"東京"って概念は食傷気味、なのにボクらは東京を追い続ける。
こんばんは、悠です。
タイトル通り「東京が〜…」なんて記事やエッセイ、noteでも散々見飽きたと思う。
今回はそんな話。
どうせそんなボクも東京に固執しているくせに東京に飽きているからこそ、どうして"東京"という概念に執着してしまうのか少し考えてみた。
ボクは神奈川県出身のくせに東京に固執し、さらには憧れと羨望を持ち続けた結果、無理して実家を出て、無理して東京に住み続けた。
でも先日、とうとう東京の部屋を解約し実家に戻った。
会社も辞めて一度、人生のスタート地点に戻りたかった。
人生ゲームでよくある"あれ"がしたかった。
なのに結局スタート地点には戻れなかった。今まで積み上げてきたもの全部を手放せるほど、楽観的な人間じゃなかった。
まだ返済の余地が残っている程度の負債を抱えたまま、再び就職コースにコマを進め始めていた。
東京での生活の中で、誰かを傷付けた事や誰かに傷付けられた事、決して忘れたくなかったのに、傷は殆ど癒えて残念ながら前よりもさらに強くなっていた。したくない成長だってこの世にはある。
自分の気持ちとは裏腹に、カサブタを剥がされたと思ったら、もうそこには傷跡なんて何も無くて。
大人になるって案外残酷だよね。
*
「自分は何者なのか?」の次に数多く考えられている、
「"東京"って何なのか?」っていう、正解の無い問いが永遠に残っている。
その理由は簡単で、正解が無いからこそ常にテーマとして登場してくる。
だって、"無いものを強請る(ねだる)のが人間"だから。
あと誰かが書いた「東京」って曲は、この先も絶えずリリースされ続けていくだろう。
"東京という概念"に固執していたボクはこう思った。
*
またいつか、東京で一人暮らしをすると思う。
今よりもっと色んな自分や、色んなあなたに会って、大切なものを大事に抱えて、それが東京の一部となって、そしてボクに染み込んでボクを染め上げていく。
"それでもボクはどうしても東京から離れられない"
今夜はお気に入りの「東京」を聴いて、"傷"を鮮明に思い出しながら眠ろうと思う。
それでは、良い夜を。
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