金山明展

最後に金山さんにお目にかかったのは2006年のゴールデン・ウィークの最中、奈良市内の老人介護施設でのことだった。4月初旬にデュッセルドルフのクンスト・パラスト美術館でオープンした「ゼロ」展のために「具体」の初期作品の再制作などをお手伝いさせていただいた経緯があり、渡航できなかった作家を順に訪ねてご報告するのが目的だった。
金山さんは一段と衰弱されていた。前年の冬にパートナーである田中敦子さんに先立たれたことがやはり決定的だったのだろう(田中さんは金山さんにとって単なる伴侶の粋を越え、もはや生き甲斐だった)。記録写真や映像にもまるで他人事のように「ええ展覧会ですなぁ」といわれるのみで、最後まで当方の来訪目的はご理解いただけなかった。これはもう長くないかもしれない、正直そんな思いもよぎったが、「こんど豊田で個展があんねん」と、それだけはしっかり把握されていた。初の回顧展は生命力を燃え立たせる最後の拠り所だったのである。それはしかし、やはり遺作展となってしまった。
豊田市美の美しい空間に金山さんの作品が映えないわけはない。導入部分から最後まで例の《足跡》が配置されているのも期待どおりである(展覧会場の入口からはみ出した《足跡》に出会うと「お、やってるな」みたいなワクワク感が否応なしに高まるのだ)。階上の小部屋にまとめられたミニマルな初期作品群はやはり圧巻だ。見飽きない。そして最後を締めくくるのは晩年のペインティング《ゼロ》である。そうだ、作家・金山明のキャリアは50年代初頭の「ゼロ会」に始まり、60年代ヨーロッパのアヴァンギャルド、グループ「ゼロ」の国境を越えたネットワークに焦点をあてた前述の回顧展が、おそらく生涯最後の出品歴なのだった。そう考えると、会場出口に掲げられた《ゼロ》は何か特別な重みを持ってみえた。
思えば金山さんは生涯をかけて「ゼロ」との間合いをはかり続けた作家だったのかもしれない。何も描いてないまっさらのキャンバスを作品として主張し、吉原治良に拒絶されたというエピソードはまさに象徴的である。確かに彼の芸術は、自我の投影みたいな意味での表現の放棄と密接に結びついている。己の身体が直接画面と関わることをあえて回避し、例えば機械的なものを介在させるやり方は、いかにも理知的でクールなアーティスト像を想起させはしないか。
金山さんは確かに理知的な方だった。しかしその人物像は、隅々まで計算された抜け目のなさとはおよそかけ離れていたと思う。理知的な制御というよりも、どこか底が抜けた感じというか、何かが決定的に欠落した結果がああいった作品群であるような気がしてならないのだ。例えば情感のようなもの、あるいは人間関係における機微や配慮など、日本人の専売特許であるところのいわくいいがたい微妙さがすっぽりと抜け落ちた金山さんの物言いは時にきわめて辛辣だった。一方その身も蓋もない発言には、どこか憎めないユーモアが常に含まれてもいた。玩具の電気自動車で自動的に描く独特の方法論についても、その背後にコンセプトを煮つめた熟慮の末みたいな蓄積感はあまりない。むしろ絵を描くプロセスを文字通りスカッと手放してしまう、ためらいも遠慮もないダイレクトさのようなものに思わずニンマリさせられてしまうのだ。いわばそれは壊れたクールさなのである。
回顧展の面白さのひとつに、「へぇ、こんなんあったん」みたいな、未知の作品との出会いがある。今回ひときわ印象に残ったのは《Graduation》と題された1967年の映像だった。要するに夜間の谷町筋の中央分離帯のまわりを発炎筒を背負ったバイク(ドライバーは作家自身ではない)がぐるぐる走り続けるというものである。よく警察がこなかったものだと思うが、金山さんがオフィシャルにはほとんど発表していなかった時期に、密かに壊れたクールさ満載の仕事をしていたという事実が非常に印象的だったのだ。バイクという機械が描き出す煙の軌跡は、もちろん「ゼロ」だった。

『REAR 第17号』リア制作室(2007)

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