アヴァンギャルドと子どもの絵

「具体美術協会」は1954年に兵庫県の芦屋で結成された前衛美術グループです。72年に代表の吉原治良が亡くなった際に解散していますので、約18年活動したことになります。近年、特にその初期の活動が世界的にも再評価されつつあるわけですが、実は彼らは子どもの表現に非常に興味を持ち、そこから制作のインスピレーションを得ていました。本日は、それとジャン・デュビュッフェが収集したアール・ブリュットとの関係性を比較検討することで、何がみえてくるか探ってみたいと思います。

児童画とアール・ブリュット

具体の作家たちが興味を抱いた子どもの絵とデュビュッフェが精力的に収集したアール・ブリュット、両者にはいくつか共通点があります。
ひとつには、いずれもアヴァンギャルドのアーティストたちが、周辺領域の美術に対して興味を示した、という共通した構図です。他にもダダイスムやシュルレアリスムなど様々なアヴァンギャルドたちが、いわゆる美術の本流以外のところにある、周辺領域の表現から活力を得てきました。対象としては、精神障害あるいは知的障害の方の表現、霊媒による表現、フォークアート、ナイーフ・アート、子どもの絵など、実に様々なものがあります。具体もデュビュッフェも、アヴァンギャルドのアーティストたちが周縁領域からのフィードバックを求めようとした一連の動きのなかで捉えることができるでしょう。
もうひとつは、写真や図版でみるのと、実際の作品から受ける印象との落差があまりにも大きいということです。実物と複製との落差は美術作品全般についていえることですが、経験的に、それが非常に極端だと感じます。今回の展覧会についても、カタログやチラシの印象と、実際に展示室に足を踏み入れたときの感覚がぜんぜん違うと感じられた方が少なくないのではないでしょうか。あまり美術に詳しくない方がご覧になっても、理屈抜きに迫ってくるような力が、作品にあるのです。
さらに、みるときの知覚のパターンも似ています。具体がずっと関わってきた、「童美展」という子どもの絵の展覧会があります。戦後間もない1948年、芦屋市美術協会の吉原治良が中心となってスタートし、半世紀以上続いてきた公募展です。全国から集まった1万点近くの作品を、もと具体のメンバーらが審査し、そのうち約1千点が展示されます。この会場の真んなかで、何段がけにもなった作品に囲まれたときの感じと、デュビュッフェの収集した作品が常設展示されている、ローザンヌのアール・ブリュット・コレクションに足を踏み入れたときの感覚は、どこか似ています。まず圧倒されて、ことばを失ってしまう。しばらくすると冷静になってきて、この驚きはいったい何なのかと自問自答し始める。この二段構えの知覚のあり方が、非常に似ているのです。
アール・ブリュットの場合は、からだ全体の皮膚に感じられる圧迫感のようなものにまずびっくりして、頭が真っ白になります。冷静になると異様に細かい絵のディテールに眼がいって、最後に作家がどういう人か気になりはじめる。いったい何を考えてこんなものを描いたのかと。略歴を読んで病歴に納得したり、さらに疑問が深まったりするわけです。童美展の場合も、圧倒的な色彩と素材感の洪水にまず腰を抜かします。で、冷静になって次に思うのは、本当に子どもが全部自分でつくったのかと。放っておいたら、子どもが勝手にこんなにバカでかい絵を描くなんてあり得ないのではないか。5歳児の作品で、せんべいの空き缶に無数に五寸釘を打ちつけた作品とか、どの程度大人が関与しているのだろうと。いろいろ考えてしまうわけです。
応募してくるのは個人も団体もあります。そのなかで、いくつか子どもの美術活動に力を入れている幼稚園を訪ね、制作風景を見学したこともあります。後で詳しく述べますが、恐らく私でも、もし幼児期にそこに入園していたら少しはましな絵を描いたでしょう。一方、全然ぱっとしない幼稚園もあるわけですが、そこの子らをそれらの園に放り込んだら、全然違うものがでてくるであろうことが容易に想像できます。果たして子どもの個性、オリジナリティというのはいったいどこにあるのだろう、と考えざるを得ない。さらに極端な例ですが、審査のときに、時計のかたちをしたオブジェを審査員がじーっとみて、「うーん、この針みたいなん要らんなぁ。これ取ったら入選!」そしたら幼稚園の先生が「わかりました」といって、バリバリ時計の針を引っぺがすわけです。そんなんええの、って思いますよね、ふつう。ただ、取った方がいいんです。その方が美しい、それは学芸員として納得できる。そういう美術のあり方って、いったい何なんやろうと、ものすごく悩むわけです。
ただ、アール・ブリュットと童美展とで、決定的に違うことがあります。みた瞬間に圧倒されるのは同じですが、ローザンヌのコレクションをみると疲労困憊します。雑巾を搾るみたいに生気を吸い取られて、もうクタクタになる。だけどすごく感動するんです。感動疲れというか。一方の童美展は、非常に楽しくなるんですね。元気になる。色彩と素材感が洪水のように溢れていて、美術って何をやっても許されるんだ、こんなに何でもありなんだという自由さみたいなものが感じられる。子どもがつくっている、という事実も心理的に作用しているのかもしれません。かたや元気を吸い取られる、かたや元気をもらえる、いったいこの違いは何なのでしょう。

20世紀の前衛芸術と子どもの絵

西洋のアヴァンギャルドたちは、しばしば周縁領域の表現に着目しました。そのうち、子どもの絵に興味を持った例をいくつか列挙します。
1912年、ワシリー・カンディンスキーらが『ブラウエ・ライター』誌を刊行していますが、誌面にはカンディンスキーやマルクらブラウエ・ライターのメンバーの作品のほか、ピカソ、セザンヌなど同時代の作品、アジア、アフリカの民族工芸の写真、日本や中国の絵画、中世ドイツの木版画、子どもの描いた絵などが掲載されていました。ほかにもシェーンベルグ、ウェーベルンら新ウィーン楽派の作曲家たちの楽譜まで載っています。子どもの絵に特化しているわけではなく、非常に幅広く、芸術のいろんな可能性を探っていたような印象を受けます。
パウル・クレーは子どもの絵に対して結構まじめに考えていた人で、『ブラウエ・ライター』のマニフェスト的な性格に比べると、よりパーソナルな、自分の問題として捉えていたことが、次のような発言からもうかがい知れます。
「評論家からは、私の絵が子どもの落書きや殴り書きのようだとよくいわれる。それは素晴らしいことだ。私の幼い息子フェリックスの絵は、私の絵よりも良い出来なのだから。私の絵はといえば、知性で描いた部分があまりにも目立ちすぎる。残念ながら、私の脳の働きを完全に押さえ込むことができない」。
デュビュッフェは子どもの絵にも興味を持っていたようで、アール・ブリュット・コレクションには子どもたちが共同制作した《映画館》という作品が収蔵されています。コレクションのメインではなかったかもしれませんが、周辺領域の表現のひとつとして、子どもの絵にも注意を払っていた、ということでしょう。デュビュッフェ自身の作品とも非常によく響きあっていて、恐らく子どもならではのフォルム、人物像の捉え方などを注意深く観察し、自分の表現として昇華させていたのだと思います。

子どもの詩

具体と子どもの絵との関わりを考えるには、『きりん』という雑誌に触れる必要があります。1948年、大阪毎日新聞の学芸部の記者であった井上靖、詩人の竹中郁らが中心となって創刊された児童詩の投稿誌です。後に詩人の坂本遼、足立巻一らも参加しました。『兎の眼』で有名な児童文学者の灰谷健次郎も、この雑誌から大きく羽ばたいた人です。彼の初期の代表作『せんせいけらいになれ』は、ほとんどが『きりん』に掲載された、彼が担任をしていたクラスの子どもたちの作品で構成されています。残念ながら1962年以降は出版元が東京にうつり、それ以降は穏当な内容に変質してしまいました。
'50年代前半、この雑誌に大阪市立深江小学校の子どもたちの詩が集中的に掲載された時期があります。しかも、ある特定のクラスばかりが載っているんです。そのクラスを担任していたのは橋本猛という先生でした。驚くべきことに、なんと橋本学級の特集記事まで組まれていて、クラスの詩の授業の様子が克明に紹介されたりしています。
1956年3月に発行された、深江小学校の卒業アルバムが残されています。そのなかで、橋本学級だけ他のクラスと少し様子が違うのです。子どもたちの集合写真の後ろ、教室の壁に図画が貼り出されているのですが、このクラスだけなんと抽象絵画なんです。新聞紙を支持体にして、再現的なイメージとは異なる、ふしぎな図形のような形が描かれています。
卒業アルバムですから、彼らは小学校6年生、つまり11、12歳くらいです。ふつうこの年代の子どもたちは、もっと再現的な絵を描くはずです。人間の発達過程と表現の関係についていうと、0〜2歳のころはいわゆる錯画といいまして、鉛筆などの画材と紙とがこすれる感触を楽しんでいるような段階です。まだことばを習得していないので、眼に入る世界を言語で分節化することができません。例えば卵をみたとして、それが鶏が産んだものであり、目玉焼きやゆで卵にすればおいしいと認識している0歳児なんて、まずいないわけです。ですから、卵を抽象的な白い球体として認識するかもしれないし、あるいは立体であることさえわからなくて、白くて丸い平面として把握するかもしれません。成長するに従って、世界をことばで文節化して捉えることが出来るようになり、5〜9歳ころになると、描かれたものの意味を他者に伝達できるような、概念的な絵を描くようになります。
ところが橋本学級の子どもたちは、12歳ぐらいになっても、未だにわけのわからない抽象的な図形を描いています。そんなの、ふつうはあり得ないわけです。そう考えると、卒業アルバムの写真が非常に謎めいてみえてくる。ちなみにこのクラスは、養護学級とか知恵おくれの子どもたちの学級ではなくて、いわゆるふつうのお子さんたちです。
なぜこういうことが起きているのか、その謎を解くひとつのかぎが、『きりん』に掲載された彼らの詩です。

台風(大阪市深江校 四年 乾美地子)
台風よ家をとばせ
しょうひんやるぞ
『きりん』第7巻第1号(1954年1月)

当時この詩に対して、教育委員会かなにかが、「人の不幸を喜ぶとはけしからん」とクレームをつけたそうです。私はおとなになった乾さん(結婚して衣斐さんになっておられます)にインタビューしたことがあるのですが、大阪にすごい台風がきて、眼の前で家が飛ばされていくのが悔しくて、この詩を書いた、といっておられました。なるほど、と思う反面、もしかして記憶のなかで、美化している可能性はないかな、とも感じました。子どもの思考って、そんなに理路整然としてるものなのだろうか。実際に家が倒壊するのを目の当たりにして、非常にショッキングで、大人の常識や倫理とは関係なく、わけがわからんうちにことばが出てきた、なんとなくそう思いたい部分があるのですが、真相はわかりません。

お正月(大阪市深江校 六年 金原美智子)
もうじき お正月がくる
もう 50米くらいかな
あしただったら30米くらい
あさってだったら20米くらい
しあさってだったら10米くらい
12月31日だったら1米くらい
1月1日だったら
私の目の前でなわとびしてあそんでる
『きりん』第9巻第3号(1956年3月)

お正月が待ち遠しくて、否応なしに期待が高まっていく、そういう感じがよく出ている作品です。橋本先生はじめ、詩人たちが高く評価した作品です。

「ふぁあん」(大阪市深江校 六年 渡辺康彦)
「ふぁあん」
宿題せんならん
「ふぁあん」
本買いにいかんならん
「ふぁあん」
親類へ用事にいかんならん
「ふぁあん」「ふぁあん」
『きりん』第9巻第2号(1956年2月)

これはすごい、極めてアヴァンギャルドな詩です(笑)。もうわけわかんないですね。私はそれほど詩に詳しいわけではありませんが、素人目にみても、非常に面白い作品だと思います。理屈で割り切れない感じが、逆に非常にリアルです。渡邊君は優れた詩をたくさんつくっていて、まったく違うタイプのものもあります。

朝の色(大阪市深江校 六年 渡辺康彦)
カーテンの
すき間から見える
朝の色。
水中二千メートル。
だんだん上がる
もう、陸を歩いてる。
『きりん』第9巻第2号(1956年2月)

もう、でき過ぎといっていいくらい、むちゃくちゃデリケートなビジュアル表現です。'50年代、粗末な紙に刷られたうすっぺらい雑誌に、こういった詩がたくさん載っていたという、その内容の濃さに感動してしまいます。
このクラスの担任をしていた橋本先生にもインタビューしました。彼らがあれだけ好き勝手に詩を書けた背景には、やはり構造的な理由がありました。戦後間もない当時、子どもたちの数に対して、圧倒的に教員が不足していたため、橋本先生は同じクラスを2年生から6年生まで、5年間ずっと担任せざるを得ませんでした。さらに、校長が彼の教育方針を面白がって、理解を示してくれたそうです。橋本先生は、戦争中の反動で、もう極端に自由主義的な授業をされました。自分は詩人志望だったので、詩の授業はいっぱいやる。修身や道徳は嫌いだから、一切やらない。朝礼では、彼のクラスだけ、子どもたちが全然整列できなかったそうですが、まったく気にしない。「まっすぐ並ばすなんて。大事なんは心の問題やから」、要するに管理教育が大嫌いで、徹底した自己責任重視の放任主義を貫いたわけです。やがて「子どもの詩の会」や「子ども絵の会」が『きりん』のスタッフの主催で天王寺で開催されるようになります。方々の小学校から子どもたちが参加したそうですが、橋本学級の子どもたちだけは、引率なしで、子どもたちだけで自主的に集団でやってきたそうです。「行きたければ自分たちで行ってこい」みたいな突き放し方は、今ではとても考えられません。
橋本先生が5年間かけてやったことは、子どもたちが感じたことをフィルタリングせずに、そのままストレートに表出する訓練のようなものでした。きれいなことばづかいとか、文法の正確さは二の次で、感じたことを恥ずかしがらすに、ぱっとストレートに出すときのダイレクト感、それを褒めたり煽ったりしたのだろうと思います。彼がやったのと同じことを、この平成の時代にやっても、たぶんうまくいかないでしょう。さらにいえば、橋本先生の長い教員生活のなかでも、同じようなことは二度できなかったそうです。

子どもの絵

子どもたちの詩に関しては、橋本先生の業績は目覚ましいものでした。ただ絵画に関しては、彼の指導力には限界がありました。ところが、素直に感じたことを吐き出すトレーニングを重ねた子どもたちが、あるとき具体の作家たちと出会ってしまう、ということが起こります。
『きりん』の編集部に浮田要三という人物がいました。彼はいわば営業担当で、小学校を方々訪ねては、『きりん』を売り歩いていたわけです。しかも、彼は絵に対してはいわば目利きでした。営業先の学校で、気になる子どもの絵があると借りて帰って、ほとんど独断で表紙や本文のカットにそれらを掲載したのです。
それ以前には、関西のそうそうたる画家たちに『きりん』の表紙絵を依頼していました。その一環として、彼は具体のリーダーである吉原治良にも表紙絵を依頼し、やがて他の具体のメンバーともつきあいが生まれます。吉原もものすごい目利きでしたが、彼は『きりん』に掲載された子どもたちの作品に興味を持ち、またそれを的確に選んでくる浮田にも一目置くようになります。やがて浮田は吉原の誘いで具体のメンバーとなり、自ら作家活動をはじめるようになりました。
浮田を通じて、貧しかった具体の作家たちが、子どもに絵を教えることで生活費の足しにする、という状況が発生します。やがて、先ほど申し上げましたが、天王寺の夕日丘にあった文化会館で「子ども絵の会」というワークショップが始まります。とりわけ頻繁に子どもたちを指導したのが嶋本昭三です。嶋本は、初期の具体のなかでもひときわ実験的な作品をたくさん発表している作家です。日本人は、努力して、鍛錬して、それによって獲得される深みのある表現を好む傾向がありますが、嶋本の場合はより軽やかで、発想が脈絡なくいきなり飛躍するような面白さがあります。イタリアのフォンタナとほぼ同時期に、画面に穴を開けた絵画作品をつくって吉原を唸らせたり、《この上を歩いて下さい》という、全身で体感する作品とか、手製の大砲から絵具を発射して、ほとんど一瞬で描かれた10メートル四方の巨大な絵画、ガラス瓶に絵具を詰めて、キャンヴァスに叩きつけて描かれた絵画などなど。こういう人物が、深江小学校の子どもたちから絵を引き出したわけです。
通常、子どもたちの絵はなかなか実物が残ることはありません。橋本学級の場合、幸いにも相当な数の作品が『きりん』の表紙やカットとして印刷されて、今日もみることができます。1955年10月号の表紙絵は金原美智子さんの作品です。先ほどの「お正月」という詩と同じ作者です。この絵は、まさに嶋本昭三が指導する「子ども絵の会」において制作されたものです。この時は安い材料ということで、段ボールを使って絵を描いていました。だいたいの子どもは、段ボールを与えられたら画用紙代わりの支持体として、そこに絵を描くわけです。ところが金原さんは、段ボールをまず細かく折り畳みました。それを水にぼちゃんと浸して、べちゃべちゃになっているのをもう一度ひろげて、規則的に表面をめくっていったんです。ご存知のとおり、段ボールは波形にウェーブした紙を平らな紙ではさんだ状態になっていますので、表面をめくるとなかの波状の部分が露出します。それを交互に、まるで市松模様のように剥がしていった。それを嶋本昭三が大絶賛したわけです。彼女は、単に絵を描くための支持体ではなく、段ボールという素材が、すでに何らかの表情を持っていることに気づいていたのかもしれません。
実は金原さんはいじめられっ子だったそうです。深江のあたりはいまでも下町で、結構町工場が残っていたりします。必然的に、深江小学校に通ってくる子どもたちも、ハイソで裕福な子はあまりいなくて、なかでも金原さんは飛び抜けて貧乏でした。靴下に穴があいてたり、汚れた服を着ているので、いじめられて、“ウジ”というあだ名をつけられた。女の子ですし、さぞかし傷ついたことでしょう。雰囲気が非常に暗くて、クラスから厄介者扱いされてました。ところが、あの作品を嶋本昭三が激賞したことによって、子どもたちが彼女をすっかり見直したのだそうです。お前、そんなにえらいやつやったんか、ということで、いじめが止まったと。あまりにもいい話で、多少誇張して伝わっている部分はあるかもしれませんが、もしかしたらこの絵を描くことによって、金原さんは救われたのかもしれません。さきほどの「お正月」という詩は、この事件のあとにつくられたものと思われます。
角谷範悦くんもなかなかセンスのいいカットをたくさん残しています。彼にもインタビューしましたが、ちょっと例外で、いわばサラブレッドです。おじさんが人間国宝の釜師、角谷一圭なんです。成長した本人もやはり釜の作家になっておられました。この人の場合は、そういう血の繋がりのなかから、洒脱な表現が出てきたのかもしれません。
さきほどの「台風」という詩をつくった乾美地子さんは、実は具体の作家たちが最も注目した子どもです。なんと機関誌『具体』の第2号では、彼女の特集記事が組まれています。具体は自分たちの活動を広報するために、定期的に機関誌を発行し、世界中に送っていました。抽象表現主義の代表的な作家ジャクソン・ポロックが事故死した後、机の上に『具体』の第2号と第3号が発見され、現在もポロック・クラズナー財団に保管されているそうです。ということは、もしかしたらポロックも乾さんの作品をみていたかもしれません。
具体の作家たちは子どもたちに絵を教えていましたが、逆に子どもたちが具体の作品をみる機会は、あまりなかったようです。少し成長して、'60年代に大阪の高島屋などで開催された、すでに絵画が中心となった時代の具体展を訪れることはあっても、初期の実験的な活動をみた子どもはほとんどいないはずです。ところが、乾さんは、リアルタイムで1956年の具体の制作風景に接しているのです。やはり作家たちから注目されていたので、彼女だけが特別に見学に誘われたのでしょう。
1956年4月、アメリカのライフ誌の取材に応じるかたちで、「一日だけの野外展」という非公開の展示が行なわれました。武庫川河口の、戦時中の爆撃で破壊された巨大な貯蔵タンクに屋外作品をインスタレーションしたものです。この場には、恐らく乾さんはきていなくて、引き続いて西宮の今津浜にあった、吉原製油(具体のリーダーは会社社長でもありました)の倉庫を使って、具体の作家たちの様々な制作風景が撮影されました。吉原通雄が自転車で絵を描く様子や、白髪一雄のフット・ペインティング、元永定正による直径1メートルくらいの巨大な煙の輪っかを発生させる作品、村上三郎の紙破りパフォーマンスなどが撮影されました。ちょうど深江小学校を卒業して、中学にあがったばかりのときに、この状況を乾さんは目撃しているわけです。「これからの絵は、やはりこういうものなんかなぁ」と、ただただビックリしたそうです。乾さんは、その後大阪市立工芸高等学校に進み、一時インダストリアル・デザインのお仕事をされました。やはりこうした体験が、その後の人生にも影響したのでしょうか。

作品が生みだされる構造

最後に、具体と子どもの絵、デュビュッフェとアール・ブリュットの比較分析を試みます。いずれも作品がうみ出される、あるいは作品が鑑賞者に伝達されるプロセスが、いわゆるふつうの美術作品のそれと異なっている点がまず注目されます。

アール・ブリュット:
つくり手
 ↓
発見者(精神科医・アーティストなど)
 ↓
媒介者(ギャラリー・美術館など)
 ↓
鑑賞者

児童画:
つくり手
 +
協働者(幼稚園、絵画教室の先生など)
 ↓
媒介者(ギャラリー・美術館など)
 ↓
鑑賞者

アール・ブリュットの場合、つくり手が自らうみ出したものを美術作品だと意識していなかったり、人にみせることを想定していない例がほとんどです。なので、それを発見する役割を担う人が重要となります。アドルフ・ヴェルフリの場合は精神科医のヴァルター・モルゲンターラーがその作品に注目し、彼の作品を論じた書籍を出版しましたし、マッジ・ギルやヘンリー・ダーガーは極めて大量の作品をつくりながらも、生前はそれらを公開する意志を持っていませんでした。ギルの場合、絵はあくまでも精霊を通じた亡き娘との交信記録であり、ダーガーの《非現実の王国で》は、死の直前、家主が発見しなければゴミとして捨てられていたでしょう。
一方の子どもの絵について、いうまでもありませんが、私は子どもがかわいくて好きだから論じているわけではありません。我々が驚かされる、美術って何なんだろうと思わず襟を正させられるような事例はほんのひとにぎりであり、誤解を恐れず極論すれば、巷の作品のうち99%は論じる価値がないとさえ思っています。私がみる限り、子どもが自発的にものすごい絵を描いたという例は、ほとんど存在しないといっていいでしょう。
ごく一例ですが、東大阪の桃の里幼稚園についてお話しします。園児が300人くらいいる、私立の大型幼稚園です。私が見学にいった8年くらい前には、園内に山羊や兎、アヒルのほか、なぜか天然記念物のカブトガニまでがいて、とまとやナスビが栽培されてたり、いのちが溢れている感じでした。ここでは、ふつうの幼稚園が1年間に使う量の絵具を、1ヶ月で使い切るそうです。しかも驚いたことに、お絵書きは1ヶ月に1回しかやらない。ほかの日はどうしてるんですか、と尋ねると、「普段の日は、子どもとずっとお話ししています」というわけです。「今度お絵描きあるけど、何したい? 絵描きたい? 立体したい? ほんならちょっと材料みに行こか」。東大阪の下町ですから、まわりには工場などがあり、いらない段ボールの端切れとか、いろんな材料をわけてもらえます。子どもと対話しながら、その子がやりたいことを見極めて、もしつくりたくないといえば、それもその子の表現として受け入れます。必要な材料を調達し、絵具や筆(子どもが握りやすいように、手づくりで工夫したものもあります)をそろえ、絵画作品なら支持体の紙や布などを配置するところまですべてやって、お絵描きの当日はすぐに取り掛かれるように、前日までに完璧にセッティングをすませます。当日になると300人から子どもがいますから、もう阿鼻叫喚というか、カオス状態なのですが、9時のチャイムが鳴ってお絵描きの時間が始まると、うそみたいに静かになります。先ほどせんべいの空缶に五寸釘を無数に打ちつけた作品について触れましたが、もちろん大人が手伝うわけではなく、5歳の子が自分でガンガンやるわけです。それを先生方が、とにかく褒める。「ええの描けたなぁ。ちゃんと余白に手をついてるから絵も汚れてない。すごいやんか」って、なんでも褒めるんですね。「これしたらあかん」とか絶対いわない。集団であることの相乗効果もあるのかもしれませんが、子どもたちが潜在的に持っているポテンシャルのすごさ、集中力の持続力は想像以上であり、それを最大限引き出すことために、あらゆる努力と工夫がなされるわけです。
こうしたなかから生まれてきた作品が、童美展には大量に並びます。忘れられないのですが、あるときおじいちゃんがお孫さんの手を引いて応募にこられました。「孫が私の顔を描いてくれました」。なるほど、画用紙に鉛筆で顔が描いてある。で、一瞬で落選するわけです。おじいさんは烈火のごとく怒り出しました。桃の里幼稚園の作品などを指さして、「こんなの、先生が教えんかったら、描けるわけないやないか。うちの孫の絵は、誰に教えられたわけでもない、子どもならではのほんとに純粋な絵なのに、なんでこっちが落とされるんや」。心情的には非常によくわかります。だけど、このお孫さんがどれくらいのポテンシャルを持っていて、この大きさの画用紙と鉛筆以外の可能性はないのか、あるいはどういう環境で制作されたのかなど、そういう問い掛けは完璧に欠落しているわけです。
ですから、子どもの制作環境をサポートする人たちは“指導者”ではなくて、むしろ“協働者(コラボレーター)”なのだと思います。嶋本昭三は、子どもに絵の描き方を手取り足取り教えたわけではありません。もっと根本的な、子どもを取り巻くトータルな環境が、恐らく重要なのでしょう。

発達過程と表現

アール・ブリュット・コレクションの初代館長、ミシェル・テヴォーの著書『アール・ブリュット』のなかに、子どもの絵に関する記述があります。彼は子どもの発達過程に応じた表現の推移の過程を大きく3段階にわけて捉えていますが、それぞれ幼児教育研究でいうところの錯画、象徴画、図式画にほぼ対応しています。

錯画(0〜2歳):紙と鉛筆がこすれ合う触覚性、および痕跡が残る面白さにとりつかれた殴り描きの段階。偶発性への依存度が高く、つくり手の主体的な意図に乏しい。

象徴画(2〜5歳):自らの意志で、より運筆をコントロールできるようになる。しかし具象的なイメージであっても、いわゆる常識的な規範にはとらわれない独創的な表現が見受けられる。

図式画(5〜9歳):社会、両親ら周囲の影響のもと、より慣習的な表現や、コミュニケーション手段としてのイメージ操作を重視する段階。

デュビュッフェのいうところの文化に毒された図式画が問題外であるのは当然として、テヴォーが最も評価するのは象徴画です。それに対して、具体の場合は、童美展の審査をみていると明らかなのですが、もう0歳児の走り書きなんか最強です。つまり、彼らは錯画および前期象徴画を重視しているのです。こうした違いを象徴しているのが、最初にご紹介した《映画館》という作品、アール・ブリュット・コレクションに収蔵されている、子どもたちによる共同制作です。仮にこの作品が童美展に出品されたとしても、恐らく落選でしょう。
テヴォーは、象徴画においては、再現的なイメージであっても常識的な規範にとらわれない独創的な表現が見受けられる、といいます。ことばによって世界を分節化することがまだ未分化な状態なので、その子が独自に発明した秩序で物事が捉えらるわけです。ただ、子どもがその状態にあるのは発達過程におけるごく一時期に限られており、物心がつくと図式画へと移行してしまいます。それに対して、「アール・ブリュットのつくり手は強固な意志と脅迫的な頑固さにより、その状態(埋もれた可能性)をさらに推し進めようとする」というわけです。大人になってからでも、自らを象徴画の段階に置き続け、しかもさらに極端に突き進むのがアール・ブリュットだというわけです。

「世界」との関わり

デュビュッフェとアール・ブリュット、具体と子どもの絵、両者に共通して重要なのは“無意識”の問題です。今回のカタログのなかで、ブリュノ・ドシャルムさんは次のように述べています。アール・ブリュットとは「精神構造と手のあいだにギャップのない表現であり、手はときには地震計のように揺れ動き、無意識の心のリズムにあわせて鼓動する」。知性などによって筆の運びが制御されない、地震計のように手が心の動きをじかに拾ってしまう、それがアール・ブリュットの特徴だというわけです。
具体の場合はどうでしょう。嶋本昭三は「絵筆処刑論」という文章のなかで、こう述べています。「制作するに当って、絵筆は折られ、捨てられなければえのぐの解放はありえない。絵筆を捨ててはじめてえのぐは甦るのだ」。絵筆を介在させることすらもどかしくて、自分の身体と絵画との距離を限りなく無化したい、そういう欲望が見受けられます。
その行き着く先には、例えば白髪一雄が1955年に発表した《泥にいどむ》という作品です。全身で1トンもの壁土と挌闘するもので、写真だけみるとパフォーマンス作品であるように思えます。もちろんこの時代にはまだそういうことばも概念もありません。白髪にとっては、この作品はあくまでも絵画なのであり、泥の山はキャプションをつけてちゃんと“展示”されました。要するに、全身を絵筆代わりにして、巨大な絵を描きたかった。でもこれだけ大量に絵具を使うとお金がかかるし、後片づけも大変だから、泥を使うしかなかったわけす。
村上三郎の一連の紙破りも同様です。この作品もやはり絵画的な思考の延長線上にあり、自分の肉体を絵筆とし、キャンバスに絵具を塗るかわりに体当たりで紙を破っているわけです。
一方、アール・ブリュットの作品はほとんどが具象です。もちろん例外はありますが、ほとんどの場合、何らかの再現的なイメージが描かれています。この点についても、やはりドシャルムさんが非常にわかりやすい説明をされています。つまりアール・ブリュットの作家は、戦争体験など様々な理由により、ある時精神的が危機的な状況に置かれることで、現実世界と断絶してしまった例が多い。ダーガーにしても、社会生活はしていたけれども、彼のリアルな世界はむしろ外部世界から孤絶した、自己の内奥に存在していた。ところが、世界と断絶したままでは生きていけないので、なんとか関係を修復する必要に迫られる。そこで、自分が受け入れられる世界を捏造し、極端な場合にはその世界の支配者として君臨する、それがアール・ブリュットの世界なのではないか、というわけです。
一方、具体の作品や、彼らが興味を抱く子どもの絵は圧倒的に抽象です。先ほど申し上げたように、彼らは子どもの錯画を非常に高く評価します。つまり、いまだ意味が与えられていない世界こそが、彼らにとって重要なのです。いい換えれば、アール・ブリュットにおいては世界の再構築が焦点なのですが、具体の場合は、一切の先入観なしに、世界と初めて出会ってしまったときの驚きが問題視されているのです。
アール・ブリュットの場合、デカルト以降の西洋近代的な二元論がやはり背景にあります。神と私、私と世界が対立するものとして存在している。“神”や“世界”に向き合わねばならない、みたいな強迫観念から逃れることは不可能で、捏造してでもその関係性を保持しつづけなければ破滅してしまう。一方、東洋では自我と世界を分節化せず、ひとつのものとして捉える傾向があります。般若心経には「色即是空、空即是色」という一節がありますが、“即”は西洋的なイコールではなく、コインの裏表のように、すべては本来的にひとつに繋がっていると考えます。有(色)と無(空)、あるいは自我と世界は、対立する個別の概念ではなく、本来一体であるものから状況に応じて立ち現れる、それぞれの表情に過ぎないわけです。
浮田要三が、田中敦子が子どもたちに絵を教えている状況について、こう述べています。「子どもの制作行為を見守る彼女の眼差しや姿勢、身体の動き、それはまさに自分の制作行為と全く一緒、あるいはそれ以上のものだったかもしれません。もちろん直接手を下すわけではないんですが、それが他人である子どもの作品なのか、自分のものなのかも、あの人のなかではもはやこんがらがっているわけです。指導とか、そんなものじゃないですね。でも、それを彼女にいったら『へぇ、そうやった?』というかもしれません。それぐらい自分を無くした状態でやっていたんです」。
村上三郎も、一生を通じて幼稚園に絵を教えに行ってましたが、やはり浮田が仁川幼稚園での情景を回想しています。「三ちゃんが現れると子どもがウワーッとたかっていったでしょう。あの人はそれを全部受け入れてました。それは親切心とか、そんなんじゃなくて、あの人の持ち味として、村上三郎として受け入れているわけです。だから、子どもとの境目がなくて、こんがらがってしまっている。そういうなかで作品ができているということですね」。
初期の具体のパフォーマンス性の強い作品群は、物質に対して対立的に挑みかかる一方で、世界のただなかに身を投じる行為でもあった、そう捉えることができるでしょう。自己と世界との境界が曖昧化して、一体化した状態だと考えると、極めてモダニズム的な彼らの作品のなかに、実は極めて東洋的な世界観が無意識のうちに発露しているのをみることができます。ところが、タピエが具体の絵画作品を評価することで、彼らの活動は絵画中心へと収斂してしまいました。キャンバスに描く絵画というフォーマットは、やはり画面を自己から分離し、対象化して捉える性格が強い、極めて西洋的なものです。発達過程のなかで、子どもが創造性を発揮できるのがごく一時期に限られるのと同様に、具体の作家たちも'50年代後半のごく数年間にしか、あのような作品を生み出すことはできませんでした。

質問者1:桃の里幼稚園や橋本先生のような、児童詩や児童画のムーヴメントは、関東にもあったのでしょうか。

調査が行き届いてないので自信はありませんが、私が知る範囲では、関東で同様の動きがあったとは聞いていません。実は、福井県では子どもの絵をめぐる活動が盛んです。久保貞次郎の創造美育運動の流れを汲む、北美文化協会がありましたので、現在でも子どもの絵の展覧会が積極的に行われています。私も少しだけ見学にいったことがありますが、具体のように、美術的価値観からのみ作品の優劣を判断するのではなく、やや教育と美術の価値観が混同されているように思い、そのときは少し違和感を感じましたが。

質問者2:童美展の他にも、面白い児童画がみられるような美術館や展覧会、参考書籍があればご紹介ください。

残念ながら、諸般の事情により、童美展は2008年12月で最後になると聞いています。ただ、芦屋市立美術博物館では具体と子どもの絵について、ずっと調査や研究をしてきていますので、関係したカタログや資料を出しています。
ほかに重要なのは、曾根靖雅さんの遺稿集『まねのできない子どものアート』です。曾根さんはもと大阪市教育委員会の指導主事で、子どもの造形的な表現力を伸ばすメソッドを理論的に構築された方です。実は東大阪の桃の里幼稚園も、姫路の五字ヶ岡幼稚園も曾根メソッドに基づいて子どもの造形活動を行なっています。こうした幼稚園なら、事前にきちんと申し込んでおけば、実際の子どもたちの制作風景を見学させてもらうことも可能でしょう。

質問者3:精神科のソーシャルワーカーをしていますが、福祉や精神医療の観点では、絵画療法というものがあります。非常に心が傷ついていたり、他者との接触が困難な方に、治療の一環として絵を描いてもらう、というものです。アール・ブリュットの場合は発見者が必要とのことでしたが、絵画療法的な関わり方とは違うように思いますし、医療的な感覚と、美術的な感覚との違いが、ちょっとわかりにくいのですが。

例えばアール・ブリュットの作家でオーギュスタン・ルサージュという人がいますが、作品が美術市場などで評価されることで、作品が自己模倣に陥ってだめになってしまったと聞いています。ニノという作家の場合、今回は4体の木彫りの人形が出品されていて、素朴でありながら、どこか奇妙な、魔術的な力が感じられます。ところが、この人も売れるようになって、今では完全にお土産用の人形をつくってしまっているそうです。美術的な観点からすると、周囲の関わり方次第で作品が死んでしまう、ということは現実的に起こり得ます。

質問者4:ダーガーの絵を、本当に私たちはみていいのかと思ってしまいます。本人には野心も何もないのに、まわりの私たちには欲望があって、私たちが作品をみることで彼を傷つけているような、何か残酷なことをしているような気分になるのですが。

そう思いますよね。特に彼の孤独な生涯について知ってしまうと。どうみても非常にプライヴェートな世界ですし、彼は草葉の陰でものすごく嫌がっているかもしれません。でも、我々は作品をみてすごく感動してしまう。美術には残酷な一面があって、作者がハッピーかどうかということと、作品の善し悪しが無関係だったり、必ずしも一致するとは限りません。個人的な秘密を覗きみているような罪悪感を感じつつも、みてしまうとほっとけないですよね。やはり作品が素晴らしいですから。
「非現実の王国で」というダーガーの伝記映画をみますと、家主さんが作品を発見するくだりが非常に印象的です。家主のネイサン・ラーナーは写真家だったので、作品の価値を直感的に理解したのでしょう。死の床にいたダーガーにむかって、「あなたの絵をみました。素晴らしかった」と告げると、ダーガーは一瞬当惑した表情をみせて、「手遅れだ」みたいなことをつぶやいたそうです。それが、作品を完成させられなくて残念だ、という意味なのか、みられたくないものをみられてしまって困惑したのか、ニュアンスがよくわからないのですが、何となく後者のような気がします。

質問者5:先日、吉永先生の講演会のときに、知的障害児に美術館などで本物の美術作品をみせることについてどう思うか、と質問しましたら、必要ない、とのお答えでした。美術教育の本質は切実なつくるよろこびであり、まずはそれを重点的にやるべきだと。子どもの場合は、美術館などで本物の作品をみせることに関して、どうお考えでしょうか。

美術と福祉、あるいは美術と教育についても、それぞれ微妙に立場が異なるので、どうしても葛藤が生じるのは仕方ないと思います。吉永先生がおっしゃったことを私なりに補足するなら、子どもたちを美術館に連れてくることが物理的に大変だと思うんです。重度の障害の子どもになると、施設で落ち着いて暮らすだけでもたいへんで、滋賀近美はわりとまぁ空いていることが多いですが(笑)、環境がまったく違う、ひとの多いところにくるとパニックになる子もいるでしょう。実際、今回の出品作家のなかには7名の日本人が含まれていますが、うち2名は重度の障害を抱えていて、自分の作品をみにくることも無理なんです。
いわゆるふつうの子どもたちの場合、実物をみせるのは、基本的にいいことではないかなぁ、と思います。ただ自分の子ども時代を振り返ると、いきなりエドガー・ドガとか、渋いものをみせられても、いまひとつ興味が涌きませんでしたし、内容は選ぶ必要があるかもしれません。当時は今のように美術館でワークショップをやったりする時代ではありませんでしたし、それに比べると、今の子どもたちは比較にならないほどそういうものと出会うチャンスがあって、ごく素朴に、うらやましく感じます。美術でも、音楽でも、出会いの選択肢は多い方がいいのではないでしょうか。

質問者6:児童画とアール・ブリュットの作品が生み出される構造について、前者においては協働者、後者では発見者の役割が重要だとおっしゃいました。ただアール・ブリュットにおいて、精神病院などの施設におられる患者さんの制作活動に対して、精神科医の方などが「この作品いいね」と声がけされたり、何らかのかたちで協働者的に働きかける、というようなことはないのでしょうか。

鋭いご指摘です。わかりやすくするために、かなり単純に図式化していますので、微妙な例、グレー・ゾーンは常に存在すると思います。アール・ブリュットといわれている作品のなかにも、より子どもの絵にみられる構造に近い感覚のものが見受けられる場合があります。あくまでも直観的な感想ですが、例えばグギングの「芸術家の家」の作家たちのもの、ヨハン・ハウザーやアウグスト・ヴァッラなどは、作品をみる限り、より児童画的な印象を強く受けます。私はグギングをみに行ったことがないので、あくまでも作品から受ける印象を通じて推測しているだけですが、より共同体的な空間で生み出された作品であるような臭いが強いです。
先日、服部さんのご講演のなかで、現アール・ブリュット・コレクション館長のリュシエンヌ・ペリー館長が、日本の作品調査にこられたときの話をされました。彼女のアール・ブリュットの定義は「沈黙、秘密、孤独」です。この3つを満たすことが、アール・ブリュットであることの条件だというわけですが、ほとんどの場合、日本の作業所はいわばお絵描き教室のような状態です。机がいっぱいあって、みんなが思い思いに制作していて、どちらかというと幼稚園の制作の状況に近いでしょう。これが果たして「沈黙、秘密、孤独」といえるのかと服部さんが尋ねたら、ペリーさんは、「みんなで作業をしているけれども、彼のマインドは孤独だ」というわけです。大勢のなかにいるけれども、彼女がアール・ブリュットだとみなした作家について、心のありかたは孤独だと。非常に難しいというか、単純に白黒つけられる問題ではなくて、常にグレー・ゾーンは存在する、ということでしょう。
ただ、こうしたものと、例えばマッジ・ギルやアドルフ・ヴェルフリの作品を比較した場合、やはり彼らの表現は、より孤絶した内部から絞り出されたような感じを強く受けますよね。

質問者7:アール・ブリュットの作家たちは、彼ら独自の世界を再構築していて、そこが面白いのだ、というお話しでした。そうした彼ら独自の世界観について、何か共通性のようなものが指摘できるのか。また、どのような方法論をもちいてそういった世界がつくられているのか。さらに、そういう方法論を、意識的に制作に利用しようとする作家、あるいはムーヴメントがあるのかどうか、以上3点についてお聞かせ下さい。

共通点を見出すのは、基本的には難しいと思います。我々の社会生活には共通の言語が不可欠です。誰もが共通に認識できることばや記号のシステムがあるから、我々は円滑に社会のなかで生きていけるわけです。ところが、そういった共通システムからずれたり、逸脱したルールを勝手につくってしまっているのがアール・ブリュットの作品世界だと思うんです。そのずれ方は作家ごとにバラバラです。だから原理的に作品は理解不能であり、謎だらけなんです。だからこそ魅力がある。
今回の展覧会の会期中に、山下里加さんのナビゲートで鑑賞ワークショップを行ないました。ヴェルフリの大作をみんなでみて、絵のなかにみつけたものについてそれぞれ自由に発言するんですが、参加者のなかに眼の不自由な方がおられました。眼がみえないけれど、サポートの方と一緒に展覧会を訪れて、その方の描写を通じた美術鑑賞を、日常的に楽しんでおられるのです。ところが、ヴェルフリの作品に関しては、みんなの発言を聞いていても、いったいどんな絵なのかいっこうにわからない。しびれを切らして、「いったい何が描いてあるんですか?」となって、みんな躍起になって、音符がある、街みたい、ナメクジがいる、巨大な魚だ、方々に十字架がある… よけいわからなくなるんです。これは非常に端的な状況だと思いました。断片的には説明や描写ができますが、ヴェルフリがつくり出した世界が何であるか、という点については、結局像を結ばない。我々には理解できないんです。逆に謎ばかりが出てきて、どこにも着地できないまま、宙づりにされてしまう。こういう方法論を使えばヴェルフリみたいな絵がかける、みたいな、予定調和と無縁な点にこそ、アール・ブリュットの魅力があるのです。そういうことを方法論として体系化し、意識的にやってしまうと、そこには知的な操作が介在しているわけですから、それはもはやアール・ブリュットではなくなってしまうでしょう。

『アール・ブリュット ─パリ、abcdコレクションより─ 連続講演会 「生命のアートだ」』滋賀県立近代美術館(2009)

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