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通訳・翻訳・全国通訳案内士(イタリア語)。パンデミックを超えた世界で個人一人一人がどう…

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通訳・翻訳・全国通訳案内士(イタリア語)。パンデミックを超えた世界で個人一人一人がどう生き抜けるのかを模索中。

マガジン

  • イタリア生活覚書

    1998年5月末〜2005年10月初旬のイタリア留学&仕事生活覚書。写真は1998年6月、ホームステイ先の部屋(マンチャーノManciano)にて自分の勉強机。

  • 人間としての生き方

    日々の経験などからつれづれ

  • 通訳ガイドの仕事についてあれこれ

  • 私の履歴書

    経歴が雑多なのでとりあえずこの中に放り込み。写真はイタリア中部トスカーナ州マンチャーノの町を出ると広がる黄色い花でいっぱいの丘からの風景(1998年6月)。

  • イタリア各地めぐり(美術・まち・自然)

    スナップ写真中心で。

最近の記事

  • 固定された記事

note開設にあたって

初めまして。眞田真紀子と申します。 イタリア語の全国通訳案内士として2018年に稼働した矢先の新型コロナウイルスによるパンデミックで、予定していた仕事を今年の予約分は現在のところ少なくとも9月分まで、ほぼ全てを失いました。これからもキャンセル続出となるのは間違いないでしょう。 今年の仕事もそうですが、来年もどうなるか皆目わからない中、いま自分ができることって何だろう、と、この数ヶ月は考え続けてきました。 国家資格を持つ通訳ガイドとして稼働してから、たった2年のキャリアの

    • 語学学習していると臨界点を超える時が来る(経験談)

      語学に王道なしとはよく言ったもので、王道は「ひたすらやり続ける」これに尽きるように思う。というか、それしかないのだ。ひたすら学習し続けると、ある日突然目の前がパーッと開けてしまう瞬間が訪れる。しばらくするとその驚きはなくなり、再び低空飛行のままとにかく学び続ける。学び続けるとまた突然、初回とは違う第二の視界が急に開けていく。そうやって段階を踏んでいくと、高い山を一つ乗り越え次のもっと高い山に登っていたことに後から振り返って気付くのである。 別の言い方をすれば、ある年を境に突

      • 「間違える」ことが「悪」の日本文化

        会議で間違ったことや稚拙なことを言えない。 間違えたら嫌だし恥ずかしいから、授業で手を挙げられない。模範的な回答を思いついたら手を挙げる。 先生に名指しされて仕方なく答えたら、簡単な問いにもかかわらず間違った、或いは頓珍漢な答え方をしてしまい「そんなこともわからないのか」と周囲がなぜか上から目線となって嘲笑の目を向けたり、見下した態度をとったりする。 ドラマでも、また普通に放送されるバラエティ番組でも、どんな場面でも日常茶飯事の日本の原風景と言っても良いかもしれない。

        • 今のうちにとデジタル本やら紙本やらと読みたい本が目の前にどんどん積み上がってきてしまった。家の中に埋もれていた全集まで引っ張り出し、その日その時の気分で十何冊と並行して読み進めている状況…ここ数日は読む時間が割けなかったので、日中に手に取るのは久しぶり。読むのはやっぱり楽しい。

        • 固定された記事

        note開設にあたって

        • 語学学習していると臨界点を超える時が来る(経験談)

        • 「間違える」ことが「悪」の日本文化

        • 今のうちにとデジタル本やら紙本やらと読みたい本が目の前にどんどん積み上がってきてしまった。家の中に埋もれていた全集まで引っ張り出し、その日その時の気分で十何冊と並行して読み進めている状況…ここ数日は読む時間が割けなかったので、日中に手に取るのは久しぶり。読むのはやっぱり楽しい。

        マガジン

        • イタリア生活覚書
          4本
        • 人間としての生き方
          3本
        • 通訳ガイドの仕事についてあれこれ
          0本
        • 私の履歴書
          4本
        • イタリア各地めぐり(美術・まち・自然)
          1本
        • 新型コロナウイルスからの考察
          1本

        記事

          イタリアのトイレの張り紙(vs箱根)

          "Non dico di fare al centro ma almeno fare al dentro" ノン ディーコ ディ ファーレ アル チェントロ マ アルメーノ ファーレ アル デントロ ローマから「全ての道はローマに通ず」にあたる旧街道の一つでもあるフラミニア街道Via Flaminiaを40kmほど北上したリニャーノ・フラミニオRignano Flaminio というこじんまりとした町で、壁画修復コース仲間と一日の前半の教会での作業を終え、教会前で日向ぼっこ

          イタリアのトイレの張り紙(vs箱根)

          +2

          2000年〜「芸術家たちの大聖年」で目にした教皇ヨハネ・パウロ2世

          2000年〜「芸術家たちの大聖年」で目にした教皇ヨハネ・パウロ2世

          +2
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          フィレンツェ〜ベルヴェデーレ通りを登って出会ったのは京都からの庭師(回想と写真)

          フィレンツェ〜ベルヴェデーレ通りを登って出会ったのは京都からの庭師(回想と写真)

          +19

          NHK「新日本風土記」日本橋〜地元に根差すという生き方の根底にあるもの&今の政治の行方

          録り溜めていた番組の中から「新日本風土記」の日本橋編を視聴(2014年7月18日放送のものがコロナ禍で再放送された)。エピソード一つ一つが昔ながらの日本の心意気と矜恃に溢れていた。 「民度」という言葉が最近は脚光を浴びているようだが、日本の民度の高さは、こういう江戸の町人文化のような伝統の中にあるのだろう。真っ正直にしかし知恵を絞って丁寧に働き、仲間やお客さんを敬い、生まれてくる子供たちや土地を一丸となって大切に育てていこうとする地元への愛といったものが消えていく時が、各地

          NHK「新日本風土記」日本橋〜地元に根差すという生き方の根底にあるもの&今の政治の行方

          生活目線で考えたイタリアの新型コロナ感染パンデミックとウイルスが蝕むもの

          5/24(日)、5/25(月)と2日間にかけてFacebookに投稿した記事をまとめ、少し書き直した。国家的政策やシステムの話は抜きにして、イタリア人の文化生活習慣や地理的環境など身近な生活経験からの考察として、そこから派生する所感も含めて記しておきたいと思う。なので、感染の話題に関しては科学的知見ではなく、あくまで所見であることを断っておきたい。 ====================== イタリアで風邪を引くと、私はなぜか毎回ひどく悪化した。日本では考えられないよう

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          子供は小さくても世界を見ている(昔のマレーシアから始まった思考の原点)

          このコロナ禍で時間がポッカリとできたこともあるが(その割には日々が飛ぶように過ぎていくが)、特に早朝目が覚めると、これまでの人生では有り得ないほどに、過去のいろいろなことが思い出される。気味の悪いほどに。 ひょっとして、私は年内にあの世からお迎えが来るんじゃないか?というぐらい、日中でも何かをきっかけに頭から記憶の風船がブワッと膨らんでくる。メモを取っていないので、どうしても頭から離れず書いておきたいようなことだけ書くことにはなると思うが、基本的にはこの自然発生的な記憶と、

          子供は小さくても世界を見ている(昔のマレーシアから始まった思考の原点)

          子供は大人より現実をありのまま受け取るセンサーのような生き物である(日馬富士の浴衣地マスクからの一考)

          我が家は家族全員花粉症で、特に母は1970年代のオイルショック経験世代主婦だから、必要以上に(スペースも無いのに)家にストックを置いておこうとする癖が今だに抜けず、それが幸いして何とか騙し騙し昨年の不織布マスクで凌いでいくことができた。しかも私はほぼ失職状態となったし、花粉にまみれてそれを家に持ち込む外出仕事から解放されて(←というと大いに語弊があるけれど)自宅に引きこもっていれば良いから、その分マスクをどうしても通勤が必要な他の家族に回すことができた。 が、さすがにアベノ

          子供は大人より現実をありのまま受け取るセンサーのような生き物である(日馬富士の浴衣地マスクからの一考)

          イタリア留学への決意(昔話)

          イタリア留学を心の中で決めた日からの自分の節約ぶりは、自分で自分を褒めたい徹底ぶりだった。缶コーヒーひとつ買うことさえ自分に許さなかった。 当時のカタギの職場では融資係で、バブル崩壊後は金利が大暴落したことで通常の住宅融資や無担保ローンに加え、住宅借り換えローンの相談者が後を絶たずで、融資係はたいてい他の皆が出勤する前から仕事を始め、残業が許される時間まで仕事をしていた。(あまり残業を許されていなかったので、最初の渋谷支店時代などは毎日4時半に起きて始発に乗り、お弁当屋さん

          イタリア留学への決意(昔話)

          自己紹介

          神奈川県西部在住。 ピカソやマリア・カラスがパリにいた時代のフランス生まれ。フランスの記憶もないまま両親とともに帰国、東京に住む。幼稚園年長時に父の転勤でマレーシアへ。2年半暮らし、そのまま家族共々ニュージーランドにて1年半生活。父の任務が終了し、帰国後は小学校4年生から大学までと大学卒業後の数年間は日本での仕事で神奈川県西部に定住。大学時代、父の単身赴任先だったイタリア・ローマへ夏休みに滞在。文化財修復の仕事に興味を持つ。修復への思いが募り、大学卒業後は金融機関に勤務する

          自己紹介

          日本はヘンなところで贅沢なのだ〜イタリアでの就職活動番外編覚書

          5月21日付けでFacebookに投稿した内容のコピペ。 最初の記事と語調がいきなり違いますが、記事により変幻自在となる可能性は大アリです。 ========================== イタリアでは箱ティッシュを買うなんて勿体なくて携帯用(しかも日本製のように洗濯したら超悲惨、な目には絶対遭わない頑強この上ない頼もしい奴。さらに4層になった1枚1枚を丁寧に剥がして薄い一枚づつを出し惜しむようにチビチビ)だけ時々使い、基本鼻を噛むのもトイレットペーパーだった。家

          日本はヘンなところで贅沢なのだ〜イタリアでの就職活動番外編覚書