《泥にいどむ》と初期「具体」の作品構造─「アール・ブリュット」と「童美展」の比較を通じて─

1.泥にいどむ


白髪一雄の《泥にいどむ》[uu1] (1955〔昭和30〕年)はしばしば初期「具体」におけるアクション的な側面を象徴する作品として位置づけられる。しかし、実際にこの作品を眼にしたものはごくわずかである([1])。同時期の「具体」には作品の永続性に頓着しない例が多く、回顧展の際などにどこまで再制作を認めるかが争点となるのだが、《泥にいどむ》は最もそれに馴染みにくい作品のひとつである([2])。実作に接するのが事実上不可能な一方、大量の泥のなかでパンツ一丁の白髪がのたうち回るスキャンダラスな画像は一人歩きし、ともすると誤解を生み出してきた。

かつては《泥にいどむ》を自立したパフォーマンスとみなす誤解が散見された。すでに再々指摘されているとおり、白髪は本質的に平面作家であり、行為の痕跡である泥の塊が、第1回具体美術展(1955〔昭和30〕年)の会期中キャプションとともに“展示”された事実からも明らかなとおり、この作品は基本的には全身を絵筆代わりに用いた絵画作品である。確かに、結果物の永続性がほとんど問題にされていない一方、制作における行為の比重が肥大化しているが、この時点では、白髪に限らず制作プロセスそのものを作品視する姿勢はまだ曖昧である。その奇抜な制作方法に目をつけたマスコミの度重なる取材に辟易したメンバーは、翌年の第2回具体美術展ではプレス招待日を設定し、より効率的に取材に対応した。外的要因に応じて制作過程を露出していくなかで、彼らはプロセスそのものの重要性をより意識し始める。それがひとつのかたちに結実するのが、1957(昭和32)年の「舞台を使用する具体美術」である。

もうひとつは、その身ぶりの荒々しさが、ともすると“体制批判”に結びつけられやすい点である。実際には「具体」はむしろ徹頭徹尾ノンポリである。その背景として、リーダーである吉原治良が作品に文学性を持ち込むのを忌避したことや、関東(東京)と関西(阪神間、大阪)の風土の違い、政治に対する温度差などが指摘できるだろう。イデオロギーがものの見事に欠落しているがゆえに、「具体」は金持ちの道楽とみなされ、批判の対象となった([3])。こうしたニュアンスは、海外からみると一層わかりづらいようである。


「(筆者註:村上三郎の《6ツの穴》に対する言及)アーティストが絵画面を突き抜ける様は、西洋、東洋双方における美術の伝統を攻撃するものであり、と同時に、原爆による人間性の根本の破壊に関するメタファーでもあった」([4])


「ジャン・ユベール・マルタン:具体は社会的あるいは政治的な観点を持っていましたか?

白髪一雄:それは全然ないです。純粋造形的なものしか目指していなかったです。政治イデオロギーというものは否定していました。今でも僕らはそうなんじゃないかな。それをわりとたたかれましたね。金持ちの遊びやと。

マルタン:自分が日本で聞いた話では、具体は政治的なものだったと感じている人が多いのですが、当時具体を知っていた人たちのなかには、そういう風に考える方もいらしたのでしょうか?

白髪:具体以外の、例えば東京を中心とする画壇の新しい傾向は非常にプロレタリア・アート的だったんです。そのなかへ具体がうってでたわけですよね。東京で展覧会するくらいに。だから余計たたかれたんです。何の思想もないといわれたんです。

マルタン:具体はある意味暴力的というか、非常に激しくて攻撃的な感じがするのですが、何かに対する反発というようなものはあったのでしょうか?

白髪:それは時代のせいではないでしょうか? というのは、ポロックなんかがやったこともそうみえると思うし、フランスではマチウのやった仕事もそうかもわからないし。だけど、抽象画というものを結局破壊するというか、つくり直すというか、そういう段階にきてたから我々がそれをやらなしゃあなかったんで、結果的にそういう風にみえたんじゃないですかね」([5])


白髪の《泥にいどむ》にしろ、村上の一連の紙破り[uu2] にしろ、多くの場合、初期「具体」の作品は絵画の概念をはみ出すぎりぎりのところまで拡張されたものとみなすことができる。支持体=物質に対して、しばしば作家が肉体もろとも激しく関わりあうのだが、それが暴力や攻撃性といった、対象を激しく否定する身ぶりと捉えられがちである。ところが当の作家たちには政治的な意図は皆無であり、旧来の美術を否定する意図はあるにしろ、それが作品の核心を為しているわけではないことを、まずは確認しておきたい。



2.周縁への眼差し


《泥にいどむ》をはじめとする初期「具体」の実験的な作品群に内在する興味深い問題をあぶり出すために、あえて寄り道をしてみたい。参照するのは「アール・ブリュット」と「童美展」である。いうまでもないが、「アール・ブリュット」はフランスの美術家ジャン・デュビュッフェが1945(昭和20)年に提唱した概念である。彼は精神障害者や霊媒をはじめとする、正規の美術教育を受けていない人々がうみだした表現のなかに、職業芸術家のそれよりもむしろ真の芸術性が宿っている場合があることを見いだした。周知のとおり、彼が蒐集した作品群は今日スイスのローザンヌにあるアール・ブリュット・コレクションに収蔵されている。他方の「童美展」[uu3] は児童画の公募展であり、1948(昭和23)年吉原治良が代表を務める芦屋市美術協会が主催し、「第1回阪神間童画展覧会」として開催されたのがその起源である。1950(昭和25)年より「童美展」と名称を変え、当初は小学生以下、後に就学前の児童を対象とした公募展として半世紀以上開催されてきたが、残念ながら第58回展(芦屋市立美術博物館、2008〔平成20〕年12月6-14日)をもってその歴史に幕を下ろした。

個人的な感想で恐縮だが、過去の様々な受容体験のなかでも、筆者にとって「アール・ブリュット」と「童美展」は双璧をなしている。ただし筆者は「アール・ブリュット」に関して、原則としてデュビュッフェ自身の審美眼で選び抜かれた作品群に限定し、その死後コレクションに加えられたものや、いわゆる「障がい者芸術」、「アウトサイダー・アート」などとは厳密に区別する立場である([6])。また「童美展」についても、大多数の子どもの作品展の類いとは全く性質の異なる、別次元のものである。本稿では、あくまでもデュビュッフェや「具体」といったアーティストの美意識と、周縁領域の表現とが出会うことで生じた“化学反応”を議論の対象とする。

読者のなかにもローザンヌのコレクションに衝撃を受けた人は少なくないと思うが、「童美展」については残念ながら日本の美術関係者でさえ実際眼にした人は決して多くはないだろう([7])。筆者が初めてみたのは、まだ芦屋市民センターが会場だったころだ([8])。審査は原則的に芦屋市美術協会、事実上もと「具体」のメンバーによって行なわれていた。知識としては、「具体」の作家たちが特にその初期に子どもの絵に深い関心を示し、あるいは彼らに絵を教えることで生活費の足しにしていたことは知っていた。しかし、様々な色彩や素材で埋め尽くされた会場が放つすさまじいエネルギーは予想をはるかに越えるものだった。厳しい選択眼に基づいた(はずの)美術館での展覧会と、例えば公民館で開催されるような子どもの作品展に対して、正直なところ、ふだん筆者は無意識のうちに評価基準をギアチェンジしている。しかし「童美展」にはそういったダブル・スタンダードは全く無用であり、逆にみるものの価値基準は大きく揺さぶられる。その震度の大きさにおいて、ローザンヌと芦屋市民センターでの受容体験は突出していたのである。

さらにいうと、「童美展」の会場の雰囲気には、同時期に芦屋市立美術博物館で開催された初期「具体」の回顧展とどこか共通するものが感じられた。村上三郎の紙破りが行われたかと思うと、田中敦子の《ベル》がけたたましく鳴り響く、五感すべてが揺さぶられるような空間。そこに充溢していたのは、各自がそれぞれの発想を、その鮮度が落ちないうちに素早く具体化する、一種の加速度が縦横無尽に交錯するような感覚である。もちろん回顧展であるから、当然ある種の欠落や鮮度の劣化を抱え込まざるを得ない。しかし、もどかしくて推敲などしていられない、そんな性急さに満ちた「童美展」の作品群は、そうした欠落を脳内補完し、初期「具体」の熱気やリアリティを追体験するうえで最適かつ不可欠だと感じられた([9])。

20世紀のアヴァンギャルドがしばしば障害者、霊媒、フォーク・アート、ナイーフ・アート、児童画など、周縁領域の表現活動から活力を得てきたのは周知の事実である。「アール・ブリュット」も「童美展」もそうした一連の流れに位置づけられるのであり、必然的に両者には様々な共通点が見受けられる。まず、実際の作品を体験しないことには、その水準が理解しにくいこと。メディアで濾過されることで失われるアウラの比率が大きいのか、“通常の”美術作品以上に、どういうわけか印刷されたイメージと実物との落差が極端なのだ。さらに鑑賞体験によって引き起こされる知覚や思考のパターンも酷似している。まずは圧倒されてことばを失う。不意打ちを食らわされたように、心の準備が追いつかず、狼狽してしまうのだ。感覚は強烈に揺さぶられ、遅れてきた思考はなかなか像を結ばない。「これらの強度は認めざるを得ない。でもこれが美術だとしたら、これまで見てきたものは何なのか」……わき上がるのはむしろ「美術とは一体何なのか」という根本的な疑問なのである。

一方、大きな違いもある。「童美展」の会場は「どんな些細なことでも美術になり得る」あるいは「世界はそのままで美しい」といった一種のポジティヴさに満ちている。色彩とテクスチャーの洪水に飲み込まれながらも、視界が開け、元気が沸いてくる。それに対して「アール・ブリュット」をみた後に元気がでる人はあまりいないだろう。「アール・ブリュット」を鑑賞することは、心の奥底の、みてはならない禁断の領域をのぞくような行為であり、必然的に後ろめたさや心の動揺を伴う。精気を吸い取られ、疲労困憊してしまうのだ。

「アール・ブリュット」と「童美展」の相違点をさらに精査するには、それぞれの作品受容のプロセスがどのように成立しているのか分析する必要がある。両者に共通するのは、つくり手自身には作品を発表して社会にその評価を問う意識が極めて希薄、あるいはまったく欠如している点である。従って、通常の美術作品とは異なり、多くの場合作品と社会とを橋渡しする第三者なしには作品の受容が成立しない。

「アール・ブリュット」の場合、つくり手本人には作品を発表する意志が皆無であったり、そもそも自分がつくっているものが美術作品だと認識しているかどうかさえ怪しい場合が少なくない。ヘンリー・ダーガーと家主ネイサン・ラーナーとの関係が典型的だが、作品を見出して世に出す役割を担う第三者がいなければ、それらが受容される機会は永久に失われたままである。一方、つくり手自身はそもそも社会とうまく関係性を保てず、また他人に干渉されることを拒む傾向があるため、第三者の役割はあくまでも“発見者”にとどまらざるを得ない。作品の制作過程や創作のモチベーションにまで他人が立ち入るのは原則的に不可能である([10])。

ここでつくり手と第三者のあいだに存在するのは「みる」「みられる」という関係性である。それは自他の間に明確に一線を画して対象化する態度、いわばデカルト的な二元論的思考である。ただし後述するとおり、「アール・ブリュット」の作品においてはしばしば常識的な規範から逸脱した独自の世界観=意味体系が現出している。したがって「みる」「みられる」という関係性は、互いに理解不可能な“ディスコミュニケーション”に陥らざるを得ない。越えられない壁の向こう側の理解不能な世界、それこそが「アール・ブリュット」作品の最大の魅力である。それは、いわば西洋的な二元論的思考に介入するノイズのようなものかもしれない。

一方「童美展」に出品される子どもの絵の場合はどうだろう。つくり手に作品発表の意識が希薄なのは同様である。ところが筆者の知る限り、子どもが自発的に注目すべき作品をつくり出す例はほとんど皆無に等しい。「アール・ブリュット」とは異なり、子どもを作品制作に“仕向ける”とともに、制作するうえでの環境づくりやモチベーションにより深くコミットする第三者が不可欠なのである([11])。

ただし注意しなければならないが、それが単なる“指導”、つまり一方通行や上意下達に過ぎないとしたら、そこから生まれる作品が「具体」の作家たちの琴線に触れることはあり得なかっただろう。「具体」の作家たちはしばしば子どもの絵画教室で教えているが、実際には彼らはむしろ「子どもから学ぶ」というスタンスである。ならば、制作現場におけるつくり手=子どもたちと第三者とのコミュニケーションとは、一体どういったものだったのか。


「子どもの制作行為を見守る彼女(訳者註:田中敦子)の眼差しや姿勢、身体の動き、それはまさに自分の制作行為と全く一緒、あるいはそれ以上のものだったかもしれません。(…)もちろん直接手を下すわけではないんですが、それが他人である子どもの作品なのか、自分のものなのかも、あの人のなかではもはやこんがらがっているわけです。指導とか、そんなものじゃないですね。(…)でも、それを彼女にいったら「へぇ、そうやった?」というかもしれません。それぐらい自分を無くした状態でやっていたんです。(…)仁川幼稚園でも、三ちゃん(訳者註:村上三郎)が現れると子どもがウワーッとたかっていったでしょう。あの人はそれを全部受け入れてました。それは親切心とか、そんなんじゃなくて、あの人の持ち味として、村上三郎として受け入れているわけです。だから、子どもとの境目がなくて、こんがらがってしまっている。そういう中で作品ができているということですね」([12])


「具体」の作家たちと子どもの絵を仲介する重要な役割を果した浮田要三の回想である。叙述にやや具体性を欠き、わかりづらい面もあるが、少なくとも田中や村上と子どもたちとの関係性は「みる」「みられる」というような、他者を対象化して認識するようなものではないらしい。自他の境界が曖昧な、ある特殊な空間のもとで、作品がうまれているのである。



3.世界との“出会い”


「アール・ブリュット」の蒐集過程で、デュビュッフェは子どもの絵にも興味を示していたようだ。参考資料的なものだと思われるが、ローザンヌのアール・ブリュット・コレクションにも実際に子どもの作品[uu4] が収蔵されている([13])。また、アール・ブリュット・コレクション初代館長のミシェル・テヴォーは子どもの発達過程を大きく三段階に分類し、「アール・ブリュット」との比較を試みている([14])。


1)紙と鉛筆がこすれ合う触覚性、および痕跡が残る面白さにとりつかれた殴り描きの段階。偶発性への依存度が高く、つくり手の主体的な意図に乏しい。

2)自らの意志で、より運筆をコントロールできるようになる。しかし具象的なイメージであっても、いわゆる常識的な規範にはとらわれない独創的な表現が見受けられる。

3)社会、両親ら周囲の影響のもと、より慣習的な表現や、コミュニケーション手段としてのイメージ操作を重視する段階。デュビュッフェが忌避したところの「文化」に汚染されはじめた状態だといえるだろう。


発達過程における子どもの絵の分類法には諸説あるが、テヴォーの分類はそれぞれ「錯画」「象徴画」「図式画」にほぼ対応するものと考えられる。ここで彼が最も注目しているのは2)象徴画である。発達段階において、常識的な規範にとらわれず独自の意味体系が構築可能なのはこの時期に限られており、ほどなく3)図式画へと移行してしまう。社会生活に適応するために誰もが通過するプロセスである。

ところがテヴォーによると、「アール・ブリュット」のつくり手たちは、大人になってからも2)象徴画の段階にとどまり続けるという。彼らは戦争体験など、何らかの要因で精神が危機的な状況に追い込まれ、世界との関係性が断たれてしまった経験を持つものが多い。それでも生きて行くためには関係を修復しなければならないが、彼らにとって現実世界があまりにも過酷であったり、無価値である場合、自身にとってのみ意味を持つ独自の世界体系を構築する必要に迫られる([15])。いわば世界の捏造であり、アドルフ・ヴェルフリやダーガーをはじめとして、つくり手自らしばしばその世界に君臨する支配者や神のごとく振る舞う例が多く見受けられる。全く独自の世界体系を構築する能力は、いわば人間の埋もれた可能性のひとつである。彼らは強固な意志と脅迫的な頑固さをもってその可能性をとことん追求するのである([16])。

ちなみに、アール・ブリュット・コレクションに収蔵されている児童画が仮に「童美展」に出品されたとして、入選する可能性は極めて低いといわざるを得ない。参考までに「童美展」の会場風景および入選作[uu5] の一例を挙げておくが、ローザンヌの児童画との相違は明らかであろう。前述したとおり、「童美展」がその歴史の過程で“就学前の児童”に応募資格の年齢を引き下げたのは象徴的である。幸運にも、当方が芦屋市立美術博物館に勤務していた間、何年かその審査に立ちあう機会に恵まれたが、0歳児の錯画は最強であり、文句なしに入選だった。つまり「具体」の作家たちの興味の対象は1)錯画および前期2)象徴画に明確に限定されているのだ。「アール・ブリュット」においては概念構築の独自性が問題視されるのに対して、「具体」の場合は概念化そのものが否定される。必然的に前者では具象、後者では抽象の比率が高くなっている。

つまり「具体」においては、世界との関係性ではなく、世界との思いがけない“出会い”こそが問題なのだ。意味や価値の体系が構築される以前の、いまだ言語化されざる存在そのものとの、予断を許さぬ衝撃的な出会い。極論すれば、彼らは子どもたちの作品にむきあうとき、色やかたちといった造形上の問題にのみ執着していたわけではない。己を白紙にして世界に向き合うなど、成人にとってはもはや不可能に近い。それをいとも簡単に成し遂げてしまう子どものあり方に、彼らは驚異と賛嘆の目を向け続けた。「童美展」の最大の意義は、まさにこの点にあるといえるだろう。

「童美展」においては、子どもたちが言語によって世界を意味付けし、分節化して認識する以前の表現が重視されている。つくり手と世界とが「みる」「みられる」といった関係性によって対象化され、分断されるのではなく、自他の境界がより曖昧な状態、あるいは世界と自己とが個別でありながら同時に一体であるような状態である。そう考えたとき、「具体美術宣言」の有名な一節が、よりリアリティを帯びて響いてこないだろうか。


「具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまま、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のままでその特質を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ」([17])


自我に目覚めることで、対象化された世界と向き合うこと。それは我々が世界から孤絶した存在であると自覚することであり、孤独や恐怖と表裏一体である。一方、自我への固執を白紙還元し、世界との同一化をはかること、つまり主体と客体とを一元的に捉える態度は、仏教などの東洋思想に通じるものがある。


「僕達は今えのぐ(油えのぐにしろエナメルにしろ)の質をわい曲して用いたくない。それは、何度もくり返したが、質のない色など存在しないので、自然の再現やイメージの表現如何にかかわらず、あらゆる絵画の中で、絵筆に虚勢されながら、その美しさを保って来た所以であるからに他ならない。僕は先ず、えのぐを絵筆から解放してやるべきだと思う。制作するに当って、絵筆は折られ、捨てられなければえのぐの解放はありえない。絵筆を捨ててはじめてえのぐは甦るのだ」([18])


嶋本昭三の「絵筆処刑論」の一節である。長い美術の歴史のなかで、再現的な描写を目的として用いられることで、絵具本来の物質性は抹殺されてきた。今こそ抑圧者たる絵筆を抹殺し、絵具本来の物質性を解放しよう、という趣旨である。ある意味で絵筆は、作家と画面とを分け隔てるデバイスである。つまり、絵筆を用いる限り自己と世界とのあいだにはどうしても境界が発生してしまう。自己から分断されたものとして、絵画面=対象化された世界と向き合わざるを得ないのだ。

それを回避するにはどうすればよいか? 嶋本は「絵筆に代るべきものとしては、あらゆる道具を積極的に動員すべき」だと主張する。しかし最もラディカルな解答は、自己と世界の距離を無化することであろう。《泥にいどむ》は文字通り世界のただ中に身を投じる営為であり、“予断を許さない世界との出会い”を愚直なまでのストレートに実践したものである。もしかしたら、それは美術そのものさえ無化してしまうぎりぎり一歩手前かもしれない。それは肉体の空間的な記憶であり、究極的には白髪の存在証明に他ならない。ここでは「生きる」ことと「表現する」ことがかつてないほど肉薄し、ほとんど一元化してしまっている([19])。

それはしかし、あまりにも端的、本質的であるがゆえに、限界をも同時に含有していた。《泥にいどむ》は一度きりしか使用できない、いわば最終兵器のようなものである。究極解であるが故に、原理的にそれ以上の展開がまず不可能なのだ。皮肉にも、それは子どもの発達過程において、真の創造性が発揮できる期間がごく限られていることを連想させる。白髪は美術/社会に適応するために、絵画というフォーマットに回帰せざるを得なかった。そのことは彼がうみ出した幾多のフット・ペインティングの“絵画としての”評価を貶めるものではない。しかし、以降の彼の作品が、《泥にいどむ》からの距離で測定されてしまうことは逃れられない宿命であり、エントロピーの緩やかな下降やマンネリズムを回避できないこともまた必然だった。



4.仏教者としての白髪一雄


マンネリズム回避のため、白髪はたびたび作品に変化を持ち込んでいる。そのひとつに、猪の毛皮を画面にコラージュした一連の作品がある。最初の作品は1961(昭和36)年の第10回具体美術展に出品されたが、毛皮をなめすという知識が作家になかったため、作品は劣化し破棄されてしまった。画面は殺戮場面を連想させ、血なまぐさいものを好む白髪の一面が端的に表れている([20])。恐らく下手物趣味への傾斜や、作品にやや叙述的なきらいがあるため(猪を狩るという意味、物語性)、白髪の絵画に対してはほとんど否定的なことをいわなかった吉原が珍しく難色を示したという。

1963(昭和38)年の第13回具体美術展には再度猪革をコラージュした作品が2点出品されている。今度は毛皮にきちんと下処理が施され、作品はいずれも現存している([21])。このとき白髪は猪を自らの手で仕留めたいと考え、猟銃の免許を取得し猟友会にも所属した。実際にはうまくいかず市場で毛皮を買い求めるのだが、狩猟の道中、大阪府能勢町の街道沿いで彼は興味深いものと出会うことになる。

それは雄渾な梵字が描かれた石造の板碑であった。恐らく当初はカリグラフィー的な観点から興味を抱いたものと推測されるが、独自に梵字の研究を始めた白髪は、次第に密教の世界にのめり込んでいく。やがて1970(昭和45)年、比叡山麓の坂本の瑞応院に山田恵諦大僧正を訪ね、法華経、摩訶止観、天台密教などについて質問する機会を得る([22])。その熱意にうたれた恵諦は、弟子入りして修業するよう白髪に勧め、翌年白髪は比叡山横川の元三太子堂で得度し、法名「素道」を獲得、僧侶となった。1974(昭和49)年にはやはり元三太子堂で5週間35日にわたる四度加行という修業を経て伝法灌頂を受け、さらに翌年には比叡山大講堂において広学竪義を受けている。

白髪が僧侶となった比叡山延暦寺は天台宗の総本山であり、いうまでもなく空海が開いた真言宗とならぶ密教の二大宗派である。延暦寺は過酷な山岳修業で知られており、とりわけ千日回峰は荒行中の荒行として有名である。白髪が収めた修業はそこまで極端なものではなく、睡眠時間をけずることで記憶力を研ぎ澄まし、膨大な教典を丸暗記するプロセスが中心だったという。

ここで肉体酷使の問題が再浮上しているのは興味深い。初期「具体」当時の白髪の重要な問題意識のひとつがまさにそれであり、予定調和を排除し、極限まで肉体を酷使することで得られるものを彼は見極めようとした。肉体的な体験が精神の問題へとフィードバックされ、彼の表現を借りると「後天的な資質」を鍛え上げることになる。1955(昭和30)年の作品に、円すい形に組んだ赤い丸太を内側から斧で切りつけるものがある[uu6] 。切り傷による行為の痕跡を360°のパノラマ画面として提示することが意図されているのだが、切りつける行為からコンポジションの意識は排除され、むしろ疲労困憊するまでやりきることが最優先されている。


「本当のところ、おていさいぶった、便利だが弱いイーゼルなんかほうり出して、画面を壁に釘づけして斧でめった切りにして汗びっしょりのフラフラで心臓破裂の一歩手前ぐらいになるまでやって安楽椅子に倒れ込んだ時の気持ちの良さを知りたい為に描いてるみたいになっても良いと」([23])


同様の意識は《泥にいどむ》のほか、実は初期のフット・ペインティングにも見受けられる。具体的な年代は定かではないが、ある時点までは彼はあえて足下をみず、なるべく構図を意識しないように描き、己の肉体が納得した時点で作品の完成とみなしていた。そういう意味では、白髪が得度したのが、極めて過酷な修業で知られる延暦寺であったという事実には整合性が感じられる。両者の問題意識は、肉体の酷使が精神にフィードバックされるという点で響きあっているからだ。

1965(昭和40)年より、白髪は素足だけではなく、足にスキーや板切れをとりつけて描く手法を試みていたが、延暦寺での修業を終えたころから、作品に再び変化がみられるようになる。1975〜76(昭和50〜51)年ころの作品では画面の中央に板で一挙に大きな円が描かれるとともに、しばしば密教の緒尊から題名がとられている。'60年代の作品にも水滸伝の豪傑の名前がつけられたものがあるが、《作品》や《無題》では図柄が覚えられないため、作品識別と備忘を目的としたに過ぎない。題名がつけられるのは作品の完成後であり、作品内容とは原則的に無関係である。ところが、'70年代半ばの円のシリーズでは、《五大尊》や《地蔵菩薩》、《文殊菩薩》などをまず心中に念じ、一挙に板を回転させるという手順が導入されている。これらは、いわば抽象による“仏画”[uu7] なのである([24])。

肝心の作品であるが、率直にいって円のシリーズを白髪の画業のなかで高く位置づけるのは難しい。作家自身もこのやり方に限界があることを自覚していたようで、二年ばかり試みたあとは以前とおなじ素足によるフット・ペインティングへと回帰している。失敗というといい過ぎかもしれないが、なぜこのような事態に陥ってしまったのか。

上記したように、子どもの発達過程においては、ある一瞬驚くべき創造性が発揮される。「アール・ブリュット」の場合は深刻な精神的トラウマなどを契機に、児童画でいうところの象徴画の段階にとどまり続けることが可能となる。ならば、「具体」の作家たちが理想とするところの錯画、あるいは前期象徴画の段階にとどまり続けるには、どのような方法論が有効なのだろう? 主体と客体とを分断せず、むしろ一元的に捉えること、実はそれは極めて仏教的な姿勢であり、密教における止観、あるいは禅でいうところの座禅が目指す境地と近似している。

ところが、円のシリーズは一種の“仏画”であり、描かれているのはいわば対象化された仏である。仏=世界は彼の内にすでに存在するのであり、それは世界と一元的に通じあっていたはずではなかったか。1955(昭和30)年の段階で、そのエッセンスは《泥にいどむ》ですでに実現されていたのだが、作家自身は恐らくそのことに無自覚であった。皮肉にも、天台の修業を修めることで、白髪は逆に内なる仏を見失った、といえるのかもしれない。

「具体」は極めてモダニズム的なグループである。彼らは「人のまねをしない」というほとんど唯一の金科玉条のもとオリジナリティを競い合ったが、それは進取の気風に富む阪神間の特性と密接に関わりあっている([25])。白髪が生涯を暮らした尼崎は、阪神間のなかではやや前近代的な色あいが強い土地柄であり、それが彼の性向にも反映しているのは事実である。ただ白髪や「具体」のメンバーが、特にその初期において実際に東洋思想や仏教哲学から影響をうけたのかというと、答えは否である。彼らが西宮の海清寺に残された禅僧南天棒のダイナミックな書作品に興味を持った事実はあるが、それも絵画表現における時間性の問題という、あくまでも造形的な関心に基づいている。《泥にいどむ》にしても、子どもの絵にしても、恐らく彼らはモダニズム的な、「今までにないものをみたい」という観点からのみ終始アプローチしているのである。本稿で指摘したような、主体と客体を一元的に捉えるような視点は、いわばDNAレベルで潜んでいたものが無意識のうちに現象しているに過ぎない。仮に彼らがもし“意識的に”そうした方法論を用いたとしたら、白髪の“仏画”を参照するまでもなく、見当違いの結果に終わった可能性が高い。日本のアーティストにとって、日本あるいは東洋的な特徴を表現様式に援用することは、なかなかにデリケートな問題である。それは東洋思想そのものが、追いかければ追いかけるほど逆に本質が遠のいていくような矛盾を宿命的に含み込んでいることが、その一因ではないだろうか。

「具体」の個々の作家の仕事を振り返ると、極論すれば全員が’50年代にすでにピークを迎えている。以降それを凌駕できたものはなかったし、その後も生涯にわたって作家活動を持続しえた者も、白髪、元永、田中ほか数名に限られている。子どもの発達過程と同様、厳密な意味での創造性が発揮できるのは、アーティストにとっても生涯のごく一時期に限られるのだろうか。あるいは、世界に対して無垢な視点を保ち続けることは、そもそも原理的に不可能なのだろうか。この問題は、また稿を改めて検証する価値があるように思われる([26])。


(やまもと・あつお/横尾忠則現代美術館 学芸課長)


『兵庫県立美術館研究紀要 第8号』兵庫県立美術館(2014)


([1]) 一連の記録写真のほか、第1回具体美術展を取材した日活世界ニュースの映像が残されており、そのなかに《泥にいどむ》の貴重な動画が一部含まれている。

([2]) 初期「具体」の作品について、再制作することに意味があるかどうかは、作品ごとにまったく事情が異なっており、作品が成立するポイントがどこにあるかを個別に見極める必要がある。村上三郎の一連の紙破りについては、第三者がパフォーマーとなることを生前の作家が許容したかどうかがひとつの争点である。《入口》については初出時(第1回具体美術展、1955〔昭和30〕年)に吉原治良がパフォーマンスを行なうなど、比較的オープンな性格を有している。一方、白髪の《泥にいどむ》の場合、第三者が再現することは物理的にも困難であり、かつ積極的な意味を見出しにくいと思われる。

([3]) 「具体」のリーダー吉原治良は吉原製油株式会社の社長を務めていた。しかしそれ以外のメンバーは必ずしも裕福だったわけではない。

([4]) ポール・シンメル「虚空への跳躍−パフォーマンスとそのオブジェ」『アクション 行為がアートになるとき 1949-1979』東京都現代美術館、1999(平成11)年、p.28

同展のキュレーターであったポール・シンメルは、この展覧会の東京展のオープニングで村上三郎の《入口》(1955〔昭和30〕年)のパフォーマーを務めた。このとき筆者は実見しているが、パフォーマンスに先立つスピーチのなかで、シンメルは村上の紙破りを単なる破壊のメタファーだと誤解していたことを認め、むしろひよこが誕生する際に卵の殻を破るように、破壊と創造が表裏一体となった作品である、と訂正している。

([5]) Jean-Hubert Martin "Art Religion Politics" Padiglione d'Art Contemporanea, 2005, p.92 ※インタビューの書き起こしを行なった伊藤まゆみ氏より日本文の提供を受けました。記してお礼申し上げます。

([6]) 「アウトサイダー・アート」ということばは下記の著作で初めて用いられた。

Roger Cardinal, Outsider Art, Studio Vista, 1972

同書は内容的にはデュビュッフェによるアール・ブリュット・コレクションに関する論及であり、個々の作家紹介に多くの頁を割いている。この著作によって英語圏に「アウトサイダー・アート」ということばが広まったが、「アール・ブリュット」とのニュアンスの違いや、「アウトサイド」「インサイド」という対立概念に結びつきやすい点など、その功罪については様々な議論がある。

([7]) 童美展の観客層は出品者の家族や所属幼稚園の関係者が中心であり、美術の専門家に足を向けてもらうことは、筆者が芦屋市立美術博物館に勤務していた当時から大きな課題だった。そうした問題意識の一環として、筆者は「具体」や「童美展」および児童画をめぐるキー・パーソンに対するビデオ・インタビューを中心とした資料展示を行なったことがある。

『美育 ─創造と継承』芦屋市立美術博物館、1999(平成11)年12月11日—2000(平成12)年2月13日

([8]) 1996(平成8)年の第47回展以降、芦屋市立美術博物館に会場が移った。

([9]) 本文で述べた「アール・ブリュット」と「童美展」のもうひとつの共通点として、その美的な魅力が極めて壊れやすいという点があげられる。“通常の”美術作品の場合でも、配慮を欠いた展示によって作品の魅力が削がれてしまうのは当然だが、「アール・ブリュット」や「童美展」はよりデリケートであるように思われる。

「アール・ブリュット」の場合は、誤った文脈の作品と一緒に展示されることで、本来力を持っているはずの作品までが一挙に色褪せてしまうことがある。そのため、ローザンヌや「アール・ブリュット」のコレクターたちは、かれらの作品がどういう文脈で展示されるかについて極めてナーバスである。

「童美展」の場合、2000年代のある時期から、もと「具体」メンバーに加えて、美術教育の専門家などが新たに審査に加わるようになった。筆者がみる限り、そのことにより展覧会の質に明らかな低下が見受けられた。ある意味それは当然で、吉原治良から直接薫陶を受け、切磋琢磨してきた作家たちの審美眼は、一朝一夕に出来上がったものではない。審査員の再編成の裏側には、もと「具体」メンバーの美意識が公平性を欠き、偏っているという判断があったと考えられるが、その妥当性が問われねばならない。

([10]) これはあくまで“最良の”「アール・ブリュット」を念頭においており、特に近年アール・ブリュット・コレクションに加わった作品については当てはまらない場合もあるだろう。特に障害者施設などにおいて、集団的な造形活動を通じて産み出される作品の場合は、子どもの絵における作品受容プロセスにより近似した例があるかもしれない。

なお、何を「アール・ブリュット」とし、何を除外するかという問題については、デュビュッフェ本人でさえしばしば逡巡し、1982(昭和57)年には「ヌーヴ・アンヴァンション(新たな創意)」という、いわば二軍のようなカテゴリーを設けることで混乱により拍車をかけている。デュビュッフェの死後、その選択眼をキープすることはさらに困難になったであろうことは想像に難くない。

また降霊術が大流行し、精神病院の環境がより人道的な見地から改善されていった19世紀末から20世紀前半までと今日とでは、時代背景がまったく異なっている。そのことも、今日「アール・ブリュット」と呼ぶに相応しい作品を見出すことが、より困難な要因となっている。

([11]) よくある疑問なのだが、「童美展」の大勢を占める、幼稚園などでの絵画教室で産み出された作品に対して、指導者の影響が強すぎると批判する一方、家庭で誰の指導も受けずに描かれた絵の方がより純粋である(したがって後者が「童美展」に落選することが納得できない)、という声を聴くことが少なくない。

実際には後者が“より純粋”というのは幻想である。なぜその子どもが限定された画用紙や画材をあたえられ、例えば机と椅子によって規定された空間で制作せねばならなかったか等々、という制約については、ほとんどの場合不問に付されているからである。つまり“純粋”というよりは、実際には“無関心”の産物である場合がほとんどなのだ。子どもと表現を取り巻く環境を根本から疑い、試行錯誤を重ねることは、単なる“指導”あるいは“無関心”とはまったく次元が異なるのである。

([12]) 浮田要三インタビュー『美育 ─創造と継承』芦屋市立美術博物館、1999(平成11)年、p.45

「具体」と子どもの絵との関連を考えるうえで不可欠なもうひとつの存在に、雑誌『きりん』がある。同誌は1948(昭和23)年大阪の尾崎書房から創刊され、1950(昭和25)年より星芳郎が代表を務める日本児童詩研究会が出版元となった。当時毎日新聞学芸部の記者であった井上靖や、詩人の竹中郁が中心となったほか、編集部で営業的な仕事に従事していたのが浮田要三である。本来的には児童詩の投稿誌であったが、浮田を介して吉原や「具体」との接点がうまれ、紙面における美術(子どもの絵)のウェイトが高まり次第に実験的な様相を呈していった。1962(昭和37)年より東京の理論社に出版元が移ることで、穏当な内容になってしまい、以後はみるべきものがなくなった。

子どもの絵に対する浮田の審美眼に着目した吉原は彼自身に制作を勧め、やがて浮田は「具体」の会員となる。

([13]) Lucienne Peiry, Art Brut The Origins of Outsider Art, Flammarion, 1997, p.76

Dubuffet & Art Brut Im Rausch der Kunst, museum kunst palest, Düsseldorf, 2005, pp.146-147

([14]) Michel Thevoz, Art Brut, Skira, 1995, p.63

([15]) ブルノ・デシャルム+小出由紀子「語りつくそう、アール・ブリュットのすべてを!」『芸術新潮』2005(平成17)年11月号、p.58

([16]) 前掲書(14)

([17]) 吉原治良「具体美術宣言」『芸術新潮』1956(昭和31)年12月号、p.202-204

([18]) 嶋本昭三「絵筆処刑論」『具体』6号、1957(昭和32)年

([19]) 村上三郎の一連の紙破り《入口》(1955)、《6ツの穴》(1955〔昭和30〕年)、《通過》(1956〔昭和31〕年)などにも同様のことが指摘できる。

([20]) 白髪が幼いころ、荒々しい喧嘩まつりの怪我人が白髪邸に担ぎ込まれることがあった。まっ赤な鮮血をみた白髪は、子ども心に「美しい」と感じたといい、このことが後の作品に色濃く影響しているものと思われる。

なお、白髪がみたのは、今もなお尼崎で毎年9月に行なわれる「築地だんじり祭り」のことではないかと思われる。クライマックスの「山合わせ」は、いわばだんじり同士による相撲であり、たがいに向き合った二基のだんじりの前方を持ち上げてぶつけあう、勇壮だが非常に危険なものである。

([21]) 《猪狩壱》(1963〔昭和38〕年)は東京都現代美術館蔵に、《猪狩弍》(1963〔昭和38〕年)は兵庫県立美術館に現在収蔵されている。

([22]) 白髪一雄「〔私の出会った仏教者〕山田恵諦座主の想い出」『大法輪』2007(平成19)年9月号

([23]) 白髪一雄「思うこと」『具体』2号、1955(昭和30)年

([24]) 白髪一雄、山村徳太郎、尾崎信一郎「白髪一雄氏インタビュー」『具体資料集─ドキュメント具体1954-1972』芦屋市立美術博物館、1993(平成5)年

([25]) 商業都市大阪と港町神戸、この二都市の間に東西に広がるエリアを阪神間とよぶ。この地域は近代以降、とりわけ大正時代以降の阪急電鉄による沿線の宅地開発によって大きく発展した。民間主導による街づくりは、建築やファッション、美術品コレクター、さらには特色ある私立大学など、個人の生活に密接に関わる領域において豊かな文化環境を醸成した。吉原もそうだが、大阪で会社を経営する富裕層が環境に恵まれた阪神間に好んで邸宅を構えたのである。敗戦後は連合国の方針に基づく財閥解体などの影響で、かつてのような富裕層はみられなくなり、文化を支える基盤が徐々に弱体化していった。「具体」は戦前の富裕層が築き上げた自立精神に富む文化的気風がまだ色濃く残存するなか、敗戦による白紙還元および自由主義、民主主義の台頭をうけて活動したものだといえる。

([26]) 大人になっても、世界に対する無垢な眼差しを保ち続けることは、ほとんど原理的に不可能だと思われる。しかし、そのことに生涯を捧げ続けている希有な例として、堀尾貞治があげられる。1966(昭和41)年、いわゆる後期「具体」の時代に会員となった堀尾は、「具体」解散の後にむしろその本領を発揮している。細かなイベントやグループ展への参加も含めると、年間100回にもおよぶ発表活動を今なお継続的に行なっている超人的なアーティストであり、近年では現場芸術集団「空気」としばしば活動を共にし、時に“誰が作者か”という従来の作家性や個性が溶解したかのような、類例のない表現活動を行なっている。詳細は下記を参照されたい。

Yamamoto Atsuo “Atarimae no koto (A Matter of Course): A Discussion of Sadaharu Horio” Sadaharu Horio, Vervoordt Foundation, 2011

山本淳夫「あたりまえのこと 堀尾貞治論」『堀尾貞治』(上記に掲載された英文テキストの日本語訳を収録した小冊子)発行:現場芸術集団「空気」事務局、2013年


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