれた日常的な素材の他、彼らはポリエチレン・チューブ、セロテープ、テープレコーダーなど、当時一般に出回り始めた新素材や機材を、競い合うように試している。今日からみると「具体」の作品は非常にプリミティブにみえるのだが、実は当時としては非常に目新しい素材が使われている場合が少なくないのである。

素材は現象と密接に関係する。元永はポリエチレン・チューブと出会うことで、水と重力が形作るフォルムを作品化する。彼の「煙」も、煙草の煙が形作る輪を極端に拡大したものに他ならない。山崎つる子はそれ自体固有の色彩を持たない金属や鏡といった硬質な素材を偏愛し、必然的に光の反射を作品に取り込むことになる。人間の矮小な意図のもとに物質をコンポジションするのではなく、その本来の特性を露呈させ、むしろ作家はそこで発生する現象を注意深く見守る。ヘンク・ピータースがまず着目したのが、元永の「水」の記録写真であったことは象徴的である(fig. 5)。

・虚空を満たす美術

最後に、いま一度南天棒に戻ろう。吉原は初期「具体」に対して、自らが試みた造形的な方法論とは別の次元で、実は禅的アプローチを応用していたのかもしれない。まずは、言語的な思考の徹底排除である。前述したとおり、吉原は作品に文学性が宿ることを何よりも忌避した。「具体」の作品タイトルが、ほとんどの場合「作品」や「無題」であるのも、そのことを反映している。さらに、若い作家たちが彼に批評を乞う時、彼が発することばは「ええ」「あかん」のほぼ二つに限られ、「人のまねをするな」「今までになかった絵を描け」とのみ要求した。懇切丁寧に教え導くというよりは、既成概念を打破し、自ら発見を促すようなコミュニケーションのあり方は、禅問答を応用した一種のブレーン・ストーミングを思わせる。

ただ注意しておかねばならないのは、吉原が意図的に禅を参照した訳ではない、ということだ。それは、ある時代までの日本の知識人が身に付けていた教養や常識に基づくものと捉えるのが妥当である。ただ禅における論理的整合性や予定調和の否定と、「新しさ」に価値を見出すモダニストとしてのあり方には、時代を越えて響きあう何かがあったのだろう。

1965年以降も、「具体」はオランダのグループ「ヌル」のヘンク・ピータースとしばしば接触している。翌年4月のヌル国際展の際は村上三郎がデン・ハーグに赴いており、また同年計画された「ゼロ・オン・シー」という臨海・海上での野外展にも作品プランを送っている(実現せず)。さらに1972年1月、アムステルダムでの「フロリアーデ」会場での空中展に「具体」が参加する話が持ち上がるが、オランダ大使館と電話で打ち合わせている最中、吉原は突如倒れた。その時、彼が思い描いていた光景、虚空を満たす美術とは、果たしてどのようなものだったのだろう(*16)。

吉原の死によって、「具体」は18年に及ぶその活動に幕を下ろした。葬儀は、南天棒の寺、海清寺にて執り行われた。戒名は「秀徳禅院圓良恵居士」だった。

やまもと・あつお/滋賀県立近代美術館 学芸員

・本稿は"ZERO Internationale Kunstler-Avantgarde der 50er/60er Jahre" Stiftung museum kunst palast, Dusseldorf, 2006 のカタログ論文の原文に、一部手を加えたものである。

『滋賀県立近代美術館 研究紀要 第6号』滋賀県立近代美術館(2006)

*1 吉原治良「風変わりな作品群(アムステルダム美術館)」『毎日新聞』1965年5月27日
*2 カプローが「具体」のメンバーと初めて出会ったのは、実に約30年後、1993年のヴェネチア・ビエンナーレの際である。ようやく巡りあった作家たちをみて、「昔の写真と比べると確かにみんな老いたが、眼の輝きは子供のままだ」と感想を述べたという。
*3 日本には、他にも「ゼロ次元」(加藤好弘、岩田信市を中心に、1963年に儀式集団として始動)、「ジャパン・コウベ・ゼロ」(1970年、榎忠を中心に結成)などがある。
*4 ヌル国際展の際、吉原は1956年の野外具体美術展に出品した「落書板」のバリエーションを出品している。新品のキャンバスを3点設置し、"You can paint"という作品名を表記した観客参加型の作品である。金山の新品のキャンバスとはコンセプトがまったく異なるが、金山にとってはこの作品についてやや複雑な思いがあるようだ。
*5 村上三郎「『具体』は『具体』である」『日本のダダ』書肆風の薔薇 1988年
*6 第1回具体美術展が開催されたのは1955年10月であり、グループの結成から1年以上が経過していた。
*7 リーダーの吉原は「吉原製油株式会社」の社長を務めていた。
*8 本名は中原トウ州(1839〜1925)。佐賀県唐津の生れ。明治期を代表する禅僧のひとり。
*9 吉原治良、須田剋太、晴見老師、麻生恵三、山田與三吉、森田子龍、有田光甫(司会)「南天棒の書」『墨美』第14号 1952年7月
'50年代の関西では、美術、書道、工芸、ファッション、デザインなどジャンルを越え、前衛の第一人者と若手作家たちとの交流が盛んであった。代表的なものに「現代美術懇談会」(通称「ゲンビ」)がある。
*10 吉原治良がアムステルダムから「具体」グループに宛てた書簡、第二信 1965年4月9日付け
*11 前掲書10、第一信 1965年4月6日付け
*12 前掲書10、第二信 1965年4月9日付け
*13 Henk Peeters "Wat betekend "Gutai"?" Gutai Group Osaka Japan, Experiement Studio, Rotterdam, 26 Mai - 8 July 1967
*14 「具体ピナコテカ」は吉原所有の古い土蔵を改装し、1962年に開館した「具体」グループの展示施設である。なお、アペルの個展は実際には実現しなかった。
*15 吉原治良「具体美術宣言」『芸術新潮』1956年12月号
*16 アムステル川のほとり、約50メートルにわたり、変形バルーン約10点を掲揚、地上に約5点の関連作品を展示することが構想されていたらしい。1972年3月30日のオープンをめざしてプランはかなり具体化されていたようで、メンバーによるアイデア・スケッチも残されている。

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