ピアニカ = ピープー・カポタスト

ヘンテコなもの、かわいいもの、おいしいもの。だいすきなものを探すことだけに余念がない私…

ピアニカ = ピープー・カポタスト

ヘンテコなもの、かわいいもの、おいしいもの。だいすきなものを探すことだけに余念がない私の備忘録。チラシの裏、或いは記憶の裏倉庫。

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最近の記事

終戦記念日にもう会えないであろう友人の事を思い出した。

20世紀末のユーゴスラビア戦線で兵役を終えたのち、肉が食べられなくなった男性とかつて親しく話していたことがある。 魚は食べる。菜食主義者ではないのだ。 食肉にされる家畜の断末魔は彼が過去体験したであろう人間のそれと酷似しているからなのかもしれない、ということだ。 彼が戦地で人を殺したのか、それは最後まで聞けなかったけど。 平和主義者であるに違いない、だけど「祖国のために武力をもって戦う事」に肯定的な彼女は戦禍の画面に映る惨状から悲惨さと同時に恍惚を感じる。 彼女は志願して

    • おにぎりと米と私

      おにぎりが好きだ。いや、愛している。 私が「愛している」なんて言葉を使うのは稀なのだ。本当に愛しているのだ。 おにぎりが好きなのは「米=ごはん」が好きだからだとずっと長いこと信じ込んでいた。 45年間私は米が大好きだった。5年前の夏、45歳のある日突然に「実は米が好きなのではない」という事実に気付いて呆然とした。 米がなによりも好きだと思っていたし、私がなんだかんだずっと肥満から解放されないのもそのせいだと思い込んでいたからだ。 だからいつでも炭水化物控えめの生活を心がけて

      • covid-19についての雑感(2020.04.05)

        ※緊急事態宣言前に書いたもの。この2日後の4月7日夜に緊急事態宣言が出されました。 何週間か前、ヨーロッパのすみっこに暮らしてる友だちが話してくれたことが今、日本の私たちの目の前で起こっている。鑑みるにこれから私たちの状況はさらにさらに厳しくなっていくというわけだ。 アジアの某国に住む友だちは冗談で「撃たれたくないからどこにも出ないよ」なんて言う。 もしかしたら死ぬのかもしれないな、なんてたまに思うのだ。 確か3月10日にこんな事を考えていたのだけど。 世界初の「総力戦

        • smoke and cigarettes

          いつも煙草には憧れがあった。 二十世紀後半、まだ日本人(主に男性)の多くは街中で、屋内で、煙をいつでも燻らせていたし、いちばん身近な男性である父がチェーンの付くスモーカーだったのだ。 家中ヤニ臭くなる原因である煙草を嫌うのが心情であるけれど、いつしか私は煙草を吸う自分自身の姿に憧れを抱くようになった。 父に頼まれて煙草を買いに行くのとは違う、駅前の大きなたばこ屋でジタンと言う銘の煙草を買う。青いパッケージのフランスの煙草だ。近所のたばこ屋には売っていない。 口に咥えた煙

        終戦記念日にもう会えないであろう友人の事を思い出した。

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        • Queer as a Clockwork Orange
          13本
        • チラシの裏
          4本
        • 香水を纏うということ。酔狂で贅沢で粋な行為。
          5本

        記事

          脳内晩酌

          何年ぶりだろう。新宿ゴールデン街。 ギシギシいう階段を上って鍵のかかったドアのすりガラス越しに中をのぞいていると、開店前の店の中から声をかけられた。 「ちょっとあんた、久しぶりじゃないの。 おばちゃんになっちゃったね」 そりゃそうだ。考えてみたら10年はこの店に来ていない。…それにしても相変わらず無駄にでかい声である。 私はこの治子ママのつみれ汁が大好きで、大学生の頃はよくこの店に通ったものだった。 「今日はたけのこだよ」と言うことで、茹でたての糠がついたたけのこ

          粋と野暮は隣り合わせ。キザが入って三つ巴。

          終始粋なのは隙がなさすぎ。 粋を悟られたら野暮に転じる。 野暮も通せば粋になる。 相手に不快さを感じさせれば、それは本人にとって粋であってもただのキザ。 まことに難しい。まさに拮抗、力加減の妙。

          粋と野暮は隣り合わせ。キザが入って三つ巴。

          よくやった事の報酬は 「それをやったって事だけ」さ

          エマーソン(アメリカ合衆国の思想家、哲学者)が残した名言。 本当にいろいろな事があった1年だった。 「いろいろな事があった」と言うより自分の身に降りかかったいくつかの出来事をきっかけに「いろいろな事を考え続けた」1年だった。 大袈裟な表現ではなく、自問自答を繰り返す日々だった。 思春期でもないくせに。 膠着状態だが意識は冴えざえとしていて、しかし手足は動かせず、何も答えを見出せず。 空回りと頭痛の日々。 その時々を振り返ってみると今になって残ったのは、確かに苦悶していた

          よくやった事の報酬は 「それをやったって事だけ」さ

          UN JARDIN APRES LA MOUSSON

          エルメス 、モンスーンの庭 直訳すれば「モンスーンの後の庭」。 きゅうりである。瓜系である。 控えめに言ってメロンあるいはすいかである。 最終的にはセロリのにおいすら感じる。 …青くさい。 それのみならず胡椒、唐辛子、生姜、コリアンダー、カルダモン、シナモン、ナツメグ、クローブ?? スパイシーである。 世の香り好きな人達のことは唸らせたらしいが、まったくもって万人向きではない。 こう言ったらまるで通好みの香水のように聞こえるが、口の悪い人はひと言「カレーのにおいじゃん

          CHANEL EGOISTE

          私を抱きしめたその男からは シャネルのエゴイストのにおいがした。 ほんのり汗をかいた彼の胸に顔を埋めながら 「ああ、このにおいはこの男にぴったりだな」 ぼんやりと私は思った。 その男の名はエフゲニー・プルシェンコ。 なーんて、なんだか素敵なロマンスみたいだ。 先日シャネルを通りかかった時、エゴイストのにおいで唐突にその時の事を思い出した。 においって「見る」や「聞く」と違って、こちらの思惑はお構いなしに入ってきてしまう情報である。 もう何年もずっと思い出しもしなか

          ファッションについての一考察

          私にとってのファッションとは 自己探求が行き着いたところで やっと見つけた自己表現の手段であり 自己完結かつ自己満足でしかありえない、 要するにマスターベーションである。

          ファッションについての一考察

          Origins Ginger Essence Sensuous

          暑かったり急に寒かったり。 日が射している時間には外に出ないし オヒスの中は季節感がない。 気がつけば夏まであとわずか。 夏はこのにおい。大好きな生姜のにおい。 ところで。 「香り」と「におい」という言い方があるけど、小さなこだわりとして私は「におい」を使う方が断然好きだ。 「香り」が香りそのものを指すのに対して「におい」は湿り気や温かみといった、においそのものではないものも内包していると思うから。 もちろん 香水に対して使う場合には、それを纏った人の体温さえも感

          dangerous liaison

          不安定極まりない担保による安定。 奇跡的に保たれた均衡。 薄氷を踏むが如しの危機感と愉悦感。 目に見えない現実と目に見える幻想。 ありえないはずの同化を肉体的精神的に欲求し 一瞬を追いかけながら永遠を誓えど 手に入れた次の瞬間 希望は絶望に変わることすらある。 目も耳も塞がれた状態で それでも求めるものを追い続ける。 何が正しいかは当人にしかわからず 正しいと信じたものが 本当に正しいかどうかなど 誰にもわかるはずもなく。 表の裏は裏、裏の表は表ならば 裏の裏は表なのだろうか

          narciso rodriguez for her fleur musc

          おはようございます。 グーテンモルゲン。 アローアロー。 人並みのお給金と引き換えの変化に乏しいルーティンワークからはつい逃げ出したくなる。 地に足のつかない根っからの浮き草稼業。 そんな私の新しいおともだち。 起きぬけに首筋と手首にしゅっしゅっしゅっ。 しがない薄給オフィスガールの小さな朝のお楽しみ。 ムスクのにおいは苦手なふりしてずっと敬遠していたけれど、この香水はばらのにおいが鮮烈で、まるでお風呂上がりのはだかの赤ん坊に、天花粉をはたいたような柔らかくて粉っぽく

          narciso rodriguez for her fleur musc

          賛成せずとも容認すれば良いのだ。

          私はナンが好きではない。自分からは食べない。かと言って嫌いでもない。だけど食べればおいしいとは思う。 カレーを食べていた時考えたこと。 大多数の人が刷り込まれている「カレーにはナン」って言う思い込みをなくせば、もっと自由なめくるめくカレーの世界が待ってるのに、って思うけどそれは個人の自由だから黙って私は米。 私が「ウニを食べられない」と言うと、お節介な誰かに「人生損してるよ!」って言われるのと同じくらい、それは本人にとってはばかばかしくて意味のない事かもしれないから。

          賛成せずとも容認すれば良いのだ。

          理想像と虚像と妄想の三つ巴

          人付き合いにおいて、私たちは頭の中で勝手に相手に断りもなく自分が作り上げた相手の理想像を、目の前の相手に投影しながら日々生きている。 さらにその相手と実生活において相対する時、自分の頭の中の「妄想に過ぎない」理想像を、現実に「生きている相手自身」によって打ち砕かれるという作業を日々繰り返しながら生きている。 「打ち砕かれる」とは。 相手の行動が自分の都合の良い方に傾けば、自分の中での相手の評価は良い方に上書きされ、自分にとって都合の悪い方に傾けば「期待はずれ」という評価

          理想像と虚像と妄想の三つ巴