坪内晃幸と「具体」

・距離と孤独

坪内晃幸は1957年4月に第3回具体美術展に初出品し、以来1972年の解散まで16年間にわたって具体美術協会のメンバーとして活動した。メンバーのほとんどが阪神間や大阪を拠点としていたのに対し、坪内が暮らしていたのは愛媛県松山市であり、50年代から参加していた古参メンバーの中では唯一、遠隔地からの出品を続けた。

1966年には高知の高崎元尚が会員となり、ようやく四国在住作家の仲間が生まれている。ただし高崎の場合、具体ヘの参加を決意したきっかけは、自らも招待されて出品した第1回ジャパン・アート・フェスティバル(1966年、ニューヨーク)の会場で吉原治良、白髪一雄、元永定正の作品に感銘を受けたことだった。つまり具体も高崎も、既に美術界にそれなりの地位を確立していたのである。

しかし、坪内が具体の存在を知った当時、彼らは国内の美術界からほぼ黙殺されていた。しかも坪内は、具体の実作品ではなく、まず「具体美術宣言」に謳われている「思想」に共鳴したのである。『芸術新潮』1956年12月号に掲載された「宣言」に感動した坪内は、早速自作と手紙を吉原に送り、翌年3月には芦屋の吉原邸を訪ねている。この時、嶋本昭三と鷲見康夫の公開制作も見学しているが、その感想はやや複雑であった。想像以上のエネルギーに圧倒されると同時に、彼なりに解釈していた「宣言」の精神とのギャップも拭いきれなかったのである。絵具を塗った番傘を画面に叩きつける鷲見、絵具入りのガラス瓶を画面に投げつけて炸裂させる嶋本らのアクションは、坪内にはあまりにも“発散型”に感じられたのだ(註1)。

翌月(4月)には、京都市美術館で開催された第3回具体美術展に初出品している。自身の回想によると、このとき吉原から「飛んで火に入る夏の虫というのは、君のことやでぇー」とからかわれたという。この発言は、坪内に対する配慮の裏返しとみるべきである。坪内に吉原が書き送った書簡が残されているが、文面からは相当に細やかな気遣いが感じ取れる。通常メンバーの作品に対して、吉原は「ええ」「あかん」と判断を下すのみで、具体的、技術的な助言はまず行わなかった。しかしこれらの書簡には、かなり細部まで踏み込んだ感想や助言が見受けられ、遠隔地の坪内を思いやる様子には吉原の紳士的な側面が表れている(註2)。

松山と関西との距離、具体の実像に対する戸惑い、美術界における微妙な位置づけなど様々なリスクを抱えながらも、坪内はあえて具体ヘの参加を決意した。やがて1957年9月、フランスの美術批評家ミシェル・タピエの来日を契機として、具体はアンフォルメル運動の渦中に巻き込まれ、一躍世界のアートシーンへと躍り出していく。具体を介して、坪内は一挙に世界とつながる回路を手にするのである。

当時の具体が美術界からほとんど注目されなかった一因として、東京からの距離がハンディとなっていたことは否めない。まして松山のような地方都市で現代美術に取り組むことの困難さには、計り知れないものがあっただろう。しかし、松山市教育委員会の職員として生計を立てていた坪内にとって、東京や関西に移り住むのは現実的な選択肢ではなかった(註3)。

それでも坪内は、果敢に愛媛からの発信を試みている。1969年、1970年に彼が中心となり、二度にわたって開催された愛媛野外美術展は、愛媛の戦後美術史上注目すべきトピックだといえよう。しかし残念ながら、史跡であり公共空間でもある城山公園の使用許可をめぐる問題が浮上し、わずか2回開催されたのみでそれ以上の継続は不可能となった。公園の利用に難色を示したのが、坪内の勤務先である市の教育委員会だったのは皮肉である。新しい美術への思いと現実とのギャップに直面するなか、具体とのパイプは、彼にとって作品をつくり続けるための生命線だったことが容易に想像できる。

・具体美術宣言

前述したとおり、坪内が具体に興味を抱いたきっかけは吉原治良の「具体美術宣言」である。発表されたのは『芸術新潮』1956年12月号の誌上であり、それまでの活動の総括およびプロパガンダを意図したものである。「宣言」が坪内にもたらしたインパクトは、自らも認めるとおり、アーティストとしての彼の生涯を決定づけたといっても過言ではない。

まず注意しなければならないのは、「宣言」が書かれたタイミングである。第2回具体美術展を終え、初期の主要な作品の多くが既に出そろっている。なかには作品の永続性よりも刹那的な行為を重視する実験的なものが多数含まれており、それらは今日、いわゆるインスタレーションやパフォーマンスの先駆的作品とみなされている。しかし、恐らく吉原自身でさえ、当初からここまで特異な作品が多数生み出されることは予想していなかった。そのことは、1955年1月、まだグループとしての展覧会活動を行う以前に刊行された機関誌『具体』1号の序文と「宣言」を比較すれば明らかである。

「われわれはわれわれの精神が自由であるという証しを具体的に提示したいと念願しています。新鮮な感動をあらゆる造型の中に求めて止まないものです。われわれはこの冊子をそのために捧げたいと思っています。視覚芸術の全般にわたって例えば書、生花、工芸、建築等の分野にも友人を発見したいと思っています」(註4)

他ジャンルとの連携を重んじる比較的穏当な調子とは一転して、「宣言」の冒頭では、いきなり従来の美術に対して死刑が宣告される。

「今日の意識に於ては従来の美術は概して意味あり気な風貌を呈する偽物に見える。/うず高い、祭壇の、宮殿の、客間の、骨董店のいかものたちに決別しよう。/これ等のものは絵具という物質や布切れや金属や、土や、大理石を人間たちの無意味な意味づけによって、素材という魔法で、何らかの他の物質のような風貌に偽瞞した化物たちである。精神的所産の美名に隠れて物質はことごとく殺戮されて何ごとをも語り得ない。/これ等の屍を墓場にとじこめろ」(註5)

「宣言」の方が明らかに強気であり、過激さを増しているが、それは自分たちの作品が他から突出しているという自負の現れに他ならない。このテンションのまま、「宣言」は「精神」と「物質」をめぐる有名な一節へと突入する。坪内が共感したのはまさにこの部分だと思われるが、それについては後述する。

・ミクロとマクロ

具体時代の坪内の作風の変遷は、おおまかには具体そのものの変化と連動している。アクションやインスタレーションの先駆的な表現とプリミティヴな絵画とが未分化な状態で共存していた初期(1954〜57)、アンフォルメル運動と連動しつつ絵画へと収斂していった中期(1958〜1965)、ライト・アートやキネティック・アートの新人を大量に迎え入れた後期(1965〜72)である。

1956年頃、坪内は穴を開けた空き缶に揮発性の油で溶いた絵具を入れ、水平に寝かせたキャンバスの上から流す、という方法で制作していた。オートマティズムを取り入れることで、構図のコントロールはより困難になるのだが、かえって絵具そのものの存在感が際立ってくるのが新鮮な発見だった。相前後して「宣言」と出会い、そこで述べられている思想と、自作を通して得られた手応えとに響きあうものを感じた坪内は、このタイプの作品を手紙を添えて吉原に送っている。

現存する最も早い抽象作品は1957年のもので、それぞれ第3回、第4回具体美術展の出品作である。いずれも上記した制作方法の延長線上にあり、絵具をスポイトでドリッピングし、オールオーバーに滲みをつくっている。大作主義の具体のなかでは比較的小ぶりであり、そのデリケートな表情は、顕微鏡をのぞいた時に出会う未知の視覚世界を連想させる。外側に向ってエネルギーを放出するよりも、微細なテクスチャーへと視線が沈潜していくような感覚があり、作家と画面との距離の近さを感じさせる。

こうした空間把握の仕方は、実は坪内の仕事に一貫してみられる特徴なのではないだろうか。具体の場合、特にアクション的な作品では比較的短時間に大画面を描ききることが多い。必然的にディテールよりもまず全体を大づかみに把握することが優先される。白髪のフットペインティング然り、嶋本のビン投げによる絵画然り。ダイナミックな行為により、短時間で「全体としての絵画」が立ち現れる。それに対して、坪内の場合はミクロ的なディテールへの視線が優先されている。画面の全体性は、あくまでもディテールの集積によって結果的に形成される。自分が確信を持てる、近い距離感にあるものを足掛かりにして、より大きな世界がたぐり寄せられるのである。

そうした特徴は、60年代半ばの絵画作品ではより顕著である。多くの場合、清潔感のある白い地塗りの上にオールオーバーに線が描かれるのだが、特徴的なのはダーマトグラフが多用されていることだ。ダーマトグラフは色鉛筆の一種で、ガラスや金属、フィルムなどの平滑な面にも書けるようにワックス成分の多い芯が使われている。こうした特種な画材を用いることで、油彩画的な重々しさとは異質な、まるで紙に鉛筆で走り書きするかのような軽やかさが生み出されているのである。ほとんどの場合、個々の線描は手先の動きの範囲で完結し、腕全体の動きを反映した長いストロークになることはまれである。数センチ四方のエリアが完結すると、他のエリアへと順次移動し、描いたり消したりを繰り返しつつ、画面全体が埋め尽くされるまで行為が繰り返される。つぶやきにも似たストロークの集積は叙情的でありながら、甘さに流れることがない。それは恐らく、目の前の一定の空間を線で埋めるという「作業」に意識が集中しているからであろう。果てしない自問自答を思わせる作業の反復により、自我が濾過されたかのような、清澄な空間が生み出されている。

70年代初頭、具体が解散する直前の作品では、やはり白い地塗りの上にナンバリングスタンプがびっしりと捺されている。手描きの線がスタンプに置換されることで身体性はやや後退し、数字の羅列によるより無機的な感覚が押し出されている。先述したとおり、1965年頃を境として具体はキネティック・アートやライト・アートの新人たちを受入れ、1970年の大阪万博に向けた環境芸術の流れに同調していく。この時代にも坪内は一貫して絵画を制作し続けたが、数字という客観的な要素の導入や、システマチックな反復性が顕著である点など、やはりテクノロジーとアートが接近した高度成長時代ならではの雰囲気を感じさせる。ただし坪内の場合、決して楽天的なテクノロジー賛美のスタンスではないことに留意しておきたい。

具体時代の作品のうち、残念ながらかなりの点数が作家自身の手によって焼却されてしまった。それは保管場所の物理的な制約のほか、坪内自身の作風の変化が深く関わっている。美術に対するスタンスの大きな変化により、過去の作品に対する執着がより希薄になったようである。

・精神と物質、あるいは自己と現実

1971年、坪内は松山市内の路上で摩滅し、変形した「制限時速40キロ」を示す標識と出会う。翌年にはその標識をはじめて撮影し、さらにその翌年、1973年には横幅約5メートルのネコプリントに引き伸ばして村松画廊における個展で発表している。それまでの絵画とは全く異質なこの作品は、坪内にとって大きなターニングポイントに位置しており、具体以後の方向性を決定づけたものである。

この作品と、直前のナンバリングスタンプを用いた作品とのあいだには、実はある連続性が認められる。まず互いに「数字」が用いられていること。もうひとつは、先に述べたミクロとマクロとの関係性である。ナンバリング作品の場合、画面に近寄れば数字は個別に判別できるが、離れてみると画面全体はグレーの濃淡のリズムとして知覚され、個々の番号を認識するのはもはや不可能である。他方の道路標識の作品の場合、被写体は松山市内のある特定の路面なのだが、もちろん彼はこの現場のみを問題としていたわけではない。大画面に引き伸ばされた速度制限標識は、見るものに様々な思考を誘発する。大阪万博を経た当時、日本全国に道路網が整備され、自家用車の所有率が右肩上がりに上昇しつつあった。モータリゼーション社会の到来である。ミクロの事象と、その集積としてのマクロの問題とのあいだで、我々の視線、あるいは思考は往復運動を余儀なくされる。

一方で、ふたつの作品のあいだには大きな隔たりも存在する。まずは絵画から写真へという、メディアの大きな変化である。もっとも、後者は写真作品というよりも、「40」のイメージがトリガーとなり、見るものに何らかの思考をうながす一種の知覚装置とみなすべきである。さらにナンバリング作品と標識の作品とでは、数字の持つ意味の強度にも違いが認められる。前者では、膨大な数字の羅列が、人間性が阻害された社会状況の隠喩を思わせる部分があるものの、あくまでも造形性に重心が置かれている。声高な社会批判が前面に出ているとは言い難いのである。それに対して道路標識の作品では、造形上の問題はほぼ無化され、作品はもはや観客をある事象に向き合わせるための装置と化している。その前提として、当然「40」という数字が持つ社会的な意味合いが不可欠である。

作品が何らかのメッセージ性を帯びることは、実は具体がもっとも忌避したことのひとつであった。作品はそれ自体で自立していなければならず、他の何ものかを指し示すような意味性や、文学性を帯びることは厳しく否定されたのである。そういう意味では、この作品は具体の美学に明らかに抵触している。しかし坪内自身は、むしろこれこそ「宣言」に象徴される具体の精神を体現するものだと考えていた。このパラドックスを読み解くことが、恐らくは坪内晃幸を理解するための鍵である。

先述したとおり、「宣言」は実際の活動結果を受けて事後的に執筆されたものである。「認識」よりも、あくまでも「存在」が先行するのが具体である。それは特定のイズムを掲げて活動の方向性を律するというよりも、むしろ自分たちの生み出した作品群を、どうにか言語化しようと試みたものだったのだ。

しかし坪内は、具体の実作品に先だってまず「宣言」と出会ってしまった。それは彼にとって、作品の方向性を決定づける一種の規律のような意味を持つに至る。つまり坪内の場合、「認識」が「存在」に先立つという逆転現象が生じているのである。彼が他の具体メンバーとのあいだに何らかのギャップを感じていたとすれば、その根本的な原因はこの点にあるのではないだろうか。

坪内は「宣言」のエッセンスを「物質と精神を対等」視するものと考えたが(註6)、ここで看過できないのは、その具体理解の背景に実存主義が介在していることである。美術に転向する直前、坪内はカミュの作品に熱中し、そこに現れる「不条理」の概念に共感していた。さらに戯曲「誤解」の上演を地元の劇団に持ちかけ、自ら出演するとともに舞台美術をも手がけている。

「カミュにとりつかれていた私はキャンバスに実在を投影することだけを考えていた」(註7)

恐らく坪内は、いかにして「自己」と「現実」との折り合いをつけるか、という命題に呪縛されていた。それには愛媛師範学校から海軍特別(幹部?要確認)練習生として終戦を迎えた戦時中の体験も深く関わっていたであろうし、敗戦によってもたらされた全体主義から民主主義への手のひらを返したような価値転換も無縁ではなかっただろう。それこそ彼の周囲には、「不条理」が満ちていたのではないだろうか。

関西圏の具体メンバーの場合、終戦は自由や解放とおおむね同義であり、戦後の焼け野原は、いわば何も描かれていないまっさらなキャンバスのメタファーだったといってよい(註8)。彼らの作品にはほとんど「翳り」が感じられないのである。しかし坪内の場合、そういう突き抜けた楽天性というよりも、ある種の引っ掛かりというか、しばしば何らかの葛藤が作品にみえかくれする。

実存の問題を絵画に投影することを試みていた坪内の眼にとまったのは、「宣言」に謳われた「精神」と「物質」との関係性であった。彼にとって、それは「自己」と「現実」の問題とパラレルなものとして認識されたのではないだろうか。彼が「宣言」に見出したのは、恐らくは両者の不毛な対立を乗り越える可能性であった。

「具体美術は物質を変貌しない。具体美術は物質に生命を與えるものだ。具体美術は物質を偽らない。/具体美術に於ては人間精神と物質とが対立したまゝ、握手している。物質は精神に同化しない。精神は物質を従属させない。物質は物質のまゝでその特質を露呈したとき物語をはじめ、絶叫さえする。物質を生かし切ることは精神を生かす方法だ。精神を高めることは物質を高き精神の場に導き入れることだ」(註9)

創作行為は「描く」という能動性と、それを「見る」という受動性の絶えざるフィードバックによって成立するが、ここで興味深いのは「見る」という一見受動的な行為のなかに、積極的な創造性を見出す姿勢である。物質を意のままにコントロールするというよりも、むしろその本来の強度が野放しに露呈される状況をつくり出すこと。独自の手探りを通じてそれに近い方向性を見出しつつあった坪内は、「宣言」に後押しされるかたちで、自らの絵画表現をさらに展開させていった。

一方、アーティストとしての繊細な感受性を持ちながら、必ずしも現代美術を実践するうえで理想的とはいい難い「地方」に身を置き続けた坪内にとって、「自己」と「現実」との葛藤は生涯背負い続けねばならない宿命でもあった。精神の拠り所としての具体が終焉を迎えつつあった1971年、彼の眼差しはふと路上の速度制限標識に釘付けとなる。あくまでも、ここで問題とされたのが「現実」の標識であったことを忘れてはならない。これを撮影し、大画面のネコプリントに引き伸ばすなどのプロセスは、観客をこの「40」に向き合わせるための、いわば方法論に過ぎないのだ。

定点観測を通じて、坪内は、実は「40」が常に変化し続けていることに気づく。アスファルト舗装という支持体のうえに、匿名の土木作業員によって描かれた「40」。それは無数のタイヤや足で踏みつけられ、摩滅が進むと新たにまた描き直される。我々の社会は集団的無意識のうちにキャンバス(地面)に地塗り(アスファルト舗装)を施し、あるイメージ(40)を描いては、再びタイヤや足で削りとってしまう。モータリゼーションを含有する社会そのものが、巨大な絵画のメタファーとして立ち現れる。

先述したとおり、初期具体は今日パフォーマンスやインスタレーションの先駆的な表現を多数生み出したが、そのほとんどが、実は絵画を極限まで拡張する試みだったと考えられる。白髪一雄の《泥にいどむ》や村上三郎の一連の紙破りは、画面と肉体とのあいだに介在する絵筆を捨て去り、両者を直結しようと企てるものであった。そういう意味では、坪内にとっての「40」も、極端なまでに拡大解釈された「絵画」そのものであった。

平凡かつ退屈な日常性の極みである道路標識。しかも現場は、当時の坪内の勤務先の目の前である。最も身近な「40」は、あらゆる特権性が剥奪され、この上なく陳腐な、彼にとっての「現実」そのものであった。「現実」の過酷さにいかに耐え、抵抗するかではなく、時に矛盾に満ちた「現実」をそのまま受け止め、むしろその強度を積極的に利用すること。坪内にとって、これこそまさに「宣言」に謳われた「見ることの創造性」を具現化するものに他ならなかった。

やまもと・あつお/兵庫県企画県民部 県民文化局 芸術文化課 学芸係長

『坪内晃幸展—追い求めた「具体」』町立久万高原美術館(2011)

註1 坪内晃幸「吉原治良と具体のこと」『坪内晃幸・ノート・No.1』1993年(未発表、本カタログに収録)
註2 山本淳夫「未発表資料 吉原治良の書簡について I・II」『なりひら』第13、14号(1993年12月、1994年3月)
註3 坪内は吉原から就職を世話するから大阪に出てこないかといわれたが、辞退している(前掲書 註1)
註4 吉原治良「発刊に際して」『具体』1号(1955年1月)
註5 吉原治良「具体美術宣言」『芸術新潮』(1956年12月)
註6 坪内晃幸「GUTAIと私」『吉原治良と具体のその後』兵庫県立近代美術館(1979年1月)
註7 前掲書 註1
註8 具体は第二次大戦で爆撃された武庫川河口の廃墟で、アメリカのライフ誌の取材に応じた非公開の「一日だけの野外展」を開催している
註9 前掲書 註5

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