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covid-19についての雑感(2020.04.05)

※緊急事態宣言前に書いたもの。この2日後の4月7日夜に緊急事態宣言が出されました。



何週間か前、ヨーロッパのすみっこに暮らしてる友だちが話してくれたことが今、日本の私たちの目の前で起こっている。鑑みるにこれから私たちの状況はさらにさらに厳しくなっていくというわけだ。
アジアの某国に住む友だちは冗談で「撃たれたくないからどこにも出ないよ」なんて言う。
もしかしたら死ぬのかもしれないな、なんてたまに思うのだ。

確か3月10日にこんな事を考えていたのだけど。

世界初の「総力戦」と言われたのは第一次世界大戦で「総力戦」と言うのは軍事力、労働力のみならず、個人の信仰心まで差し出して敵に当たる事で、日本は戦争に限らず、この戦法:「精神的に追い詰められたたたかいにおける国民の底力」に頼りがちだけど、うまくいった試しがないように思える。
顕著な例は第二次世界大戦、あるいは戦後の各地での天災時における処遇。前の大戦では日本は敗戦国になったのだけど、負けたから作戦が失敗だった、という評価ではなく、国際的に見て度を越した総力戦を国民に強いてまで勝とうとしている時点でもう先が見えている。
日本にはいざって時は神風が吹くから大丈夫だとでも?
…神風なんてただの気象だ。
そう言う処遇を連綿と受けてきたから日本人は打たれ強いし忍耐力に長けている。そしてそれを「美点」とするからそこから誰も逸脱しない。

話を現代に戻してcovid-19について。
日本人が苦境に陥った時、毎度そこに絡んでくるのが「自粛」。私たちの特性ととても相性の良い「やり過ごし方」だと思う。都市封鎖で外出禁止命令が出るのではなく、「自粛」のもとに個人の自己責任に任せられる行動。ウイルスは週末にだけ蔓延するのだろうか。2日間だけの自粛なんて意味がないのに。

では「不要不急ではない事」とはなんだろう。究極に言えば食べて寝て、生きる事以外に今「不要不急ではない事」なんて他にあるのか。
しかし「自粛」に則ればそれを決めるのは個人の価値観である。健康のための散歩が容認されるにもかかわらず個人個人の「散歩」の捉え方次第でそれは後ろめたい行為にもなり得るわけだ。

「食っていく」という言葉の意味は「稼ぐ事」であり「稼ぐ事」はだから「生きる手段」だ。「不要不急だけど」なんて言い訳しながら週末仕事に出向く人がいる。
稼ぐ手段がなくなると怯える人たちに「補償なんて二の次にして自粛したら?」なんて正論は言えない。
「じゃあ、金出してくれるの?」と言われたら返す言葉がない。そんな言葉は言わせたくない。私にはお金の補償もできないし、人生の保証もできない。みんな食わないと死ぬんだ。

稼ぐためだ。生きるためだ。それは「不要不急ではない事」だ。悪くないのならなぜ人に断わるのか。そこになぜ含羞があるのか。自分の価値観で決めてよいことなのに「他人と歩調を合わせたい」故の相互監視システム。お互いに律しあってギリギリのところまで耐える仕組み。同調圧力。…終わりが見えない。

再び戦争に話を戻すと、世界的な常識として、自軍(もしくは自国)の兵力が1/3奪われた時、それをその軍の「全滅」と位置付けるらしいが、「総力戦」を遂行中の第二次世界大戦時の日本の軍上層部が思う「全滅」は「最後の一兵が息絶える時(自刃する時)」であっただろう。
世界と日本のこの意識の差。これに慣らされきって、と言うより、潜在意識にこの「全滅」をすり込まれて私たちは生きている。多分今回も「全滅」ではないにせよ、実りのない忍耐を期待されている。要求する方も無意識だろうとは思う。なんと言っても「潜在意識へのすり込み」だ。
だがしかし、日々確実に感染者数が増えていく中で「国民の皆さんに(苦境を強いる)お願い」をするのは、さすがにどうかと思う。物理的に敵の数が見える戦争とは違う。敵は目に見えないのだから。目に見えない敵の来襲の恐怖にいつまで晒され続けなくてはならないのか。
日本人の気質に依存しすぎじゃないのか。国が「親」として機能してないんじゃないか。
何度経験しても改善されない日本の悪習、風土病みたいだなと思う。

東京が封鎖される日まで、私は生きていく。金のために働く。そのあとで職を失うのか、補償があるのかないのか、その先食い扶持があるのかないのか。
何もあてにはしていないし、大袈裟だが生き延びられるかの話になったら、それはもうウイルスと私たちの我慢比べだと思う。

地球規模でのこんなざわつきに巻き込まれるのは初めての、後にも先にも一度きりな(と思いたい)経験だろうと思う。生き続けられるとしても、そうでないとしても(それは収束(終息)前のいつか、運悪く死ぬとしても、と言うことだ)一部始終見届けて、味わってやろうと思う。

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