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生活目線で考えたイタリアの新型コロナ感染パンデミックとウイルスが蝕むもの

5/24(日)、5/25(月)と2日間にかけてFacebookに投稿した記事をまとめ、少し書き直した。国家的政策やシステムの話は抜きにして、イタリア人の文化生活習慣や地理的環境など身近な生活経験からの考察として、そこから派生する所感も含めて記しておきたいと思う。なので、感染の話題に関しては科学的知見ではなく、あくまで所見であることを断っておきたい。

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イタリアで風邪を引くと、私はなぜか毎回ひどく悪化した。日本では考えられないような風邪を引くのだ。風邪を通り越して肺炎一歩手前までいったこともある。歩いている途中に酸素不足で足が動かなくなることも経験した。凄く恐ろしかった。当時の自分の食事情が良くなかったせいかと思っていたが、帰国して長く(10年以上)日本での生活に馴染んだ後に再び行ったイタリアでもまた大風邪を引いて、それこそ帰りの飛行機で命の危険を感じるほどの状態になってしまったのが2016年のことだった。年齢的なこともあるのかもしれないが、この大風邪は痰の絡みも尋常ではなく、肺炎一歩手前の時とはまた違う恐ろしさを覚えた。

その話を、イタリア在住経験のある知人友人数名に話したことがある。すると、「自分もそうだった!日本と風邪の種類が違うのかな?スペインでも酷くなった経験あるよ」という答えも返ってきた。まあ、これは個人差がある話だとは思うが、おしなべてイタリアは日本ほどインフルエンザに対する厳格な考え方が無いというのは一般的な印象だ。AとかBとか関係なく、風邪とインフルエンザの区分けも無かったように思う。そういう疑問を誰かに話すこともなかったけれど。

いずれにせよ、小児喘息以来、マレーシア時代の水泳のおかげで完治したはずの気管支喘息が振り返したのはイタリア生活の時だった。しかも壁画修復授業でお椀を逆さにしてフタをしたような環境の教会で(天井画に手が届くように足場を作ると、ドーム型の天井に閉じ込められた格好になる)換気設備もなくアンモニアを大量に使い、ガスマスクをして作業をしていたら、ある日突然マスクから空気が入らなくなって呼吸ができなくなった。アンモニアが作業場に充満して、マスクは空気を濾過しても酸素そのものが作業場から無くなっていたため、息を吸っても空気自体が口から肺へと入っていかないのだ。マスクと口の間に空間はあるというのに、口を完全に塞がれたような状態となり、慌ててマスクを外し、教会から飛び出した。私が第一号で、翌日から次々と他の若い子たちも苦しさを訴え始めた。ようやく扇風機を回すようにしてくれたが、私はその後肺に痛みが残り、足場の下のもう少し換気が良い場所で薬品を使わずメスだけを使う作業を任されることになった。その後長いこと数年、密閉空間にいると息苦しさが抜けなかった。帰国して日本の電車でエアコン無しで窓を閉め切っている時もダメだった。

だからイタリアの著名な修復士も、短命な人が多いのかもしれない。(イタリアの修復現場の危機管理対策は、組織によりかなりばらつきがあるかもしれない。今は改善されていることを祈りたい。)

住んでいたローマの空気も悪かった。街の景観を守るためにサンピエトリーノという石で石畳が敷き詰められ、ボコボコした道を行く車のタイヤが普通のアスファルトよりすり減るし、それに車の排気も日本とは桁違いにガソリンの臭いが鼻をついた。
だから、イタリア人が海へ必ず行くのはわかる気がした(ちょっと、意味はかなり違うんだけど)。ヨードは身体を強くするよ、とはイタリア人に良く言われたものだ。私も、呼吸器がダメになると可能であればローマ郊外の海辺へ行き、丹田式呼吸でなんとか力を盛り返した、という時も結構あった。海の浄化力は確かにあると感じた。

そういえば新型コロナウイルスが流行し出した頃、1927〜28年にスペイン風邪が流行った際、海で過ごしたほうの自分の子供たちはその冬感染しなかった、と与謝野晶子が記した話を読んだ。

今回の新型コロナウイルス対策にも、海のヨードと太陽、空気が何かしら効果を発揮してくれると良い気がするのだが、残念なことに今年の日本の海水浴場はそうもいかないようだ。何しろ与謝野晶子の時代から日本の人口はおおよそ倍に膨れ上がり、人の移動も格段と容易になっているのだから、そう簡単に門戸開放するわけにもいかないという事情がある。また、誰かが遭難したらレスキュー隊の感染リスクだって避けられない。何か良い方法があれば良いのに、と思うのだが。私は神奈川県民なので、せめてそのうち海辺の散歩ぐらいはしておきたいなとは考えてはいる。自転車を買って電車に乗らず、密を避けたいところだが…とりあえず様子を見るとしよう。

湘南は訪問者のマナー(ゴミ問題)も以前から問題になっていた。利用者のモラルが下がっている現状が残念でならない。その持ち込まれたゴミを掃除するのは地域住民であり、タイミング悪く掬いきれなかったプラごみは大海原へと冒険し、いずれ我々が口にする食べ物にも甚大な被害をきたすのだということを心に留め、利用者は海に対するリスペクトを持って来訪して欲しいものだ。ただでさえ自然災害が多い日本がどれだけ地球を汚染しているのかも、今一度真剣に考え行動するべき時に来ているのだから。

話が逸れてしまったが、風邪やインフルエンザに対する漠然とした観念を持つイタリアの、他の考察。

友達が友達を呼び、さらにその友達が複数友達を呼んで誰かの家で連夜パーティー、というのが当たり前のイタリアでは、初めて会う人同士でも両頬にキスする習慣がある。それを一夜に何人も、もちろんキスされた人がわざわざ頬を水と石鹸で洗うなんて非効率的なことはするはずないし、何よりそんな失礼なことなどできるはずもなく、次から次へと他人の唾が複数ついた頬にキスしていくわけだ。その中にスプレッダーがいたらどうなるか?

そして北イタリアの寒い冬で窓を開けて換気などできるわけがない。そして、地域によっては風があまりなく、空気が淀んで霧もいつまでも晴れなかったりする。ここ数年は北イタリアも霧が消えてきているとは聞くが…ボローニャの夏のどうしようもない動かぬ空気の苦しさをちょっと思い出している。

3月にロックダウンした北イタリアのロンバルディア州(州都はミラノ)では、普段は工場稼働により上空で汚染物質が淀んでいるようだが、工場閉鎖によって汚染雲が消えた、というレーダー地図を目にした。武漢も新型コロナウイルス蔓延前から大気汚染問題で住民が抗議運動をしていたが、アルプス山脈を北部に構える北イタリア(特に経済活動が活発な内陸部のロンバルディア州)は、アルプスが壁になり空気の逃げ場がなく、繊細な人なら呼吸器になんらかの障害を来しやすい地理的条件が揃ってしまったのかもしれないという気がしている。が、私は科学者ではないのでいい加減なことは言えない。

次に、手洗いやマスクその他の生活習慣について。

ローマの修復学校で驚いたのは、女の子がトイレの個室から出てくると、半分以上の子がそのままトイレ空間から出ていってしまうことだった。結構なカルチャーショックだった。自分の手がお尻に直接触れる触れないに関わらず、不特定多数の人が触ったトイレットペーパーホルダーやレバーその他、モノに触れる機会だってある。日本の手洗い習慣は普通じゃないんだと改めて感じたのがイタリアの女子トイレだった。(しかしニュージーランドの現地学校に行っていた時のことは全く思い出せない…子供すぎたせいか?)

日本では新型コロナ上陸の前から冬場にマスクを着用している人も多く、花粉が蔓延してからさらにマスク着用者が増えていった。そして多くの人は、口を大きく開けて腹から喋ることはしない。

イタリア人は朝から元気よく喋ってナンボだ。もちろん無口でボソボソ喋る人もいるが、ごく少数派。そして皆で話しながらカフェブレイクしたり食事するのが大好き。会えばキスするのは先に述べた通り。

電車の中で携帯電話をマナーモードに設定し、電話で喋らないよう車内で常にアナウンスし続ける日本。
イタリアにそんな決まりはない。マンマ、今夜の食事は何?とはバスでも列車でもよく聞こえてきた風景の一部だった。そして要件だけで電話が終わることはない。

密室・密閉・密接。
結局、それを避ける行動をどれだけ守れるかにかかっているということだ。

そして、未だにマスクで感染を防げると勘違いしている人も世界には(ひょっとするとまだ日本にも?)多そうだ。
自分が感染しているつもりで、いつ出るかわからないくしゃみで他人へ飛沫を飛ばさないためにマスクをする。ただそれだけのことだ。
もちろん他人の飛沫を無用意に鼻口に被らずに済むというのもある。が、人との距離を保たなければマスクからウイルスはいくらでも通り抜ける。だから距離と換気が大切になる。

外食の時、出されたグラスやコカコーラの注ぎ口や食器を神経質にナプキンで綺麗に拭き取ってから口につけるイタリア人もいたなと思い出す。ただ、彼らが挨拶のキスを避けていたかというとそれは無かった。

我々は、最初に屋形船感染があり、ダイヤモンドクルーズ号があり、神奈川の相模原市で感染経路不明者が出たときには県内通勤者は既に花粉やアレルギーで自分を守る人以外も一斉にマスクを着用し始めた。

何よりも日本は綺麗な水が行き渡り、手を洗える環境にあるというのは大きい。そして手洗いは、義務教育や家庭でも当たり前のように浸透している習慣の一つである。ここまで国民が常にハンカチを持ち歩くような国は他にあるのだろうか。居酒屋に行っても熱いおしぼりが出る店もあり、拭きたければ手も顔も口も拭けるし(今は使い方に注意が必要か)。

水が綺麗=布マスクが洗える日本。当初WHOがマスクを推奨していなかったのは、水がなかったり物資が十分行き渡るわけではない地域のことなどを鑑みて言っただけで、世界から見ればアブノーマルな日本の基準で物事を考えてはならないと思う。

俯瞰で見ることを今の日本人はますます忘れてしまっている気がして、気になっている。世の中の苛立ちが誹謗中傷に向かうのではなく、もっと科学的な批判をし、より建設的な意見を出し合う空気に変わっていけばいいのにと思う。ただの誹謗中傷ほど得るものが少なく時間の無駄で、得るどころか失うものも代償も大きすぎる行為であること、人間をダメにする手っ取り早い脊髄反応以外の何物でもないことを、恐らく発している本人自身が遅かれ早かれ自覚することになると思うが、自覚なきまま転落した人生を歩んであの世へと旅立つ瞬間にようやく自覚する、という人も、このままでは増えていきそうだ。そして自覚していながらついつい行為に及ぶ人間は、目に見えてさらに精神的に病んでいく。ネットでは言葉の選び方に、実体では目つきと所作、醸し出す雰囲気の中に表面化していく。しかしそれだけではないところが、人間の恐ろしさだろうか。

人間社会が個々人に押し付ける雰囲気というものは恐ろしいものだ。何かが自分の中でおかしいと思ったら、一度人間がいる場所や事物から自分を切り離し、周囲に自然しかない場所を訪れるのも一旦我に返る一つの方法ではないかと思う。それが難しければ、雑草一本でも水を注いだ空き瓶に差して、じっと観察してみる時間を作るのも手だ。雑草一本でも、人間の弱さを自覚するには十分だと思う。観察という行為は、人生を生き抜く上で最も忘れてはならない基本的な行為の一つだが、ほとんどの現代人は残念ながら本来の目の使い方を忘れてしまったようだ。我々は歴史の蓄積を単に無駄遣いしているだけだ。もういい加減、この事実をきちんと自覚した方が良い。先人の知恵にあぐらをかいて、目と耳と頭をはじめとした身体の全機能を使い切ることを忘れてしまった人ほど、人生はジリ貧になっていく。中身のない人が発する言葉ほど空虚なものもない。言葉はやはり言霊なのだ。

世の中とは不思議なもので、他者に対し自分がやって欲しくないことをやり続けていけば、それは必ず大小の差こそあれ自分に返ってくるようになっている。科学的に説明はつかないが、どういうわけかそうなっている。今の世の中は即物的で短絡化し、行為に及ぶ前にいったん踏みとどまって自らが持つドス黒い念がどこから来るのか考える時間さえも持たず、そのまま怒りを外へ向けることで更なる負を他者にも増幅させる。その繰り返しが、集団暴動へと人を駆り立てていく。

ウイルスがここまで人間の業を露わにすることになるとは、全く想像していなかった。いろいろなことを考えさせられる。

文化習慣と置かれた環境によって、実にいろいろなものが見えてくるので、公正な判断をするには常に相手の立場を色々と「想像する」訓練が本当に必要ではないだろうか。

今の日本には想像力が決定的に欠けていると感じる。ITに頼りすぎて、自分自身で頭を絞るような思考力が後退してしまったのではないだろうか。というより更に想像し考えを深める人、想像も考えることもさらに諦めてしまった人との差がますます開く一方、と言った方が良いのだろう。

イタリアの生活習慣に話を戻そう。

イタリアは日曜日に一族郎党集まっての大昼食会も当たり前のように開催するお国柄。
なので、世代間の交流がとても密であることも申し添えておきたい。
幸か不幸か今回のこの新型コロナパンデミックは、そういう国民性がまた仇のひとつとなってしまった。

元気な若者が感染したまま無症状でイタリア国内を仕事に遊びにと飛び回り、実家の父親に会いに行き、そんな最愛の父が自分のせいで感染して亡くなってしまい、本人も人工呼吸器を付ける段階にまで陥り病院からコロナの危険性を訴える動画を配信する様子をご覧になった方もおられると思う。

そういうところ、イタリアは健全な人間性を保てる国なのだろうとも思っている。
お互いを思いやるのが当たり前、世代を超えて対話をするのが当たり前、の国なのだ。自分の身内、また皆のために心から献身的に働いてくれる方々に対する思いやりと称賛が海外ニュースからも伝わってくるのは、そういうこと。彼らはそういう人としての基本的な感性が鋭敏だから感情表現も豊かで、それを武器にすることもできる。それは、決してお仕着せの感情表現ではなく、本当に相手を思って表現するということ。誰かに言われて棒読みしたり、とりあえず言われたから行動するのとは別次元の話だ。

だから逆に政治に対する猛批判も日本の比ではない。皆、身内と善良な人々を守るために必死で、基本的に政治家という存在を信用していない。
政治は国民の生活に直結するが、結局自分の身は自分で守るしかないことも分かっているイタリア人は、だからこそ身近な人々を大切にするし、キリスト教信者も減ってきているとはいえ弱者に対する思いやりもキリスト教的な施しを感じさせるものがある。彼らの行動規範には、長い歴史の継続性を感じるのだ。
スーパーで余分に買い物をし、その余分な買い物品はスーパーに置いていく。食べ物を買うお金も無い人たちのためにお金を使い、それをスーパーの店員さんが困窮している人たちに分配する。押し付けがましさも無く、サラッとそういうことをする人たちなのだ。

基本にあるのは「私も人間、あなたも人間」である。

この辺りの人権や人間性の話題についてはもう少し別の観点から色々と斬り込む必要があるが、今回についてはこの辺りにしておきたいと思う。


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