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smoke and cigarettes

いつも煙草には憧れがあった。
二十世紀後半、まだ日本人(主に男性)の多くは街中で、屋内で、煙をいつでも燻らせていたし、いちばん身近な男性である父がチェーンの付くスモーカーだったのだ。

家中ヤニ臭くなる原因である煙草を嫌うのが心情であるけれど、いつしか私は煙草を吸う自分自身の姿に憧れを抱くようになった。

父に頼まれて煙草を買いに行くのとは違う、駅前の大きなたばこ屋でジタンと言う銘の煙草を買う。青いパッケージのフランスの煙草だ。近所のたばこ屋には売っていない。

口に咥えた煙草にマッチで火をつける。煙を吸い込む。初めは浅く、次は深く。

したたかむせる。口中に苦い味とにおいが広がる。喉がひりひりする。とりあえず深呼吸する。さらにうがいして、とにかく一本吸い切る。

と言う秘密の訓練を、十代の頃、深夜自室で人知れず繰り返していた。闘いである。
運悪く私は喉と鼻に持病があり、後で知った話だが、煙草の中でもアク強めだというジタンに挑むのも無謀であった。
月に数回、確か五年くらいの間この訓練を繰り返したが、一本吸っただけで、そのあと一日中喉の痛みと不快さに悩まされるのを乗り越えられず、数箱のジタンを空にしたあと、私は煙草を諦めた。

初めて自分のために煙草を買いに行ったあの日、何故私はジタンを選んだのか。普段は目にする機会の少ないあの煙草を。往年の洋画や古い雑誌の影響であるのは間違いないけれど明確なきっかけは今ではもう覚えていない。


私は物理たばこが好きだ。
煙草を持つ指先。煙を深く吸い込む仕草。煙草を吸っている人物が男性であれ女性であれ、一種の美しい儀式めいた雰囲気さえ感じる時がある。
そして私は電子たばこが好きではない。
あれに関わる全ての所作が美しいとは思えないから。
私に限ってだが、美しさの観点のみから言えば、電子たばこの存在意義が見出せない。電子たばこは全くと言って良いほど物理たばこを凌駕し得ない。私は見た目至上主義なのだ。

思うに、きっかけはさまざまあれど、私も含め身近な年長者が煙草を嗜む姿に憧れを抱いて初めての煙草に手を出す人は多い。単に煙草を味わってみたいと言うよりも、憧れた人物に近づきたい、追体験したい思いで、苦い、けむい、おいしくもない、初めての煙草を吸うのだ。「煙草を吸う」と言う、煙草に憧れるものから見たら「粋な行為」。そこから粋な要素を取り払った物が私にとっての電子たばこだ。健康問題の観点から電子たばこの喫煙人口が増えるに比例して物理たばこの喫煙者は減っていく。たばこ業界全体はゆっくりと衰退していくかもしれない、と思っている。

ところで喫煙者が毛嫌いされる昨今であるけれど私の身近にいるのは男女ともに喫煙者ばかりである。

「たばこがなんで好きかって?『チョコレートケーキなんで好きなの?』って聞くようなものだよ」
「電子たばこって、太りたくないからっておいしくないの分かっててダイエットコーラ飲むみたいなもんだ」

彼らが漏らす言葉の、なんと痺れる美意識であろうか。語弊があるかもしれないが、愛煙家から言わせれば「健康を害する」などと言う脅し文句は、取るに足らない問題なのだろう。

彼らの発言は、私が電子たばこを好まない理由と似ている気がする。たぶん彼らは電子たばこに「健康問題云々」以外の利点を見出せないのだ。そもそも比べる気すらないのだ。

彼らのうちの一人の言葉である。

「電子たばこなんて吸うなら禁煙するなあ」

である。天晴れ。いや、たぶん彼ら全員が思っている。

自分が煙草を吸わないくせに、吸えないくせに、私が他人の喫煙を良しとするのは、もしかしたら「禁じられ、有毒とされるもののリスクを知りつつ、自らの主義に則って選び取る自主性」みたいなものにも惹かれているからかもしれない。
もちろん、その「背徳感」にも。

そしてさらにそれを持ち得る彼らに対しての憧憬の念から、かもしれない。


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