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NHK「新日本風土記」日本橋〜地元に根差すという生き方の根底にあるもの&今の政治の行方


録り溜めていた番組の中から「新日本風土記」の日本橋編を視聴(2014年7月18日放送のものがコロナ禍で再放送された)。エピソード一つ一つが昔ながらの日本の心意気と矜恃に溢れていた。

「民度」という言葉が最近は脚光を浴びているようだが、日本の民度の高さは、こういう江戸の町人文化のような伝統の中にあるのだろう。真っ正直にしかし知恵を絞って丁寧に働き、仲間やお客さんを敬い、生まれてくる子供たちや土地を一丸となって大切に育てていこうとする地元への愛といったものが消えていく時が、各地の瓦解の始まりなのではなかろうか。

「三方よし」は、やはり日本が世界に堂々と誇れる経営の基本理念だと思う。買い手よし・売り手よし・世間よし。

今でも祭りがきちんと生きる町には、時代が変わろうとも、どうしても受け継ぐべきものは受け継ぐべきだ、という心意気が息づいている。日本橋の山王祭の神輿には金融のまちらしく、カタカナの法被を纏った外国人もまた何人も姿を見せていた。

江戸とは言うなれば歴史的にも、日本各地の寄せ集めから出来上がったような大都市だが、そんな寄せ集めの面々が自分の仕事に誇りを持ってこの街を活気づけ、江戸を「大江戸」へと変貌させていった。商売という世界の浮き沈みを知るからこそ知恵を働かせ逞しく生き残ってきた彼らにとっては、三方よしを理念とする真っすぐな心意気を持つ者でありさえすれば、人種を超えて日本一(=日本橋一丁目)の神輿の下に集うのだ。

1566年創業(江戸時代どころか戦国時代の近江商人)の西川ふとんの当主が、このようなことを言っていた。

「前へと走り続けて振り返ったら伝統になっていた、伝統とはそんなもの」。

お江戸の爺さんたちは、誰も彼もが粋でカッコいい。

その地で生きるとは、その地とそこに住む人々に対しリスペクトと責任を持って生きることにあるのではないだろうか。

自分がある意味生活基盤の移動が激しく、根無草のような人生を送ってきたので、生まれてからずっと同じ地に生き続ける人たちには昔から憧れの気持ちがあるのだが、この番組を見てまたそういう気持ちが強くなってしまった。
せめて今住む地元には、何かしらの貢献ができるようにしたいものだ。それがひとつには市税と県民税納付に還元されるわけだが、今年はそれさえも心許ない状況のまま、半年が過ぎようとしている(国への血税の行方については、本当に忸怩たる思いで毎日の情報を斜め読みしては血圧が上がるばかり)。

新日本風土記をまとめて無料拝聴できればいいのにと思う。せめて国家資格を持つ全国通訳案内士には、特典としてそういうサービスがあれば良いのに(新日本風土記に限らず面白いコンテンツは色々ある)。我々は少しでも世界の平和のためにと、草の根の外交官として日々自分たちの心を砕いている。自分に与えられた時間をそこへ注ぎ込みながら。視覚的に訴えるコンテンツは、必ずしも足で確かめる時間も余裕もない我々にとっては貴重な資料の一つなのだ。

なぜ政治家というのは、我々のそういう努力を全て台無しにしてしまうような決定しかできないのだろう。この番組を一人一人に送り付けたい気分だ。とはいえ観てもらっても私が何を言いたいのかは、理解してもらえないだろう。

このままでは、日本の負の遺産を目の当たりにするばかり。世界でも類稀なる日本の良さを踏みにじっていく政治家のあり得ない政策に、私は色々とノーを突き付けたい。もういい加減にしてくれないだろうか。自分たちが血税の無駄遣いをして国家を財政破綻寸前にまで仕立て上げた挙句に(というか既に破綻しているのも同然だ)、苦肉の策で外貨獲得のためだけにインバウンド需要増大を強力に推進し続けたようだが、肝心の日本の供給力をどう考えているのだろうか。我が日本は、国家として一体何を海外の人たちに見せたいのだろうか?少なくとも政治の世界を説明する気にはなれない。政治の世界は日本に限らずイタリアも腐敗しきっているので、話しても意味がないのだが。これまで連日キャパオーバーで溢れかえっていた、日本を代表する観光地からの悲鳴は、今や少しづつ戻ってきている国内観光客を待ちながらも持ち堪えられるかどうかの瀬戸際で呻く声か、既に持ち堪えられず消えていった断末魔の叫びへと変わっていった。コロナがついに白日の下に晒した、これまで日本に蓄積されてきた歪みは、ここに来て一気に瓦解を見せている。本物が生き残れるのか否かの瀬戸際に来ている。

それにしても、チラ見せの美というものが日本にはあるが、「隠蔽」は信用を最も無くす行為だということをあなたたち政治家は本当に分かっているのだろうか。(それに追随する組織も然り)

あなたたちは「偉い」のではない。我々の血税を「預かって」、全身全霊をかけて働くべき国民の代表だというのに、なぜ私腹を肥やすことだけに熱心なのか。国民の代表とはなんなのか?日本を代表するスポーツ選手たちのように、血のにじむ努力をしてきたのだろうか?して来たと言うのなら、その方向性が世間の良識からしておかしいとは微塵とも思わなかったのか?周囲がやっているのだからそれで良い、と何も考えずに何十年もやってきたようにしか見えないと感じるのは私だけだろうか?

そう簡単に方向転換できないまま、奇妙奇天烈な政治的伝統が出来上がり、今の姿があるのだろうとは思う。悪しき伝統、断ち切るべき伝統をそのまま続ければ、さすがに国民は黙っていないということを肝に銘じて欲しい。これ以上、日本を壊さないでくれ。我々国民の限られた大切な時間を、あなたたちの大義のないつまらないエゴで無駄に浪費しないでほしい。2020年がもう少しで後半戦という時に何もなし得ていないことに、私自身がこの数ヶ月翻弄され続けてきてしまったことに対し、苛立ちを感じるばかりだ。

鼻息がつい荒くなってしまった。失敬。

日本の優れたテレビ番組やコンテンツは、どんどん輸出する価値があると思う。我々全国通訳案内士の役割も、生身の身体と言葉で日本というコンテンツを直接目の前にいるお客様に提供していく職業だが、そんな大切な役割を持つ貴重な職業が世界中で悲鳴を上げている。私がお世話になったイタリアでも、観光収入が頼りの通訳ガイドが抗議運動を起こしている。

人生における付加価値を提供する職業が、世界の平和を作る担い手でもあることを、どうか忘れないでほしい。

※写真はCOREDOにて日本橋一丁目町会神輿の一部(2018年12月)

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