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こんにちは。
株式会社ロジック・ブレイン コンサルティングパートナーの園池涼一です。

弊社の性格診断システムであるロジック・ブレインを利用して、歴代の首相の能力を分析していくという試みです。

今回は第45・48〜51代内閣総理大臣・吉田茂氏の人物像と業績から能力を検証をしていきます。

吉田茂氏の経歴

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吉田茂氏の総合分析レポート

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吉田茂氏は比較タイプです。比較タイプの物事を決める時の基準は「必要か必要でないか」でマイペースです。自分のペースを崩されることを極端に嫌い、自分のトキ・タイミングをとても大切にします。

本質はフィーリングタイプで毒舌家気味の人。人との関係性にはフランクさを求め、わかりやすくはっきりしたものを好み、曖昧さを嫌い、白黒は発揮させる傾向があります。

吉田氏は超比較タイプ。嫌なものは嫌、好きなものは好き、優柔不断は基本ないので、優柔不断な人は基本的に嫌い。
どっちにしようかなとか迷っている人にどっちでもいいんじゃないとそっけなく言えるタイプで相談しても結論しか言いません。

吉田茂氏とは、毒舌家気味の人

戦後政治の原型をつくり、今の日本の礎を築いたのが吉田茂氏です。
アメリカ軍を中心とする占領下で、外交官出身、新英米派の吉田氏が総理に就任したことは日本に有利に働きました。
日本復興をのために進めた「軽武装・経済優先」主義は、戦後保守政治の基盤を作った男だと言えるのです。

ワンマン宰相
ワンマン(和製英語)は「独裁者的に物事を進める」という意味で吉田総理を評する言葉として広がりました。
67歳で政界にデビューし、外交官時代に身につけた西欧流の哲学で、強烈に自己主張を通したため、「ワンマン宰相」と呼ばれていました。

戦後の経済復興
1945年(昭和20)の敗戦時、日本経済も壊滅的でした。インフレと食糧不足が国民経済を直撃し、鉱工業生産もどん底という八方塞がりの状態でした。吉田氏はアメリカに余剰農産物の援助を求め、重工業へ集中的に資金・労働力を投入する傾斜生産方式を導入し、超緊縮財政などで危機を乗り切ります。
そして朝鮮戦争の特需により経済復興へとつながっていくのです。

保守本流
吉田氏が登用する人材は、「吉田学校」と言われました。吉田茂の政策を受け継ぎ、保守政治の永続化を図った一群の政治家が、自分たちを「保守本流」と呼びます。
派閥政治が盛んになるにつれ、吉田直系の池田勇人派、大平正芳派や佐藤栄作派、田中角栄派が好んで使いました。逆に吉田政治とは距離を置いた三木武夫派や中曽根康弘派らは「保守傍流」とされました。

内閣総理大臣としての業績 

日本独立に向けて 第1次吉田内閣

1946年(昭和21)5月、吉田茂氏は総理に就任当時、敗戦から連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配は9ヶ月に及んでいます。

独立の鍵を握るのは米国で、対日講話は18ヶ月以内に完了すると発言します。さらに1947年(昭和22)3月にはマッカーサーGHQ最高司令官も「今や講和条約締結のための諸条件は熟している」と表明した。

同年7月11日、極東委員会を構成する11か国に対して対日予備講和会議の開催を提唱するが、ソ連(現ロシア)が反発し早期講和の道は閉ざされるのでした。

東西冷戦に巻き込まれる 第2次吉田内閣
1948年に日本周辺の極東情勢が大きく動きます。南北朝鮮という分断国家が成立。
ソ連(現ロシア)が原爆を保有していると公表、中華人民共和国が誕生します。

米国とソ連(現ロシア)が対立し、「東西冷戦」の構図がアジアにも広がります。
このことから米国の対日講和方針の流れが変化し(軍国主義をやめさせ、民主主義国家となることが優先)、米国は日本を共産主義と戦う最前線と位置づけ、経済的自立と再武装化を求め、日本が独立すると米軍が駐留できなくなることから、米国内で日本の独立に反対する声も上がり始めます。

サンフランシスコ講和条約1951年(昭和26)9月8日と日米安全保障条約

秘密外交で突破口を開く 第3次吉田内閣
1949年(昭和24)米国が対日講和の検討に入ったとの情報を得て、吉田総理は本格的に講和問題に取り組みます。

1950年(昭和25)まずは講和に対する日本側の考えを伝えるため、池田勇人大蔵大臣(外務大臣は吉田氏が兼務)を訪米させ、宮澤喜一蔵相秘書官と吉田氏側近の白洲次郎氏が同行。
表向きは財政・金融問題で米国との協議で、本当の目的は講和問題の協議でその目的は極秘とされていました。

吉田氏の後ろ盾となってきたマッカーサー最高司令官にも秘密にするほど慎重に行動しなければなりません。なぜなら、米国とGHQの思惑が一枚岩でないことを見抜き、その隙をつくという外交官時代に身につけた経験がこの重要な局面で生かされるのでした。

米国との会談で池田氏と宮沢氏は対日の窓口であるドッジ氏と対談。
吉田総理の考えを伝えます、その内容は・・・
①西側中心の多数講話を希望する
②日本の安全保障は米軍の駐留により実現したい
③米軍駐留は日本国憲法に違反しない
意表を突かれたドッジ氏でしたが、吉田氏の作戦が功を奏し、講話問題の責任者であるダレス氏に伝えられ、本格的に講話問題が動き始めるのでした。

講和問題の終結
この間に朝鮮戦争勃発、国内での講和に関する大論争が起こりますが、最終的にサンフランシスコで講和条約が調印されます。
調印したのは米英など西側諸国中心の49か国(日本を含む)。ソ連など3か国は会議に参加したものの調印は拒否しています。

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こうして1951年9月8日に調印され、同日日米安全保障条約も調印されました。(発効は共に1952年)

バカヤロー解散 短気は損気

吉田氏の短気な一面が自分を追い込んだのがこの出来事です。
吉田氏の場合本質(フィーリング)と考える(スピード)部分がプライドが非常に高く間違いを極端に嫌います、これが超短気な傾向につながっています。

これは1953年(昭和28)2月28日、衆院予算委員会で、質問者の西村栄一氏の追求が厳しいため、自席で呟いた「無礼だ」「バカヤロー」発言をマイクが拾い、西村氏が発言の撤回を求め、吉田氏も反省し撤回、西村氏も了承しました。

懲罰動議が右派である社会党の方針で提出され、解散へとの流れとなり、
バカヤロー解散とマスコミが名付けたものです。

この遠因には、第4時吉田内閣の当時池田勇人通産大臣の答弁が報道で誇張され「5人や10人の中小企業が倒産し、自殺するのはやむを得ない」と新聞に報道されます。この発言の責任を問われ、1952年(昭和27)11月28日池田氏は辞任に追い込まれます。
そこから予算委員会で吉田氏への追求が厳しくなり、あの発言へとつながったのです。

吉田氏の能力とビジネススタイル

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ロジックにおける吉田氏の能力は第1能力が応用力と第2能力が分析力であります。
合わせてビジネススタイルは改革的スタイル応用力はかなり強く発揮されます。また本質がW-なので吸収力も持ち合わせています。ここでは第1能力と第2能力に焦点を当てていきます。

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能力は場面特性という面を持っています。つまりある局面で発揮されるということです。
能力は「生まれ持って備わっている」潜在的な力を指し、先天的な力と定義しています。
また潜在的な能力を継続的に発揮、活用する中で才能へと昇華していくと考えています。
能力を発揮し続けるためには、その能力を生かせる場面を与えるということが重要になってくるのです。

応用力
応用力は今までにないものを考え出し、実現に向けて計画を立てるけれども、状況に応じて変化させていく力です。
創造力と企画力も兼ね備えています。

柔軟な発想ができるタイプで企画力に優れていて、モノやアイデアを考えだす想像力が逞しい能力です。

吉田氏の外交官での経験と周りのブレーンをうまく巻き込んで、日本の独立をいかに現実にするかを具体的な行動が、秘密外交です。
この時は東西冷戦が勃発し日本も巻き込まれていくという流れになり、先に書いた対日講和の方針が変わろうとし、独立が危ぶまれる中で、秘密外交を決行するしかないと判断し実際に実行に移します。

しかしここで吸収力も活かされていると見ることができます。
吸収力は事業や計画の前向きな推進のための力であり、行動力や瞬発力に優れている場合も多いので、事業などの実働部隊には欠かすことのできない能力でもあります。

分析力
分析力はある現象について判断を下し、いろいろな観点からいくつかの要素に分解して考える力です。
組織管理力と実務力も兼ね備えています。

分析力は自己管理と分析が伴い、計画性にも優れています。少し先を読むことができる能力でもあります。起こりうるあらゆる場面を想定しながら緻密な計画の立案が可能です。

秘密外交を決行するにあたって活かされたのがこの分析力です。
組織管理力を生かして、池田勇人大蔵大臣(外務大臣は吉田氏が兼務)を訪米させ、宮澤喜一蔵相秘書官と吉田氏側近の白洲次郎氏の3人を同行させ、
自らは外務大臣としての実務を発揮します。

このまま普通にやっていても、確実に独立には時間がかかると情勢や外交官時代の経験から判断したのです。

マッカーサーの副官のメモのよると「日本人でマッカーサー氏と面談した日本人は16人、そのうち15人は2・3回だが、吉田氏はマッカーサー最高司令官と76回も会見している」ことからも、

米国の事情を肌で感じていたことが判断材料となり、親日派のマッカーサー最高司令官にも秘密にするほど、独立はかなり困難であったことが伺えます。

1950年(昭和25)の朝鮮戦争の勃発からマッカーサー最高司令官から警察予備隊(7万5000人)の創設と海上保安庁の8000人増員を要求され、これには応じます。

講和交渉でダレス特使が求めた兵力32万5000人規模の再軍備には
・財政負担が増大し経済再建が困難
・憲法改正が必要
・国民は反戦機運が高い
・アジア諸国が再軍備には反対している
と抵抗します。

しかし、ダレスの姿勢は変わらなかったので、吉田氏は妥協案として警察予備隊を改編し11万人の「保安隊」を創設することで、ダレス氏を納得させるのです。

2つの能力が発揮されたことで、この秘密外交が成功し、講和条約・安保条約締結、日本の独立へと導くのでした。

スタイル
スタイルは個人の強みと生き方を表します。
前回の伊藤氏と同じ改革的スタイルです。

改革的スタイルのキーワードは好奇心・冒険心・浮世離れ・直感力が冴えるです。

枠にはまった生き方はしないというのが根底にあります。また浮世離れしているといのもこのスタイルの人の特徴です。
吉田氏は67歳で政界入りし、総理大臣の地位にまで上りつめたこと、枠にはまらない外交という点では、秘密外交の決行もそれに当たります。

吉田氏の中には日本の復興という大きな目的がありそれを成し遂げていることが改革的スタイルの醍醐味であります。
しかし目的を達成すると腑抜けたようになるのが特徴で、吉田氏のバカヤロー解散から第5次吉田内閣総辞職までもそのように吉田氏の力も尻すぼみになっていくのでした。

最後までお付き合いくださりありがとうございます。

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参考文献 池上彰と学ぶの日本の総理 第1号 吉田茂 小学館ウィークリー**

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