あたりまえのこと 堀尾貞治論

はじめに


堀尾貞治は1939年神戸市の下町である兵庫区に生まれ、現在も同地に在住しているアーティストである。家庭の事情により、中学卒業後すぐに三菱重工神戸造船所に就職しているので、美術は全く独学である。1965年、第15回具体美術展に初出品、翌年「具体美術協会」(以後「具体」)の会員となり、1972年の解散まで出品を続けた。その後も息長く活動を続け、近年では個展、グループ展への参加、単発のパフォーマンスなどすべて含めた総数は一説によると年間100回を上回るという、桁外れに精力的な制作、発表スタイルを特徴としている。しかも1998年に三菱重工を定年退職するまでは、彼は家族を養うためにサラリーマンとして勤めながら、早朝の出社前と定時退社以後の時間をやりくりしつつ、あれだけの膨大な美術活動を行ってきたのである。


「具体」解散後は神戸や阪神間を中心とした、どちらかといえばアンダーグラウンドなアートシーンを中心に活動してきたが、2000年代以降は公立美術館での個展やグループ展、あるいは国際展への参加の機会も増えつつある。徐々にその存在は知られるようになってきたものの、依然としてその評価はローカル作家の域を出ているとはいい難い。


筆者個人としては、彼は現存する日本作家のなかでも疑いなく最重要人物のひとりだと考える。本稿では、まずは彼の基盤となった「具体」との関係をふまえ、あとは年代順にとらわれず、その特異な芸術を語るに相応しいと思われる三つのキー・ワードに基づいて論を進めたい。それぞれ「無常」「自他不二」「不可知」という、主に仏教用語である。


後述するが、筆者は決して安易なオリエンタリズムを持ち込みたいわけではない。本稿で解き明かしたいのは、近代的な要素と前近代的なそれとが共存する、堀尾芸術の他に例をみない独自性なのである。彼が容易に評価されにくいのは、その芸術があまりにもオリジナルであることの裏返しなのであり、それは逆にシステムの上に安住する、凡百の美術に対する鋭い批判ともなりうるだろう。




1.堀尾貞治と「具体」


堀尾の作家としての基盤が培われたのは、他ならぬ「具体」においてである。「具体」は戦後の日本美術のみならず、世界的にみても重要な起点となった前衛美術集団である。その特徴、意義をひとことに還元するとしたら「オリジナル至上主義」に尽きるだろう。リーダーの吉原治良は天才的な目利きだったが、自分のもとに批評を乞いに訪れた若い作家たちに対して、具体的な助言や指導はほとんど行わなかった。結果としての作品に対して「ええ」「あかん」という判断のみを示す一方、口を酸っぱくして伝えたのは「人のまねをするな」「今までになかった絵を描け」という、何よりもオリジナリティを尊重する姿勢であった。作品は他の何ものにも依存せず、それ自身で完結し、自立していなければならない。何らかのイメージを再現的に描写する具象性や、作品が何らかの概念を参照し、伝達するような、いわゆる文学性は徹底的に排除された。


堀尾と「具体」との出会いは、残念ながら何から何まで理想的というわけではなかった。


第一にタイミングの問題がある。「具体」は1954年に結成され、吉原が亡くなる1972年まで18年間存続したが、彼らが最も重要な仕事を残したのはごく初期に限られる。野外空間や劇場の舞台など、通常の展示室とは全く異質な空間で次々と展覧会を開催し、インスタレーションやパフォーマンスといった概念がなかった当時、その先駆ともいうべき実験的な作品の数々が生み出されたのは、初期の約5年間(1954-1958)に集中しているのである。


明治時代の開国により「美術」という概念が輸入されて以来、欧米を手本とし、あるいはそれを対象化することで日本ならではの独自性を模索(あるいは擁護)するなど、わが国の美術には常に欧米からの距離によって自らを規定せざるを得ない側面があった。「洋画」と「日本画」という相対するカテゴリーの出現は、そのねじれ現象の最たるものである。そういう歴史のなかで、「具体」はほとんど初めてそうした呪縛と無関係に、ある種無邪気なまでに自発的な表現を開花させたといえる。ところが当時の日本ではそれはほとんど美術として認識されず、せいぜい社会現象として好奇の目でみられたに過ぎなかった。欧米からの距離を測る物差しでは、彼らのような一種の「突然変異」は計測不能であり、美術界から黙殺されたのはある意味無理のないことであった。


やがて1957年、フランスの美術批評家ミシェル・タピエが来日する。彼は「具体」の絵画作品を高く評価し、自ら主唱するアンフォルメル運動のなかにそれらを位置づけた。それまでの冷遇とのギャップ、そして作品が「売れる」という事実が彼らに影響を及ぼすのは必至だった。作品は容易に定義し難い多様な表現から絵画へとほぼ一元化され、組織としてのあり方も、ダイナミックな運動体からよりエスタブリッシュされた美術集団へと変貌していく。堀尾が参加した60年代半ばには、前衛美術の運動体としての「具体」は、既にその歴史的な役割を終えていたのである(註1)。


第二は、「具体」に参加したことによって、堀尾の制作に即座にプラスの結果がもたらされたとはいい難い点である。「具体」は決して民主的な組織ではなかった。そこでは吉原の審美眼が絶対的な法律であり、作品が彼の眼鏡にかなうかどうかが決定的な意味を持っていた。例えば白髪一雄などは、ほとんどの作品がすんなりと受け入れられたのだが、機会あるごとに摩擦を生じる作家もいた。堀尾はどちらかというと後者だった。


彼が初めて芦屋の吉原邸に自作を持ち込んだのは1964年である。トラックに満載された作品はすべてが邸内に入りきらず、一部は外壁に立て掛けられ通行人を驚かせたという。この時、いちおう持ってはきたものの、未完成とみなしてトラックから下ろさなかった作品が2、3点あったのだが、なんと吉原は他のすべてを無視してそれらを選んだ。あまりのショックに堀尾は吉原に抗議したが、今ではその判断は的確だったと回想している(註2)。


「具体」に参加してからも堀尾の迷いは続いた。ある時は搬入した作品を吉原に全否定され、ショックのあまりその場ですべて破壊したこともあった。さらに彼のプライドを引き裂いたのは、1966年の「フランス政府選抜留学第1回毎日美術コンクール展」への落選である。同展には「具体」のメンバーも複数入選し、なかでも松谷武判は受賞してフランス留学の権利を獲得している。当時、今井祝雄やヨシダミノルをはじめとして、同時期に「具体」の会員となった仲間たちが次々と公募展などで受賞し注目を集めるなかで、入選すらできないという客観的な事実は彼をどん底に突き落とした。


この時の興味深いエピソードがある。場末の居酒屋で村上三郎を相手に自虐的な泣き言をこぼしていた時、村上は突如堀尾の胸ぐらをつかんで恫喝したのである。「おまえみたいなええ作家が何をいうとんのや。ええのに決まっとるやないか」。


「具体」(=吉原)からも美術界(=公募展)からも拒絶され、行き場を失った堀尾にとって、村上の言動は何のことやらさっぱり理解できなかった。ある意味で当時の村上の状況には、堀尾とやや共通する部分があったかもしれない。50年代の村上は、有名な紙破りをはじめとして、数々の独創的な作品を発表して仲間たちと競いあった。ところが60年代半ば以降、同世代の白髪や元永が有力画廊で個展を開催し、大きなグループ展に招待されるなど美術界での存在感を増していったのに対し、村上の場合、例えば公募展に出品するなどの積極性はほとんど見受けられない。ただし堀尾と異なり、相応のキャリアを経てきた村上には、当時の「具体」のおかれた状況をより客観的、巨視的にとらえる余裕があったと思われる。美術界から黙殺されながらも充実した活動を展開していた50年代の「具体」と、よくも悪くも美術界のシステムに溶け込んだ60年代の「具体」。恐らく村上は、エスタブリッシュされたことと引き換えに「具体」が失ったものの大きさを認識しつつ、自らのとるべき態度を模索していたのではないか。


当時の堀尾がこだわり、それに拒絶されたと感じた「美術界」は、村上にとってみれば局所的な、矮小な問題に過ぎなかった。恐らく村上は、堀尾に対してより大局的に物事を見ることを言外に促したのだろう。現在の我々からみれば、その判断がいかに的確であったか実感するのはさほど難しいことではない。「具体」に関わった作家たちの仕事のピークが、それぞれどこにあったのかを検証してみればよい。いうまでもなく、ほとんどすべての作家が「具体」に所属していた時代に最良の仕事を残している。白髪や元永、田中敦子など「具体」解散後も作家として息長く発表し続けた例はむしろ少数派であり、その彼らでさえ、「具体」時代を上回る仕事を後年に残せたかというとはなはだ疑問である。


唯一の例外は、他ならぬ堀尾である。彼ひとりのみ、「具体」解散の後にむしろ独自の仕事を開花させ、そればかりか歳月を経るごとに充実度を増しつつある異例の存在だといってよい。


彼もまた、「具体」における至上命題である「オリジナリティの追求」を、自身の最大の課題として引き受けている。しかし多くの作家にとって、それは他者にはない独自のスタイルの確立と同義であった。白髪の場合は足で描くことであり、元永の場合は重力を利用して絵具を流すこと、金山にとっては機械を用いたオートマティックな描画であり、田中にとっては配線図に由来する、円と線とが絡まりあった強烈なイメージであった。ところが、オリジナリティはいわば両刃の剣である。「今までになかった絵」を実現させるためには、かつてない方法論を確立せねばならない。それを発見し、歓喜したのもつかの間、次の瞬間からその呪縛との戦いが待ち受けている。安易なスタイル化による自己模倣を回避するため、その延命措置に心を砕かねばならないのだ。これは「具体」に限らず、創造に携わる者すべてにとって普遍的な課題でもあるのだが。





2.無常


多く作る者はまた早く作る。(…)多き量と速き速度と、このことがなかったら器の美は遥かに曇ったであろう。そこに見られる冴えたる美、躊躇なき勢い、走れる筆、悉くが狐疑なき仕事の現れではないか。懐疑に強いものは、信仰に弱い。もし作り更え、作り直し、迷い躊躇って作るなら、美はいつか生命を失うであろう。あの奔放な味わいや、豊かな雅致は、淀みなき冴えた心の現れである。(註3)



2-1.色塗り


堀尾のとった方法論は、いわばコペルニクス的転回とでもいうべきものだった。つまり彼は「一定のスタイルを持たない」ことを方法論とし、絶えざる変化そのものを制作の核に据えたのである。それは一見あまりにも原理主義的、理想主義的であり、無謀な試みにも思える。


彼自身、そうした方法論に確信を持つに至る道程は決して平坦ではなかった。その試行錯誤を知るうえで重要なシリーズがふたつある。第一は1985年以来今日まで欠かさず続けている《色塗り》の仕事である。毎朝、まだ勤めていた当時は5時半に起床すると、彼は自宅脇の屋外にある「色塗り場」に赴く。そこには様々なオブジェが無造作に設置され、現在もなお彼は毎朝それらに色を塗り続けている。色は一日に一色と定められており、アクリル絵具のチューブが箱のなかに並ぶ順番に従って、毎朝その日の色が塗り付けられる。2010年現在、最も古い作品は四半世紀にわたって絵具が塗り重ねられたことになるが、絵具の層はもはや支持体である木片の何倍もの高さに達している。


支持体は金属片、廃品らしきものなど実に様々であり、なかでも興味深い作品に1996年から10年間にわたり風船に色を塗り続けたものがある。絵具の塗りむらが蓄積された結果、表面には奇妙な凹凸が生じており、まるで巨大な金平糖のような、異様な存在感を放っている。この作品については注目すべき点がふたつある。


ひとつは支持体が球体である、ということだ。平面に絵具を塗り重ねた場合、側面から見るとまるで樹木の年輪のようにその蓄積、つまり時間の経過が見てとれる。ところがこの作品の場合は球の全面に色が塗られているため、絵具の層が外から見えないのだ。当初は作家自身、絵具の断層に表れた時間の蓄積こそが、このシリーズの重要な要素であると考えていたが、風船の作品の寡黙さに比べて、次第にその饒舌さが鼻につき始めたのだという。真実はそんなに簡単に見えるものではない、ということであろうか。


ふたつ目は、絵具の層が包み隠しているのが風船、つまり「空気」だということだ。ある意味この作品は、空気の塊そのものに色を塗り、可視化したものともいえる。実はこの作品に着手した1996年が、村上三郎が急逝した年であるのは極めて象徴的だ。村上はある意味で「無」の問題をめぐって思索し続けた作家であり、この作品はまるで村上へのオマージュであるかのようにも感じられる。


《色塗り》の仕事がうまれた当時の堀尾は、実は60年代半ばにおとらずスランプに陥っていた。その要因のひとつは1979年にオープンした「東門画廊」である。神戸の歓楽街の目抜き通り、東門筋にある古道具屋の二階が格安で借りられることとなり、仲間たちと自由に発表できる場づくりに堀尾は燃えていた。ところが実際の準備段階になると、思うように友人たちの協力が得られず、ほぼ独力で様々な雑務をこなすはめになる。やっとの思いでこぎ着けた開廊を記念して自らの個展を開催するが、5日間の入場者はわずか7名という惨憺たるありさまだった(註4)。


情熱を注ぎ込んだ画廊の幕開けが散々だったことにショックを受けた堀尾は、不眠症に陥ってしまう。憔悴した様をみかねた三菱重工の同僚が、やがて新興宗教「神道親導教」の教会へと彼を誘った。堀尾は藁をもつかむ思いで同行するが、しかし教団のあり方には大いに違和感を覚えた。「あんたは見えもしない神さんをだしにして、信者から金を巻き上げているだけや」と教祖を批判するが、逆に「見えないものを否定するのなら、空気だって同じことだ。試しに鼻と口を塞いで一時間そこに転がってみろ」と反駁され、ことばに窮してしまう。教義そのものに納得したわけではないが、論争に言い負かされたことがきっかけとなり、見えないが確実に存在している「空気」の問題、およびそれを可視化することが堀尾の意識にのぼりはじめるのである。


「空気」の問題が《色塗り》の仕事に結びつくには、なお5年以上の熟成期間が必要だった。その間にも、さらにつらい出来事が堀尾に襲いかかっている。80年代にはいると、堀尾は三菱重工社内の原子力見積管理課に配属される。それまでは造船所のなかでも現図場など、どちらかというと「ものづくり」に関わる部署だったのが、新たな職場では苦手な経理事務が中心となった。また立場的に下請け業者に圧力をかけざるを得ないなど、業務内容が肌にあわず次第にノイローゼ気味となってしまう。さらに追い討ちをかけたのが、1985年1月に発症した急性白内障である。水晶体の摘出手術により左目の視力がほとんどなくなったのに加えて、発病の原因が不明なため、もう一方の目もいつ見えなくなってもおかしくない、と医師から宣告されてしまう。いうまでもなく美術家にとって視力を失うのは致命的である。いつ失明するかも分からないという切迫した恐怖に苛まれながら、たとえ光を失っても制作可能な方法論を模索しつつ、ある意味悲痛な覚悟のもとに生み出されたのが《色塗り》のシリーズだったのだ。


同年4月、東門画廊で開催した個展のタイトルに初めて「あたりまえのこと」ということばが用いられる。それは本来、あたりまえすぎて意識にのぼらない「空気」という存在を、美術の力で可視化しようとする営みをさしていた。しかし「空気のこと」ではあまりにも直接的に感じられたため、表現をオブラートに包んだのである。「あたりまえのこと」はこれ以降、原則的に堀尾のすべての作品に冠され、その制作コンセプトを貫くバックボーンとなっている。



2-2.《一分打法》と《百均絵画》


変化し続けること自体を作品化したもうひとつのシリーズに《一分打法》がある。1960-70年代、プロ野球の読売巨人軍のホームラン・バッターとして活躍した王貞治(堀尾の名前も「貞治」である)の独特なバッティング・フォーム、「一本足打法」をもじったものである。《色塗り》の仕事に加えて、このシリーズも意識して毎朝の日課に組み入れはじめたのは1997年からである。色塗り場での仕事をひとしきり終えると、堀尾はアトリエにあがって山積みされた画用紙に向きあう。手当たり次第の画材や、時にはコラージュも用いながら猛烈な勢いで次々とドローイングを仕上げていく。そのスピードは1点あたり1分どころか、数秒から数十秒であることも少なくない。極力思考が介在する余地を排除するため、量と速度とが極端に重要視されている。このシリーズももちろん今なお継続中であり、その総量は実に膨大なものである。堀尾はしばしば自作を他人に格安で、あるいは無償でどんどん譲ってしまうため、正確に実数を把握するのはとても不可能であろう。


一分打法からから派生した作品と考えられるのが、2002年に初めて発表された《百均絵画》である。「百均」は「百円均一」の略で、80年代末に日本各地で生まれたディスカウント・ショップ、通称「百均ショップ」からとられている。そこでは日用品、衣類から食料品にいたるまで、あらゆるものが原則百円で販売される。一方の《百均絵画》は、いわば絵画の「手動」販売機である。自動販売機に見立てたブース(ブルー・シートやコンパネなど、多くの場合はありあわせの材料で仮設的につくられる)に仲間たちと入り、観客が投入口から100円玉を入れてメニュー表に書かれた絵画の種類からひとつを選んで注文すると、その場で即興的に制作されたドローイングが出てくるという、一種のパフォーマンスである。メニューのラインナップには「水形」「四角連動」など造形に関するものもあれば、「馬鹿にした絵画」「これでも絵画か」といったユーモラスなものまで様々である。コインを投入すると、内部でガサゴソと作業の気配があり、時には炸裂音がしたかと思うと、割れた風船がコラージュされたドローイングが出てきたりする。


絵画の自動販売機というアイデアは、1962年の第11回具体美術展の会場に設置された「具体カードボックス」を想起させる。この時もやはりブースのなかに人が入り、観客がコインを投入すると、予め用意された会員の手書きのポストカードが出てくる、というものだった。《百均絵画》の場合はリクエストに応じてその場で即興的に制作するのが大きな違いであり、硬貨を握りしめて夜店の屋台を物色した子供のころの記憶を誘発するような、ユーモアとペーソスをも感じさせる。また興味深いのは100円という価格設定である。もともと堀尾が自作に設定する値段は破格である。あるギャラリストから聞いたのだが、展覧会後に数千円の売り上げを受け取った堀尾は、「おおきに、おおきに」と感謝し、それが数万円に及ぶと「えらいもうかった」と子どものように喜ぶのだという。ところが、ディーラーが努力して、きちんとした美術品としての価格で作品を販売し、例えば100万単位の売上げがあったりすると「こんなん、困るなぁ」と、むしろ困惑してしまうというのだ。


堀尾の主な収入源は、務めていた当時は会社からの給料であり、現在は年金である。彼は一貫して、美術活動を経済の問題からあえて切り離そうとしているようにみえる。両者の関係は永遠の課題だが、タピエと「具体」の例のように、経済行為と結びつくことで作品がなんらかの制約を受けてしまう事態があるとすれば、堀尾は本能的にそういう状況から距離を置こうとする。《百均絵画》は他の堀尾の作品と同様、決して社会批判を意図したものではないが、「お買い物ごっこ」を思わせる、童心にかえったかのような純粋さと、そこにすでに胚胎してる欲望のようなものが、結果的にユーモラスにあぶり出されているといえるだろう。2005年に開催された横浜トリエンナーレ2005では、堀尾は現場芸術集団「空気」のメンバーとともに会期中ほぼ欠かさず《百均絵画》を行い、最終日には総売り上げの紙幣や硬貨約100万円分と、彼自身の重量とを天秤ばかりの要領でバランスさせるというパフォーマンスを行なった。この行為は、果して美術の本当の価値とは何なのか問いかけているようでもある。そういえば、ある時契約を申し出たギャラリストに対して、堀尾は次のように答えたという。「…それなら、わしを買うてくれ。」



2-3.《震災風景》 あるいは生命と美術


時計の針を少し巻き戻して、《一分打法》の起源と考えられる作品について触れておきたい。1995年1月17日未明、神戸や阪神間を中心にマグニチュード7.3の大地震が襲い、死者6,000人以上を生み出す大惨事となった。まず思い起こされるのは、ちょうどその時京都のアートスペース虹で開催中であった堀尾の個展である。出品されていたのは《色塗り》のシリーズからたった1点のみ。押しピンの頭に絵具を塗り重ねたもので、壁面の中央にそれがぽつんと刺してある以外、画廊のなかはまったく空っぽである。狙いすました急所へのひと突きと、引き続いて起きた未曾有の大災害とは、偶然とはいえ、あまりにも強烈なコントラストをなしている。


震災直後、多くの作家たちがそれぞれに自問自答した。あまりにも大きな出来事を前に、自分にとって美術が持つ意味を問い直さずにはいられなかったのである。堀尾についていえば、塗りの仕事を始めとする日課に関しては、震災当日の朝以外はまったく欠かしていない。これは実はたいへんなことである。筆者も被災者のひとりだったが、あの時、正直とても美術どころではなかった。なじみ深い街が瓦礫の山と変わり果てたなか、表現者として無力感に苛まれ、吃音状態に陥るのはある意味当然というか、むしろ誠実な態度だったとさえ思う。あの状況下で日々淡々と制作を続けられたとしたら、それはよほど鈍感か、あるいはその真逆でしかあり得なかった。


震災から2ヶ月ほど経ったある日、親しくしていた叔父から堀尾に連絡があり、被災した街の状況を描いておくようにと強く勧められた。この叔父については後述するが、堀尾が信頼を寄せていた人物であり、そのことばは彼には無視できない重みを持っていた。しかし、さすがの堀尾も《色塗り》などの日課的な仕事はともかく、そこから一歩踏み出すには相当なエネルギーが必要だった。しかも震災の風景である。生まれ育った街が瓦礫と化した状況など、とても描く気になれない。「描けない」という思いは日増しに鬱積し、やがて臨界点で炸裂する。網膜に焼き付けられた被災地の印象が堰を切ってあふれ出し、大量の画用紙に叩きつけるように描き出された。これらはすべて写生ではなく、記憶に基づいている。場合によってはテレビで幾度となく放映された廃墟のイメージが反映されたものもあるかも知れない。個々のドローイングは極めて短時間に、勢いにまかせて描かれており、現実の風景に比較的近いものもあれば、瓦礫の蓄積が織り成す造形美に没入し、半ば抽象と化したものもある。


当初堀尾はこれらのドローイングを公開するつもりはなかった。ところが、たまたまその作品をみたギャラリストの強い勧めにより、震災から半年を経た7月に、被災地のまっただ中、神戸の北野にあるリランズ・ゲートでの個展が実現する。筆者もこの展覧会を実見しているが、震災を契機に生み出された美術作品のなかで、これほど強い感銘を受けたものは他になかった。そこには一切の知的操作を振り払った直截さがあった。単純に「追悼」や「癒し」といった常套句に回収しきれないリアルな感覚である。不条理な天災に対するやり場のない思いも含まれる一方、破壊された街の情景が放つ圧倒的な迫力や造形的な面白さにどうしても共振してしまう、作家の偽らざる姿さえもが生々しく刻印されていたのだ(註5)。繰り返すが、あの時美術に携わる誰もが無力感に苛まれ、果して美術が何の役に立つのかと自問せざるを得なかった。それはもちろん美術家として誠実な態度であろう。しかし堀尾の場合、どうやら美術とは「役に立つかどうか」の問題ではない。「やるかやらぬか」、彼にとって美術とは、恐らくそういうものなのだ。



2-4.民芸 多量と迅速


ここで堀尾に震災風景の制作を勧めた叔父、堀尾幹雄(1911-2005)について触れなければならない。彼は国鉄に勤務するかたわら、民芸運動に尽力し、大阪民芸協会の理事を務めた人物である。やはり民芸運動の中心人物のひとりでもあった陶芸家、濱田庄司(1894-1978)とは親交が深く、多くの作品を収集している。約200点に及ぶ堀尾幹雄コレクションは大阪市立東洋陶磁美術館に寄贈され、同館の日本の陶芸コレクションの中核をなしている。それらを改めて美術館で見学した際、堀尾が驚いたのは、ほとんどの茶碗で自分も実際に茶を飲んだことがある、という事実であった。つまり叔父は美術品として鑑賞するというよりも、実際に日用品として使用するために、濱田らの第一級の作品を買い求めていたのである。


民芸運動はしばしば単なる骨董趣味と混同され、誤解されやすいのだが、本来のコンセプトは、いわゆるエスタブリッシュされたファイン・アートに対するカウンターともいうべきラディカルさを孕んでいる。「民芸」とは「民衆」の「芸術」を意味する造語であり、1925年、柳宗悦(1889-1961)らによって提唱された。従来の美術史が作家の個性を中心に据えた視点から語られたために、正当な評価から抜け落ちてきた領域があるのではないか。そういう問題意識のもと、大家の手による希少な作品よりも、名もなき作り手が倦むことなくつくり続ける平凡な普段づかいの器物のなかに、柳は美を見出したのである。


柳の問題意識は、堀尾のそれとも極めてよく響きあっている。驚くべきことに、2章冒頭に掲げた柳の文章は、まるで堀尾の《色塗り》や《一分打法》に対する評論であるかのようさえ感じられる。ただ誤解してはならないのは、堀尾が柳の民芸論を意識的に自らの制作に応用したのではない、ということだ。


若いころの堀尾は、叔父の行為をむしろ古くさい骨董趣味として軽蔑していた。自身が志す現代美術とは、あまりにもかけ離れたものに感じられたのである。ところが、次第にコレクターとしての叔父の鋭い嗅覚や審美眼に気付きはじめる。一緒にバスに乗っていた時のこと、目的地ではないにも関わらず、ある停留所で叔父が突然下車した。どういうことかとついていくと、来た道をずいぶん戻ったところにある雑貨屋の店先の、一見何の変哲もない器を買い求めた。またある時は、大手ウイスキー会社の景品として配られた、大量生産の安物のグラスのなかに思いがけず堀尾の気に入ったものがあったのだが、叔父もすかさず「これ、ええなぁ」と同じものを手にとった。


つまり幹雄叔父は、作者や時代背景といった予備知識、あるいは既成概念を一切介さず、そのもの自身が持つ美とダイレクトに向きあう能力に長けていたのである。しかもそのアンテナは始終貪欲に作動しており、走行中のバスの車中からでさえ、獲物を見落とすことがなかった。恐らく叔父にとって、美は特別につくられるというより、日常空間に遍在するものだった。それに気付くかどうかはむしろ自身の問題なのである。そういう姿勢は堀尾にも受け継がれ、1975年頃から描きためているアイデア・スケッチに如実に反映されている。折々に感じたことや、街で目にした気になるかたちなどが手当たり次第にメモされたもので、2010年現在、その総数は三万枚を超えている。


こうしてみると、堀尾における作品制作の意味合いが、従来的なそれとはかなり様子が異なることが理解できる。それはむしろ理知的な思考や既成概念にからめ捕られることなく、限りなく自由な立場から世界と向きあうための「習練」に近いものなのである。





3.自他不二


禅匠が一が多にあり、多が一にあるという時、一なり多なりというものが存して、それぞれ一方が他方のなかにあるという意味ではない。(…)禅では一といい、多というものが相互独立しているものとは認めぬのである。『一即多、多即一』というのは、それだけで絶対の事実を完全に叙述したものとして理解するべきである。それを分析して、また概念的に構築すべきではない。月をみて月と判れば、それで十分だ。(註6)



3-1.《妙好人伝》


堀尾の美術活動の独自性を考えるうえで、表現主体としての「自己」の位置づけが極めて独特である点を見逃すことはできない。そのことが端的に表れているのが木版画シリーズ《妙好人伝》である。前述したように、固有のスタイルに拘泥しないのが堀尾の大きな特徴なのだが、それでも《妙好人伝》はいろんな意味で異色である。まず明らかに具象であること。また多くの場合、堀尾の作品はパフォーマンス性が強く、作品の永続性を前提とせず、たまたま行為の痕跡が「残ってしまった」ようなものが多いのだが、《妙好人伝》は例外的にミュージアム・ピースと呼べるものである。さらに彼個人の作品ではなく、周治央城との合作であることが極めて重要である。


1986年、堀尾は務めていた三菱重工神戸造船所から、グループ会社リョーインへの出向を命じられる。リョーインは下請けの印刷会社であり、いわば左遷だったのだが、堀尾にとっては前述した苦手な業務から離れて、ずいぶん精神的に解放されたようだ。この時、職場の同僚として知りあったのが、堀尾より約10歳年長の周治央城だった。周治が木彫りを趣味としていることを知った堀尾は、原画を渡して版木を彫らせ、実験的に木版画の制作を試みている。


1991年には周治の地元加古川の風景を題材にした木版画展を神戸の画廊喫茶ロッコーで開催している。これが二人の合作が公開された初めての機会だった(註7)。打ち上げの宴席で盛り上がった二人は、さらなる大作へと意欲を膨らませる。どうせなら寸法も大きく、点数も多い方が面白い。連作としてシリーズ化しやすい題材を探すなかで、たまたま堀尾が巡りあったのが『妙好人伝』であった。


『妙好人伝』は浄土真宗の篤信者の列伝であり、現在みられるかたちに編纂されたのは幕末ころとされている。浄土真宗は仏教の一派であり、親鸞(1173-1262)が師の法然(1133-1212)が開いた浄土宗を継承、発展させ、その死後門徒たちが教団として組織化したものである(註8)。その大きな特徴は「他力」と「易行」にある。阿弥陀如来の本願は絶対的なものであり、その前では善悪をはじめとする我々の価値観はなんら意味をなさない。そんなことと無関係に、凡夫である我々は阿弥陀によって救われることが決定づけられているのであって、そのことをそのまま受け入れるべきである。「他力本願」ということばは、よく単なる「人任せ」と誤解されるが、本来は自分が徹底して無力であることを認識し、阿弥陀の絶対的な慈悲を受け入れる、という姿勢をさしている。そのためには難しい教典を理解する必要はなく、阿弥陀の名号である「南無阿弥陀仏」を無心に唱えるのが唯一の道である。それはなんら高度な知識も、つらい修業も必要としない。6世紀に中国大陸から伝えられて以来、仏教は国家権力と結びつき、主に支配階級を中心に支持されてきたのだが、誰にでも実践可能な敷居の低さにより、浄土真宗は特に一般庶民のなかに広く浸透していった。


『妙好人伝』には、社会の底辺に生きる無学文盲の身でありながら、そうした宗教的直観に目覚めた篤信者たちの姿が描かれている。収録された約150名について、脚色や誇張はあるとしても、原則的にすべて実在の人物だとされている。彼らの言動は荒唐無稽で、しばしば常識から逸脱する。例えば「江州治郎右衛門」は有能な馬子であったが、侍を乗せた馬をひいていた際、つい「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えてしまった。葬式を連想させて不吉だとして、武士は何度もやめるようにいうのだが、どうしても口をついて出てしまう。堪忍袋の緒が切れた武士は、彼を切り捨てようと抜き身の刀を振りかざすが、まさに首を刎ねられるという間際にも、治郎右衛門の歓喜の念仏は止むことがなかった。ついに武士はその純粋さ、迷いのなさにうたれ、自らも信仰に目覚めるのである。


木版画シリーズ《妙好人伝》は約180x90cmの定型のベニヤ板を版木としている(携帯性を考慮して、約60x90cmの板3枚に分割できる)。彫りあがった版木は床面に水平に寝かせ、全面に墨汁を塗ったうえから安価なふすま用の和紙をかぶせ、二人がかりで足踏みで転写していく。シリーズに着手したのが1992年であり、2003年には100点が完成、芦屋市立美術博物館の吹き抜けのホール空間に全点が一堂に展示された(註9)。この時、墨汁でまっ黒になった版木も床面に敷き詰められ、インスタレーションの一部をなしたが、それはまるで宇宙が鳴動するかのような、圧倒的な迫力であった。


ここで注意しなければならないのは、なぜ絵師+彫師という分業制が必要なのか、という点である。いうまでもないが、堀尾が重視したのは自動車の製造ラインにみられるような、分業と習熟による効率化や生産性向上ではない。重要なのは、むしろ作品の全工程を自分で制御するのでなく、重要な部分を他者に委ねること、いわば周治というブラックボックスを介在させることで生じる化学反応なのである。「越後伝兵衛」はその極端な例である。117歳まで生きたと伝えられる伝兵衛の想像上の全身像が猛烈な速筆で描かれ、顔のしわや衣紋はほとんどアクションペインティングの様相を呈している。当初の堀尾の想定では、原画の墨描きの部分を彫ることで、黒地に白のストロークで表現された人物像が浮かび上がるはずだった。ところが、勘違いした周治は逆に墨描きの部分を残して、背景をすべて彫ってしまったのである。ミスコミュニケーションによって白黒が完全に反転してしまったのだが、結果的に伝兵衛の立ち姿は、まるで空気の衣を身にまとったかのような気品に満ち、シリーズ中の白眉となっている。


《妙好人伝》は極めてダイナミックで、一見すると木版を介さない、生のドローイングと見紛うほどである。やはり民芸運動に深くかかわった木版画家、棟方志功(1903-1975)の作品群とつい比較したくなるのだが、その強度が彫りの即興性や奔放さに依存するのに対し、周治の彫りは意外に繊細である。むしろ律義すぎるほどに、堀尾の大胆な筆さばきを忠実に再現している。興味深いのは、ある時周治が木彫を本格的に勉強しようとしたところ、堀尾に猛反対されたというエピソードである。周治は美術の制作については完全に素人である。彼としては我流を恥じて、よりよく表現する技術を身につけたい、という自然な欲求があった。しかし堀尾は、自我によるコントロールの意識が介入することで、ひたすら板を刻む「だけ」という、無心の状態が崩れ去ることを危惧したのであろう。



3-2.他力


民芸運動を提唱した柳宗悦は、実はその晩年に浄土思想を熱心に研究している。法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗を経て一遍(1239-1289)の時宗へといたる浄土思想=他力道の流れを、民芸美学の基盤として捉え直すことを試みる過程で、「妙好人」にも強い関心を寄せている。他力道における念仏は、極楽往生や無病息災などの見返りを期待して唱えられるべきものではない。一遍がいうように「念仏」が「念仏」する、つまり自我が限りなく透明化されることで、自身と仏が不二の状態に到達する、つまり自他を二項対立的にとらえる状態から脱することがむしろ志向される。そういう状態から生み出されるのが民芸の美であり、それは名もなき平凡なつくり手が生み出す、何の変哲もない日用品のなかにこそ宿るのである。名も無き無学文盲の輩でありながら、宗教的に高い境地に到達した「妙好人」のあり方に柳が惹かれたのは必然であった。


よく指摘されるように、鎌倉以降の仏教、特に禅や浄土思想などは宗教であると同時に哲学的な性格が強い。ほぼ同時代、主に武士階級に受け入れられて発展した禅宗は、いろんな意味で浄土真宗と対照的であり、厳しく自己を律しつつ覚者への道程を目指すことからしばしば「自力」の宗教だとされる。しかし柳が指摘するように、アプローチこそ異なれ、両者の目標点には大差がない。禅宗は急峻な山道を、浄土真宗はなだらかではあるが遠大な道程を経ながらも、両者とも目指すところは同じ山の頂上、すなわち「自他不二」の境地なのである。


堀尾の場合、「具体」に端を発する極めてモダニズム的な態度、つまりオリジナリティを徹底的に追求する姿勢と、禅あるいは浄土思想において最も高度な展開をみせた、前近代的な「他力」や「自他不二」の精神とが絶妙な共存をみせているのが興味深い。わが国の作家が日本固有の現代美術のあり方を模索する際にしばしば起こることなのだが、欧米的価値観から対象化され、分節化されることで認識しうる「日本」というものを指標としてしまいがちである。一方堀尾においては、むしろ知的操作を徹底的に排除することで、思いがけず日本固有の思想性がむき出しになっている。それは「日本的な」効果を狙ったものでもなければ、安っぽいオリエンタリズムとも明らかに一線を画している。


堀尾の美術に対する独特なアプローチは、合理性に裏付けられた学びというよりも、野性的ともいえる勘によって選び取られたものである。《妙好人伝》についても、堀尾は浄土思想そのものや、柳の著作などを通じたコンセプトへの共感が先にあったわけではない。極端な話、連作になる題材であれば何でもよかったのである。そのことは、初期の『妙好人伝』に用いられたテクストからもうかがい知ることができる。それは知人からもらった土井順一著『妙好人伝の研究』の、しかもコピーである。同書は副題に「新資料を中心として」とあるとおり、新たに発見された写本や刊本の資料を通じて、その成立史に新たな光をあてようとする研究書である。それは今日一般に流布している『妙好人伝』に比べて、当然ながら遥かに少ないエピソードしか掲載されておらず、また同一人物であってもひらがな、カタカナ表記の違いをはじめ相当に異なるバージョンが収録されている。結果的に木版画《妙好人伝》は、初期作品は土井順一の著作に収録された新出資料、後は一般に流布された定本に準じるという、一貫性を欠いた構成になってしまっているのである。いい意味でも悪い意味でも、堀尾がいかに「行き当たりばったり」であるかを物語っており、予め入念に計画、構成するのでなく、出会ったものにその都度対処し、与えられた「場に沿って」展開するという堀尾芸術の特質がここにも反映されているといえる。



3-3.「ぼんくら」と「空気」


改めてみると、吉原=「具体」のモットーであるオリジナル至上主義も、浄土系特有の他力の思想も、既存の価値観を徹底的に打ち砕こうとする態度には共通するものがある。異なる点があるとすれば、「人のまねをするな」というインストラクションの前提にあるのがパーソナリティであり、表現主体としての「わたし」が立脚点となっているのに対し、堀尾の場合、その在処がしばしば流動的な状況が発生してしまうことである。


そのことを考えるうえで見逃せないのが「ぼんくら」という場の存在である。もとは神戸の下町、大開にあった大衆居酒屋の店名である(「ぼんくら」の本来の意味は「出来の悪い人間」である)。「具体」が解散して間もない1975年、堀尾貞治、ながいけいいち、松嶋茂勝、宮崎豊治、森英夫ら5人は、月1回店内で定期的に展覧会を開いた。彼らの活動は約3年で一旦活力を失うが、以降も参加者が入れ替わりつつ、細々と活動を継続していた。


1989年、「ぼんくら」に転機が訪れる。メンバーのひとり土師清治の提案で「テーマ制」が導入され、特定の共通テーマに基づくグループ展を経て、毎月第二土曜日に参加者全員が同じテーマについて発表するという、一種の合評会に近い形式へと展開していった。全員が発表することで参加者に自主性が生まれ、会は次第に活況を呈していく。さらに80年代末から90年代はじめにかけて、山下克彦や清水公明ら後に堀尾の最大の理解者、協力者となる人たちが相次いで参加しているのも見逃せない(註10)。


現在まで続いている「ぼんくら」の基本的なシステムは、月毎にメンバーが持ち回りで予めテーマを設定し、次回の会合でそれに基づいてめいめい発表しあう、というものである。主題は実に様々で、「時間」や「自由」といった抽象的なものから、「堀尾貞治」その人について、など具体的なものまで多岐にわたる。居酒屋ならではの、飲み食いしながらのリラックスした雰囲気のなかで、いわゆる「もの」としての作品からパフォーマンスに至るまで実に多様な表現が繰り出される。合評会的でありながら、それとも決定的に異なるのは「批評」めいた野暮なことはしない、という暗黙の了解があることだ。それはかつての吉原と「具体」との関係性とは全く異質である。もちろん堀尾の求心力あっての「ぼんくら」なのだが、メンバーのなかには一切のヒエラルキーは存在しない。参加者についても来るものは拒まず、自由かつ流動的であり、極めてオープンである。


「ぼんくら」の最大の存在意義は、一種のブレーン・ストーミングの場としての機能にある。同じ表現者の集まりであっても、例えば共同でスタジオを借りて制作の場を確保しつつ、マスコミや観客に発信していくような動きとは根本的に異なっている。制作ための物理的な環境整備よりは、極めて限られた空間であっても無限の宇宙をみることが優先される。職業としての美術よりは、生き方としてのそれが問題にされる。それは第一に美術的思考の鍛錬の場なのであり、それ以外の見返りやメリットをこの場に求めるのは見当違いである。


裏を返せば、彼らには効率的な広報戦略が全くといっていいほど欠如しているのである。年間に数えきれないほどの展覧会に参加する堀尾にしても、その主要な広報手段はなんとDMの手渡しである(註11)。彼は驚くほど頻繁に他人の展覧会にも足を運んでおり、ほとんど「みる」という行為を自らに課しているようなところさえあるのだが、そんな彼と出会う度に「こんど、よろしくお願いします」とDMの束を直接渡される。同じ関西圏でも京都や大阪には美術大学も多く、ギャラリーなどのシステムもより確立しているのに対し、阪神間から神戸にかけてはむしろオルタナティブ・スペースの存在感が強い。それらはギャラリーなどのネットワークから外れているため、筆者のような美術の専門家の情報網にさえ、なかなかひっかかりにくいのである。堀尾らの活動が長年アンダーグラウンド化せざるを得なかったのはこういうところにも一因がある。とはいえ、前述した経済と美術の問題とも関わってくるのだが、仮に「ぼんくら」が「他者」を意識し、より効率的な広報戦略を打ち出しはじめたら、絶妙なバランスの上に成立しているあの独特な無償性は、恐らく失われてしまうだろう。そういう事態から彼らは本能的に距離を置こうとするし、またそういう雑音に煩わされずにすむのが「ぼんくら」の長所でもあるのだ。


1995年の阪神大震災により「ぼんくら」の店舗は全壊し、会合は存続の危機にたたされた。メンバーは倒壊した建物に赤のペンキを塗ることで追悼のイベントとしたが、驚くべきことに、早くも同年5月にはそれは不死鳥のごとく蘇っている。堀尾の友人の建築家、松本剛太郎の「家なんか簡単に建つでぇ」という発言に鼓舞された堀尾は、メンバーとともに、なんとほとんど手づくりで店舗を再建してしまったのだ(註12)。2008年、店主東郷の体調不良により「ぼんくら」は閉店し、その翌年東郷は惜しまれつつ世を去ったが、それ以降も会としての「ぼんくら」は会場を転々としながら存続し続けている。


1975年以来30年以上にもわたり、堀尾がそこまで「ぼんくら」にこだわり続ける理由は何なのか。それは彼にとっての「ぼんくら」が、「自我」の限界を乗り越えるために有効な、一種の増幅回路であるからに他ならない。堀尾と「ぼんくら」のメンバーがともに活動する場合、その作者が誰なのか、つまり作品が彼らのうちのどの個人に帰属するのかが不明瞭な事態がしばしば発生する。「誰の」作品かということよりも、結果としての作品がどうなのかが最優先されるのだ。「面白ければ何でもええ」のである。普段から美術的な発想力を鍛えているだけあって、与えられた現場の条件から柔軟に、しかし最大限の可能性を引き出すうえで、彼らのチーム・ワークは非常に効率的である。まどろっこしい議論なしに、ほとんど以心伝心で方向性が決定され、自発的に作業が分担され、即進行する。


堀尾の作品にはよくみられることなのだが、大づかみなコンセプトのみがまず提示され、あとは設定された到達点にむかってひたすら全力疾走が要求される。いわば枠組みやシステムだけが用意され、演出やコンポジションが介在する余地は意図的に剥奪されるのである。既存の何かをトレースすることが原理的に不可能な状況下では、その時間と空間を新たに生きるしかないのだ。堀尾自身、こうした自作の特徴を「表現的でなくて表現的」と言い表すことがある。結果がどうなるのかは、堀尾自身にさえ予測不可能なのである。またしばしば参加者までをも巻き込んでパフォーマンスが行なわれるが、堀尾は表現者でありながら、同時に自身が引き起こした現象を見守る観察者となることも少なくない。


2002年に芦屋市立美術博物館で開催された個展では、38日間の会期中毎日パフォーマンスが行なわれた。例えば「白」というテーマが設定された日には、会場内のすべての空間を、あらゆる手段を動員して白一色に染め上げることが企てられた。塗料や紐、大量の紙など、様々な素材、方法論を動員しつつ堀尾は猛烈な速度で作業していったが、その過程を演出するような配慮もなければ、段取りも何もあったものではない。行為する堀尾を追いかける観客は、いつしか流れに巻き込まれ、自らその辺のオブジェを模造紙でくるんだりする羽目になる。もはや表現者と観客との区別は曖昧となり、まるで堀尾を中心に波紋が広がっていくかのように、空間のすみずみまでが美術に満たされていくのである。


会期中、「ぼんくら」のメンバーに加えて、観客のなかから自発的にパフォーマンスを手伝うようになった人々が合流し、自然発生的にグループのようなものが形成された。翌2003年に開催された「空気美術館」において、それは堀尾によって「現場芸術集団『空気』」と正式に命名されている。これまで「あたりまえのこと」ということばの背景に隠されていた「空気」というコンセプトが、ついに前面に現れたのである。


「空気美術館」は、堀尾の自宅のすぐ近くにある日本最大の運河、兵庫運河を会場として開催された一種の野外展であった。広大な水面を美術館に見立てて、約1年間ものあいだ様々な美術活動が展開されたが、ここでは堀尾の関心は、自らの表現に留まらず、様々な人々や活動が自由に往来するためのプラットフォームへと、より明確に向けられていた。恐らく堀尾は、芦屋での個展を通じて、美術が本来持っているある可能性をより明確に意識しはじめたのではないか。自他の差異を区別し、分節化して捉えることは、理知的な世界認識への第一歩である反面、差別や権威を生む一因ともなり得る。そういう二元的な思考を打ち砕き、誰もが一体となり、何ものからも解放されて心から笑いあえるような一種のユートピアを現出させること。それは「自我」や「個」に対するこだわりを捨て去って、初めて可能となるものであろう。





4.不可知


わからんということが希望、わからんことが唯一のすくい、わからんことが意欲、わからんことが進歩、わからんということが大事なこと(註13)



4-1.場に沿って


自我への妄執を捨て去ることは、自身の立脚点をあえて固定化しないことにも繋がる。素材や空間など、制作のための諸条件を自身の都合にあわせて選び取っていくというよりは、むしろ白紙の状態でそれらと「出会う」ことがより重要となるのである。2009年にヴェネツィアのフォルチュニィ宮で開催されたグループ展「イン=フィニタム」に参加した際も、堀尾と「空気」のメンバーはほとんど手ぶらで会場入りし、フォルチュニィ宮の最上階を展覧会用に改装した際にでた廃材などを主な材料として用いた。核となった作品《無限絵画》は、その場で入手した木材を貼り合せて支持体をつくり、プレヴュー期間中断続的に色を塗り続けたものである。角材を繋ぎあわせているので画面は何となく方形が寄り集まったような状態であり、堀尾は四角いエリアごとにランダムに色を塗り分けていった。


四角というかたちも堀尾にとっては重要なエレメントのひとつである。絵画がその典型だが、何らかのバーチャルな空間を生み出そうとする際、その基本的なフォーマットは原則として水平、垂直によって規定された矩形となる。それは自然界には存在しえない、極めて人為的な、また人間の知覚と密接な関わりを持った形態だといえる。堀尾は普段道を歩いている時にも、窓やドア、建築物から換気口に至るまで、日常風景のなかに無限に響きあう四角の存在に着目してスケッチしたり、時には山下克彦が撮影した写真にコラージュを施したりする。これらの営為はしばしば《四角連動》と総称される。「連動」ということばからうかがえるように、ここでは無数に存在する矩形相互の関係性が問題とされている。それは世界を分節化して切り取るための矩形を、再び世界の全体性のなかに還元しようとする態度の表れなのかも知れない。


「イン=フィニタム」における《無限絵画》は《色塗り》と《四角連動》の要素を兼ね備えた作品である。作品は刻一刻と表情を変え、途中で全面が白一色に塗られた印象的な瞬間があった。下に塗り重ねられた色がかすかに透けた絶妙の表情であり、筆者などはファウストよろしく、思わずこの瞬間を永遠に固定したいと感じた。究極の1点を美術史のなかに永遠に刻印すること。それこそ幾多のアーティストが憧れ、目標とするところであろう。ところが堀尾は、そういう欲望を躊躇なく打ち砕いてしまう。容赦なく色を塗り重ね、さらに「空気」のメンバーおよび筆者までもが色塗りに参加することになった。そればかりか、堀尾はあまったチューブから《無限絵画》のうえに片っ端から絵具を絞り出し、そこら中の紙でふき取りはじめたのである。《四角連動》は突如《一分打法》のバリエーションへと変貌し、絵具をふき取った紙片はひとりにつき1点限りで観客に配られた。面白かったのは、作品が「ただでもらえる」と分かった瞬間、観客の目の色が一変したことである。作品から一定の距離を置いて鑑賞する、といった行儀のよさはどこへやら、少しでもいいものを持ち帰ろうと、誰もが真剣に獲物を狙いはじめた。両手にそれぞれ作品をつかんだ少女が、「ひとり1点よ」と母親からたしなめられ、熟考の末全く別の新たな作品を持ち帰る、という一幕もあった(これ以上の鑑賞教育があるだろうか!)。みる/みられるという関係性は半ば効力を失い、観客もパフォーマンスの一要素として巻き込まれてしまう。美術の力で誰もが一体になれる可能性、そこには国籍や言語、文化の違いは無関係だということを、この作品は雄弁に物語っていた。



4-2.白紙、子どもの絵


一切の既成概念にとらわれず、白紙の状態から物事を発想するうえで、堀尾のみならず「具体」の作家たちがほとんど唯一、その影響を公言してはばからないのが子どもの絵である。ここでは詳しく述べる余裕がないが、「具体」はその初期から子どもの絵に興味を持っていた。吉原が代表を務める芦屋市美術協会は、子どもを対象とした公募展「阪神間童画展覧会」を1948年に創設し、1950年より「童美展」と改称、2008年まで半世紀以上にわたって開催された。1996年から芦屋市立美術博物館が会場となったため、当時同館に勤務していた筆者もその末期の状況を実際に体験している。当時はかなり大掛かりで、全国から寄せられた約8千点もの作品は、芦屋市美術協会、事実上もと「具体」のメンバーによって審査され、厳選のうえ約1,200点が展示されていた。大量の作品が所狭しと展示された会場は、生々しい素材感と強烈な熱気にあふれ、その圧倒的な迫力は中途半端な現代美術など吹き飛んでしまう程であった。


あまりに応募点数が多いため、審査員はいくつかのグループに分かれるのだが、筆者はなぜか堀尾のいるチームの担当になることが多かった。応募者のなかには一度に何百点もの作品を持ち込む幼稚園も少なくないのだが、筆者のチームは小口担当で、個人単位での応募も含まれていた。困ったことに、特に個人の応募者と堀尾との間で、何度かトラブルが起きることがあった。要するに、相手が子どもであろうと誰だろうと、彼は全く手加減しないのだ。ある時、おじいさんが孫の手を引いてやってきた。「孫が私の顔を描いてくれました」というわけだが、眼の前で一瞬にして落選を宣告され、烈火のごとく怒り出すこともあった。またある時は、明らかに時計とおぼしき立体作品を持ち込んだ幼稚園の先生に対して、堀尾が「針と文字盤がいらんなぁ。これをとったら入選!」と告げると、先生が「はい、分かりました」とパーツをベリベリ剥がし出したのにはさすがに驚いた。ちなみにこの先生は「童美展」への参加歴の長いベテラン幼稚園の方で、この展覧会の性格をよく理解されていた。


審査員のなかでも堀尾の徹底ぶりは際立っていたし、彼の子どもの絵に対する姿勢を間近でみることができたのは幸運だったと思う。堀尾にとって童美展の審査は、まさに真剣勝負の場だった。子どもがかわいいからとか、情に流された要素は微塵もなく、よくない作品が連続するとみるみる顔や態度に不機嫌さが表れたものである。そして会期が始まると、会場で猛烈な勢いでスケッチする堀尾の姿を、毎年見ることができた。


「具体」の作家たちのなかには、子どもが思いがけずうみ出すかたちの面白さから、実際に造形上のヒントを得た者もいないとはいえない。しかし堀尾の場合、その興味の対象は、驚くべき作品を子どもたちが易々とつくってしまうメカニズムそのものにあるように思われる。


教育学などでは子どもの発達過程に応じた表現の推移について、だいたい「錯画」(0-3歳ころ)、「象徴画」(3-5歳ころ)、「図式画」(5歳ころ-)の3段階に分けて考えることが多い。「錯画」は紙と鉛筆がこすれ合う触覚性や痕跡が残る面白さにとりつかれた殴り描きの段階であり、偶発性への依存度が高く、つくり手の主体的な意図に乏しいとされる。「象徴画」の段階に至ると、自らの意志で、より運筆をコントロールできるようになるが、具象的なイメージであっても、いわゆる常識的な規範にはとらわれない独創的な表現が見受けられる。そして「図式画」になると、周囲の影響のもと、より慣習的な表現や、コミュニケーション手段としてのイメージ操作を重視しはじめるのである。


このうち「具体」のメンバーが興味を示したのは圧倒的に「錯画」である。童美展の場合もゼロ歳児のドローイングなどは最強であり、ほとんど文句なしに入選だった。幼児にとっては日々が世界との新しい出会いであり、原理的に既成概念を持ちえない。未だ言語によって世界を分節化できない、つまり自己と世界とが未分化な状態、それは仏教が目指すところの自他不二の境地に極めて近いのではないだろうか。我々は本来この世に生まれ出た瞬間には悟りの境地にあるが、やがて堕落が始まる、ということなのだろう。





あたりまえのこと 結びにかえて


堀尾においては、「美術」と「日常」との関係性が問題の核心をなしている。しかし、それはダダイスムやネオダダ、ポップアートなどを持ち出すまでもなく、何度となく繰り返されてきた主題でもある。マンネリズムを回避するため、「日常性」という精力剤を注入することで、ある意味で美術は延命をはかってきた。この場合の「日常」には卑俗さや猥雑さなど、とりすましたハイ・アートに対してショックをもたらす効果が期待されている。「美術」にとって「日常」は危険な存在でなければならないのだ。


しかし、それはあくまでも「美術」の味を引き立たせるために「日常」というスパイスが用いられているのであり、両者の果てしない二項対立はなんら解消されていない。堀尾の芸術が画期的なのは、こうした不毛な連鎖を断ち切り、「美術」と「日常」との対置的な把握から免れるものであるからに他ならない。


その原点はやはり「具体」に求めることができる。例えば白髪一雄の「泥にいどむ」や村上三郎の一連の紙破りは、自らの身体そのものを絵筆と化すことで絵画の概念をギリギリまで拡張したものと考えられる。彼らの行為は、まるで世界のただ中に身を投じようとするかのような、強い衝動を感じさせる。それを自己と世界、あるいは日常とを二元的に捉えるのでなく、本来的に分かちがたいものであることを確認したい、そういう欲求の表れとみなすことはできないだろうか。


筆者がみる限り、「具体」のメンバーのなかで、そうした問題意識を一貫して保持し続けたのは村上三郎と堀尾貞治である。両者ともにその本領はより非物質的な領域にあり、「もの」としての作品に執着しない傾向が強い。村上の場合、年を経るごとに必ずしも積極的な発表や発言の形をとらなくなった。それはほとんど制作の放棄にみえたが、怠惰と紙一重でありながら、何かひっかかるものを感じさせる、不思議な存在感が彼にはあった。次のことばは、少なくとも彼が通常とは異なる次元で芸術というものを捉えていたことをうかがわせる。


「芸術の徹底した形ではね、何もせんとポカーンとして、ぐうたらに酒飲んでね、寝て暮らしても、すごくええと思うよ」(註14)


それに対して、堀尾はまさに実証主義の作家である。とにかくやってみないと、自らの手で確認しないと気がすまない。その行為は線を引いたり、紙を切ったり、色を塗ったりと、個別にみれば何の変哲もない、まさに「あたりまえのこと」である。ほとんどの場合、彼にしかできない芸当というわけではない。しかし、「あたりまえのこと」を果てしなく継続するとき、時に信じられないような、奇跡と呼びたくなるような状況が現出する。それは堀尾の主体的な表現というよりも、その単純な行為によって引き起こされた一定の状況なのであり、そこではしばしばみる者とみられる者という対立概念が効力を失ってしまう。美術の力によって、その場の誰もがひとつになるような、一種のユートピアのような空間が立ち現れるのである。


先述した芦屋の個展における「白」のパフォーマンスの場合、庭に面した休憩コーナーのあらゆるオブジェやソファの類いを紙でおおうことで、それぞれが本来持っている色彩や質感は遮蔽され、すべては真夏の太陽にまばゆく照り輝く純白のフォルムへと還元された。あるいは、展示室のフローリング床は、ありったけの紙を繋ぎあわせた白い面で覆われたが、何もない純白の空間が出現したこともさることながら、巨大な一枚ものの紙を拡げる際に生じる「バリバリ…」という音の強烈さは、全く予想だにしないものだった。ここで行なわれたことは、実は特別なことでも何でもない。それぞれのものが本来有している属性(もののフォルムや、音が満ちることで意識される空間のスケールなど)に対して、まるで子どもが初めて世界と出会うかのような新鮮さでもって、我々が向きあうことができるように、ちょっとしたお膳立てがなされたまでである。普段は惰性でしか見ていない世界が、堀尾の手によってその本来の美を開示したのだともいえるだろう。「あたりまえのこと」は「あたりまえのこと」だからこそ美しい。要はそれに気づこうとするかどうかなのである。かつて村上が堀尾に語った「ええのに決まっとるやないか」ということばは、恐らくはこのことと関わっている。


「ぼんくら」や「空気」など、彼のまわりに集う人々は、いわゆるファンクラブのように、堀尾というブランドを共有することに価値を見出しているわけではない。誤解を恐れずいえば、彼らは堀尾という麻薬の中毒患者たちなのだ。「美術」と「日常」、あるいは「自己」と「世界」とが本来的に不可分であること、それに目覚めることは、限りある生をこの上なく豊かにしてくれるものであるらしい。それは「生きる」という「あたりまえのこと」が、いかに奇跡に満ちたものであるかに気づくことなのだから。


2010年現在、今なお「鉄人」堀尾の勢いは微塵も衰えていない。その体力は尋常では考えられないレベルであり、普段会う限りは「老い」を感じることは全くない。それでも、彼は既に70歳を過ぎた。縁起でもない話だが、残された時間は無限にある訳ではない。彼も人の子である。当然ながら、超人的な体力を維持するのはいつか不可能になる。


もちろん、堀尾にはまだまだ暴れてもらいたいのは当然だが、一方で、いよいよ身体の自由が利かなくなった時、彼がどのような美術的営為を行うのか、これは非常に興味深い問題である。彼が考えられないほど柔軟であり、どんな状況からも作品を生み出す底力を持っていることは既に触れた。人間にとって、ある意味究極の逆境は死である。生涯に一度きりの極限状態に、果して彼はどのように向きあうのであろうか。


そういえば、近年堀尾がよく口にするのが、何も改めて特別なことをしなくても、美術は充分可能なのではないか、ということだ。「冗談やなくて、そう実感するんや」といいつつ、例えば彼はバー・カウンターの上の割り箸やコップなどの位置を少しづつ移動させる。ほろ酔い加減でいかにもリラックスしていながら、視線は注意深くものたちを追い続ける。これが果して美術と呼べるのか、ええのかあかんのか、そんなことはどうでもいいのだろう。案外彼は、村上とは全く異なる道程を経ながらも、「何もせんとポカーンと」した、「芸術の徹底した形」に向いつつあるのかも知れない。


『Sadaharu Horio』Vervoordt Foundation(2011)



註1:近代以降の日本の美術界特有のシステムとして、美術団体というものがある。かつては作品を発表するには、何らかの美術団体に属するのがほとんど唯一の選択肢であり、有力な美術団体が主催する公募展に入選し、会友、会員のステップを登り詰めていくことが美術界における成功とみなされた。

堀尾もごく若い頃に「自由美術協会」と「独立美術協会」に同時に応募したことがある。ところが複数の団体展にエントリーしていることに対して、「二股をかける行為」だとして非難され、美術団体のセクト主義に幻滅する。

「具体」も美術団体の一種ではあるが、代表の吉原自身が長く「二科会」の関西代表を務めていたし、会員が他の団体展に出品しても咎められることはなかった。

堀尾の地元神戸は「二紀会」の勢力が強いが、それと比較したとき、たとえ初期のような実験性を失っていたとしても、作品本位で評価が決まる「具体」の風通しのよさは彼にとって魅力だった。

註2:筆者によるインタビュー(2009年4月15日)

註3:柳宗悦「工芸の美」『大調和』1927年4月号 『民芸四十年』岩波文庫版(1984年11月刊)に再録

註4:1979年に堀尾によって開廊した東門画廊は、1985年に閉廊するまでの間、かつてない実験的なスペースとして次第に活況を呈していった。原則として堀尾が作家を選び、家賃実費相当の格安料金で若い作家たちに貸し出した。堀尾自身の個展のほか、画廊内に水田を持ち込んだ竹村一博(1979)、榎忠による架空の酒場「バー・ローズ・チュウ」(1979)、人糞による絵画やオブジェを展示した岩尾浩、小泉雅代、岡山直美による新素材3人展(1982)など、数々の実験的な展覧会が開催された。

註5:辺り一面が焼け野原となった長田は、堀尾の家からそう遠くないところである。酸化した鉄材の赤みを帯びた色が辺り一面を埋め尽くし、抜けるような青空とのコントラストがあまりにも鮮やかだった。堀尾の一連の震災風景のなかに、この状況を極端に横長の紙に描いた「長田」というドローイングが何点か存在する。

また三宮の中心部では林立するビルがそれぞれに傾き、歩いているだけで平衡感覚を失いそうになった。あの景色をみた後では、現代美術のインスタレーションなどあまりにも小賢しく感じられ、到底見る気にならなかったものである。

註6:鈴木大拙著、北川桃雄訳「禅と美術」『禅と日本文化』1940年9月30日第1刷発行、岩波新書

註7:堀尾の交流範囲には、美術のプロ/アマを区別する意識がほとんど感じられない。例えば、彼は三菱重工神戸造船所に就職した際、すぐに会社のクラブ活動のなかの洋画部「CPM」に所属している。CPMとはセザンヌ、ピカソ、マチスの頭文字をとったもので、堀尾は現在に至るまで一貫して写生大会や展覧会などに参加し続けている。「具体」のもとメンバーで、前衛の最前線にいるようなアーティストが、こうしたアマチュアの愛好家たちとごく自然に活動を共にしているのは非常に不思議な感じもするが、相手が権威的でさえなければ、わけ隔てなく他人と付き合うことができる彼の懐の広さが表れているといえるだろう。

註8:生前の親鸞には教団を組織する意図はなかった。

註9:100点を持ってシリーズは完結する予定だったが、周治の強い希望で『妙好人伝』に収録された約150名すべてを網羅することを目標にその後も制作が続けられ、2009年ついに全点が完成した。

註10:陶芸教室を営んでいた山下克彦は、1982年に兵庫県立近代美術館で開催された「明日の美術館に向かって-美術劇場」展で初めて堀尾の作品と出会った。その後1989年六間画廊で開催された堀尾の個展から受けた衝撃が決定的となり、「ぼんくら」に通い始める。山下は「ぼんくら」のなかでもキー・パーソンであり、堀尾から最も信頼されている人物のひとりであろう。彼は可能な限り堀尾の作品の現場に立ち会い、記録写真を撮影するだけでなく、コピー製本にして周囲の人々に配るという活動をずっと継続している。その中には「ぼんくら」の記録写真も大量に含まれており、彼らの活動を知るうえでの第一級の資料となっている。また日常的に目にするもののうち、堀尾のアンテナにひっかかるであろうと思われる情景を写真に撮り、「SADA」というスタンプを捺して堀尾に郵送するという行為を、20年近くにわたり毎日実践し続けている。山下は自身のことを特に美術作家だとは規定しないが、いくつもの重要なパフォーマンス的な作品も発表している。

清水公明は1992年に神戸市灘区にオルタナティブ・スペース「ギャラリー2001(現アトリエ2001)」をオープンさせた。同ギャラリーはやがて堀尾や「ぼんくら」の参加者にとって重要な発表拠点のひとつとなっていく。

註11:堀尾はしばしば自分宛に送られてきたDMに《一分打法》的に加筆し、自分の展覧会のDMとして再利用することがある。

註12:松本剛太郎は1990年に堀尾が自宅を新築した際も、その設計を担当している。内装に一切壁紙を用いず、コンパネや梁などの木材がすべて露出し、さらに堀尾のアトリエ空間は木肌一面がノミの彫り跡で埋め尽くされるなど(堀尾と山下の作業による)非常に興味深い建物だった。残念ながら区画整理のため2008年に取り壊されたが、この時「ぼんくら」のメンバーたちと解体直前の自宅の内外すべてを点々で埋め尽くすというベントが行われた。解体の際には壊しても壊しても次々と点々があらわれて解体業者を驚かせたという。

註13:堀尾貞治「現代美術ひとりごと」『美術雑論5/1』No.2(天野画廊刊)1986年

註14:「具体と具体後 その2 村上三郎インタビュー」『Jam & Butter』17(モリス・フォーム機関誌)1973年5月1日

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