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「間違える」ことが「悪」の日本文化

会議で間違ったことや稚拙なことを言えない。

間違えたら嫌だし恥ずかしいから、授業で手を挙げられない。模範的な回答を思いついたら手を挙げる。

先生に名指しされて仕方なく答えたら、簡単な問いにもかかわらず間違った、或いは頓珍漢な答え方をしてしまい「そんなこともわからないのか」と周囲がなぜか上から目線となって嘲笑の目を向けたり、見下した態度をとったりする。

ドラマでも、また普通に放送されるバラエティ番組でも、どんな場面でも日常茶飯事の日本の原風景と言っても良いかもしれない。

いや、どんな国にも多かれ少なかれあることかもしれないが、日本では「優等生的な答えを出さない限りは発言してはならない」といった雰囲気が全面的に出るのは何故なのだろうか。とても特殊な気がして仕方がない。間違い=悪、とも取れるほどに、間違いを犯した人間に対しての攻撃も陰湿で凄まじくなるのは何故なのだろうか。日本人はこうまでして、優越感に浸りたいほど自虐観にまみれているということなのだろうか。ひょっとしたら実際、他人を無闇に攻撃したがるという性向は、自己に対する劣等感や何かに対する鬱憤をゼロに近づけたい、という反動のようなものなのかもしれない。しかし、そんなことを繰り返していても、恐らくその人間の劣等感やストレス(或いは捻じ曲がった優越感)はますます根深くなっていくだけなのだろうという気がする。他人を見下すことでは真の問題解決にはならないのだから。

子供の頃、マレーシアでは日本人学校に通っていたのでそれは別として(記憶は薄いがそれでも日本社会の縮図だったことは印象として残っている)、その後のニュージーランドでの現地学校での小学生体験や、大人になってからのイタリアでの留学体験では、間違っていようが手を挙げて(挙げなくても)発言したがる人たちばかりだったので、とにかく海外は授業風景が活発だったというのが印象として残っている。

お陰で授業が進まないのも確かだが、先生が別の形で質問をしながら手を替え品を替え噛み砕いて説明していくのもまた面白かったし、生徒同士で方言が混じり合い、掛け合い漫才みたいになっていくのも面白かった。何であれ、双方向というのが常だった。ただ大人しく先生の話を黙って聞いているだけの授業というのはひとつもなかった。

かと思えば、イタリアで仕事をしていた時は、上司同士の会議はこれまた凄まじく、金切り声の大喧嘩から殺し合いが始まるんじゃなかろうかと思うほどのヒートアップ具合に、部屋と部屋を仕切る壁一枚隔てた向こう側のスタッフは毎度戦々恐々としていたものだ(私を含め)。そして、それだけ大声で罵り合っても、終わればケロッとして皆でテーブルを囲んで普通に談笑しながらランチを取る、というのがいつものことだった。

金切声を上げればいいというものでもないだろうし、皆に等しく与えられた時間をどう使うべきかという話もあるが、共通して言えるのは、そういう外国での授業や会議の中には「違う意見を述べること」は「あって当然」という不文律だった。大事なのはその過程を経ることでちゃんと物事が「解決する」ことだった。

これはすなわち、ある人の人間性を攻撃することが目的なのではなく、議題に対する解決を目的として意見を戦わせるのだ、という線引きができていたためだった。日本社会では、この線引きがうまくできていないのではないだろうかと思うことが往々にしてある。ある人の意見に反論することがすなわちその人の人間性そのものまで攻撃することにつながってしまう場面が多い気がする。

それを避けるべく、平和であるためには穏やかに波風立たずに時間通りにコトを進めるべし、という風土がある日本だが、そうやって子供の頃から周囲の目線を窺いながら黙っていたり、表面的には横一列になって模範的な回答ばかりして育っていくと、自分の本当の良さや特質をきちんと把握できないまま、独り立ちしなければならない時期やいざという時にどうしようもない苦境に立たされてしまうのではないだろうか。そして一人で思い悩み、最悪の場合は自ら命を絶ってしまう。物理的に命を絶たずとも、精神的に抜け殻になる人もいる。

授業や会議で黙っていることから日常においても「黙り続ける」がクセとなり、別の場面でも「こんなことで悩んじゃいけない」と一人悶々と自分を責め、他人にも相談できなくなってしまう。あるいは、黙り続けたことでの鬱憤を匿名のSNSで憂さ晴らしする。あるいは家族に八つ当たりする。本音と建前がそうやって乖離していき、人間としてのバランスが崩れていく。

あるいは、模範的な回答をして反論されたら威圧的になり、聞く耳を持たないというパターンもあるだろう。議論の否認行為ともいえるものだ。

黙っているうちに自分だけの妄想世界が出来上がり、現実世界から乖離していってしまう人たちもいる。それが稀に成功する場合もあるだろうが、最後には危うい方向へと転んでいってしまうことのほうが多い。

人は、無人島にでもいない限り、たった一人で生きていけるものではない。一人で生きているつもりでも、他の人たちの働きがあってこそ生かされてもいる。誰かのおかげで食べ物が手に入り、蛇口をひねれば水が出て、電気のおかげでじっとしていても世の中を垣間見ることができる。一人の世界に引きこもっていたとしても、どんな形であれ他者からの影響は日々受け続ける。しかし、受け続けるだけではひとりの人間としての人生を全うすることはできない。

人生、ちょっとづつ迷ったり間違えたりしながら軌道修正していったほうが、気付かされることも多いし覚えることも心に強く刻まれていく。迷ったり間違えたりするのは当たり前、大事なのは「その先」「その次」だ。それが間違っていたならば、どう方向転換して解決していくのか。人生は突き詰めればひとつの行為とその検証・修正・続行を繰り返しながら生きていくことともいえるのではないだろうか。ただ受け身で垂れ流しのまま人生を送っていたら、いずれ自分の魂が悲鳴を上げる時が来る。

「なぜ間違えたのか」「本当に間違っているのか」を、人と人が膝を突き合わせてきちんと話し合う風土が授業であれ家庭であれ仕事場であれ、日本の社会生活の中でもう少し醸成されても良いのではないだろうか。そこに饒舌さはいらない。しかし言葉にして自分の中でモヤモヤしているものを外に出すことで、それをキャッチする他者がいることで、生まれてくることは沢山ある。それは決して時間の無駄ではなく、各々の人生経験から提示された一言が、迷い悩んだ人間を救うことも往々にしてある。間違えたことで得るものは、とてつもなく大きい前進の一歩ともなり得るのだ。

自分が間違えるということは、他人も間違えるということでもある。できるだけ若いうちにどんどん間違えて、自分や人と対話をしながらいろいろなことに気付き、いろんな人がいるからこそ人生は面白いこと、間違いに目くじらを立てる必要はないことを知り、心の広い精神的に自立した日本人が一人でも多く増えていくことを願っている。間違い=悪=不寛容、という図式が成り立っている限り、日本は再浮上できないのではとも考えてしまう。浮上する人とそうではない人との差が開く一方となるのではなく、日本全体の「底上げ」を目にしたいものだ。

今、ツイッターを覗くたびに残念な気持ちになるが、ただ人を責めるだけではなくその一歩先を行く風潮がもう少し出てきてくれれば…と思う。とはいえツイッターにあまりそういうものを求めても仕方がないのかもしれない。細切れのキャッチフレーズ作りに躍起になっている風潮が見られるが、キャッチーであることがその人の真実とは限らないのだ。自分の言葉を140文字以内で正確に伝えるには、相当なスキルが必要だろう。17文字だけで情景を浮かび上がらせる珠玉の俳句がどれだけ磨かれたものであるのかを思えば、140文字は中途半端ともいえる。それに、ツイートとはあくまでも「呟き」であって、気軽に言葉を発することを目的として始まったものだから、その呟きを文字通り捉え続けていては危険ともいえる。その中でも責任を持って発言している人たちもたくさんいるだろうが、特に匿名での発言に関しては受け止め方に注意した方が良いだろう。

そもそも、物事の何が正しいのかなんて分からない。絶対的な正しさなど、この世に存在するのだろうか。生きていればいるほど、人生ではいろんなことが覆されていくものだ。特に今のように変化が激しい世の中では尚更。

6月末の政府の専門家会議記者会見で、記者の質疑応答を終え、一番最後に尾身副座長はこう仰った。

「人間、誰にでも間違いはあります」

それは政府や専門家会議の決定に対する言い訳なのではなく、「判断を誤った後にどうすべきかが最も大切なことだ」という話だった。

間違いからいかに素早く学び、自己に責任を持って次なる選択をしていくか。

間違いそのものは悪ではない。間違いをどういうタイミングで料理していくのか、それとも放置してしまうのかで、善へと転じるか悪へと転じるのかが決まっていくし、最終結果は終わってみなければ分からない。間違いをいかに捉えるかで、一人一人の資質も決まっていく。

間違いとは、一つの選択と言い換えても良いだろう。そのたった一つの選択を検証し続けていくことが、人間が生きていくための責任として今は特に一人一人の個人に重く課されていることのような気がしてならない。選択は常にしていかねばならない。大事なのは、「それが果たして最良の選択なのか?」を問い続けながら見つめ続け、生き続けることであろう。

※画像は先日、梅雨の晴れ間に庭へやってきたトンボと梅の木。


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