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女の美学 ~好かれているか不安な女子へ~ 

それは誰かの幻想で


人付き合いにおいて、周りからの評価とか好かれるかどうかとか、って10代や20代の頃は色々不安定な中で、親先生友達含めた周りの人に認められるために頑張ってきた事が多いなと思う。


思春期のそれはある意味通過儀礼のようなもので。


心身共に成長するほど孤独ともうまく付き合えるようになってくる人はある意味健全だと思う。


孤独を知る人は他者を支配しないおおらかさがある。


好かれようとしない下心の無さは、共にいる人を自由にさせる。



人に好かれたところで特に気持ちのいいやり取りが出来るとは限らない。

(ここら辺は時と場合によるけれど)


好かれるためにがんばるって、とても消耗する気の遣い方。


利害が絡む仕事などは多少のリップサービスも仕事のうちかもしれないけど

仕事で求められるコミュニケーションてどちらかというと「好かれるため」でなくあくまで「より円滑に進めるため」に過ぎない。


だからマナーとモラルを守っていれば特に好かれなくても問題ないし(出世とか営業とかが絡むと好かれた方が得だけど)


逆にマナーやモラルすら守れない無礼者とか失礼な人は分かりやすく敬遠されがちな世界なので、わりと自分の中で線引きをした付き合いが成り立ちやすい。



で、そういうわりと明確に線引きできるマナーやモラルと違って

人の「好き、嫌い」って結構アテにならないものだ。


何かがきっかけで好きが嫌いになったりする事なんてザラにあるし。

その逆だってある。

それは好感度的なライトなものからディープな愛憎に至るまで、付き合いの数だけ様々なグラデーションがある。


その時の自分の心境によっても捉え方も変わるし。


そしてそれはごく自然な感情であって、本来自由でいいはずのものであり、人を縛るものではないと思う。(相手に配慮は必要だけど)



もちろん対人関係は誰だって嫌われるより好かれた方がいい。


気遣いは出来ないより出来た方がいい。


気が利く人は重宝される。



けれど



自分が喜ばないのに、好かれるために努力するというのは違う。


何かをした結果、好かれるならば自然な成り行きだと思うけど。


下心があるかないかを人って無意識に感じ取るんだろうと思う。


人からの評価を基準に生きてしまうとお互いに苦しいしつまらない。



そして、人の気持ち(本心)って簡単に捉えられるものではない。


人って案外、自分の気持ちすら曖昧なまま過ごしていたりするものだし。


人の腹を探っても幸せにはなれないし、探られてもいい気持ちはしない。



だから、そんな曖昧で実態の定まらない幻想に囚われるだけ、出口(答え)の無い迷路を彷徨うようなもの。



自分を出していって結果好かれるも嫌われるも、それは相手がいたら仕方のない事で。


相手の受け取り方や気持ち、感情までは自分にはコントロールが出来ないもの。


だから何を言ってもやってもいい、のではなくって


だからこそ、自分につまらぬ落ち度が無いように接する気遣いは大事だとも思う。


その結果、嫌われるならそれは上等だ。


そして、嫌われても陰口を叩かれても別にいいやって開き直ると、そういう面倒くさい人との距離は開いていく(かもしれない)



それで、そもそもみんなに満遍なく好かれるほど&みんなを満遍なく好きになれるほど

私ってそんなに性格よかったっけ?

そんなに気が利く女だったっけ?

そんなに「いい子」「優等生」だったっけ?


ってふと原点に返ってみると、全然そうじゃないわと自分が自分を冷静に戻してくれる。


そういう風にして自分の身の丈に合ったサイズが分かると余裕、余白も生まれて人付き合いは楽になる。


人間て近い存在になればなるほど、似た者同士の波長でしか一緒にいられないと思うから

より自分らしくいる事で、自ずと無理をしないで合う人が残るようになっているんだろうと思う。



学生も社会人も主婦も、一般的な価値基準に縛られて生きると、つい周りの「優等生」「理想的に見える何か」が目についたり、比べて勝手に焦ったり、落ち込んだりしてしまう事もあるけれど


「そもそもそれって誰かの身勝手な幻想じゃない?」

「言いたい人は勝手に言ってやがれ」と思えたら、もっと生きやすくなるのかもね。




終わり


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