わからないを教えられる人になりたい。
わからないを教えられる人になりたい。
世界はわからないことだらけ。いまnoteに文字を打ち込んでいるMacbook Proの蓋を開けてもどんな仕組みになっているかわからないし、後ろの棚にあるまだ読めていないFACT FULNESSの続きにどんな知識が詰まっているか予測もつかない。
スーパーのビニールぶくろがどうやってできてるか、鍋つかみって誰が最初に作ったのかさえも知らないし、さっきまで自分のいいところってなんだろうと我がことでさえ2時間ぐらいメモ帳に書き出していてようやくしっくりきたところだ。
誰もがそうだと思う。なにもかも知りえている人なんていないだろう。なのに「わからない」はないがしろにされ過ぎているように思う。
仕事ひとつとっても、学校や親子でも「自分で考えろ」「見て覚えろ」という状況はとても多い。もちろん自分で考えることも、見て盗むことも大切なことだ。学ぶ側はそれをさぼらないことが前提だ。
しかし「教えることを放棄するため」に使われるそのセリフには疑問を感じる。やってみて、考えてみて壁にぶち当たっている人には手を差し伸べるのがいいのではないか。
自分で考えて出した答え、経験から得たものでしか人は理解できないものだけど、自主的に考えやってみている時点でそこはクリアしていると思うのだ。ここで教わったことはしっかりと身になるはずだ。
壁に当たった時「自分で考えろ」と言われて困るのは「なにを考えたらいいかわからない」状態だから。
例えば僕が曲のアレンジについてわからないことがあって、ネットで検索してみたけれど一向にヒットしなかったことがある。だけど「この部分ができていない」と明確になった時に今まで頭になかった検索ワードが浮かんで、その結果求めていた知識を得ることができた。
教え方はさまざまでいい。やり方自体を教える人もいれば、ヒントを出す人もいるだろう。無闇に放置するのではなく丁寧に育てることは大切だと思う。
何度言っても覚えられない人にはイライラするかもしれない。でもその人は「覚え方」や「自分から学ぼうとする理由」が見つかっていないのではないだろうか。
教えるというのはとてつもなく難しい。「話を聞く」という課題もクリアしないといけないだろう。
僕はほとんど人に教えたことがない。だからこそ思えていることかもしれない。だからこそ今純粋に「教わる側」として感じているこの気持ちを大事にしていきたいと思う。
プレイヤーになるとオーディエンスの気持ちには二度と戻れないから。
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自分のことが一番わかってるようで意味不明
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