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感謝できないことほど情けないことはない

今年に入ってから相次いで地震が発生しています。

つい先日も愛媛・高知で震度6弱の地震が発生。
夜も遅い、もう寝ている人の方が多いであろう時間帯に突然の地震…

私はちょうどその時、noteに掲載しようと記事を書いていた最中でした。
関西に私は住んでいますが、こちらでも震度2ほどの揺れを感じ、
どこかで大きな地震が発生したのか?たまたま少し揺れたのか?
と思っていたらスマホの速報ニュース等で地震発生を知り、
揺れの大きさに、胸が締め付けられるような、何とも言えないモヤモヤとしたものを感じていました。

それ以前にも度々発生している地震
今年に入ってから本当に多い…

大きな地震が各地で起きる度に、現地で被災し、突然の危機に曝されることになった方々のことを思うと心が痛くなるのです。

私自身も29年前の阪神淡路大震災で被災し、家を失い、命の危機にも曝された経験をしているからこそ、当時の我が身に起きた時のことを鮮明に思い出すのです。

今まさにあの状況を体験している方々がいるのかと思うと、
どんなに大変なことだろう、と…

自分は、今はたまたま何事もなく、平穏に生活できており、
この度の地震からは遠い所にいますが、
そのことが申し訳なくも感じてしまうのです。

今何事もなく日々を過ごせている自分達の贅沢さ、この日常の有難さを改めて感じる機会でもあります。

私が被災した当時、その頃住んでいた家は震災でほとんど倒壊。
崩れた家の中に閉じ込められ、逃げることもできない状態にありました。

祖母は倒れてきたタンスが頭に直撃。
頭から出血して大怪我を負いました。
幸い、私と両親は無傷でしたが、
地震に驚き目が覚めた時に見た家の中はとんでもない状態でした。

床は抜け、階段は崩れ、家具はあちこち倒れている…
かろうじて自分達がいる場所は天井が崩れず保てている…
そして真っ暗…
何が起きたのかと放心状態。
危険な中にいるということだけはすぐに分かりました。

どんなに真っ暗の中でも、危機的状況にあると、人間は鮮明に目の前のものが見えるのです。
暗闇の中で私は当時飼っていた愛犬を見つけ出し、抱きかかえていました。そして、いつ、家全体が崩れて死ぬかも分からない。
死を覚悟した瞬間です。

玄関や窓を開けて逃げようとしても、どこも開きません。
古い家でしたので、瓦が全部落ちて玄関や窓をふさいでしまっていたのです。
中からは逃げようがありませんでした。

ですが、うちの家族だけが外に出てきていないと気付いた隣近所の方々が、瓦をかき分け、外から玄関と窓を割って助けてくれたのです。
当時のひどい状況では、レスキューなんてすぐには来れませんでしたし、
自分達で何とかするしかなかったのです。

近所の方々のおかげで助かったと、今でも感謝しています。

その思い出が強烈に残っているため、
毎日平穏に、普段通り過ごせるとは限らないと、
当時から思うようになりました。

明日、突然地震がまた起こるかもしれない…
生活が一変するかもしれない…
死にかけるような出来事があるかもしれない…

平穏に過ごせることが当たり前ではないのです。

「“明日死ぬかも”と思って、今日一日をどう生きるか、より良く生きるかを考えてみてください」
これは同業の後輩や、契約先の方々、相談に来られる方、知人に時々言っている言葉です。

一日一日何が起こるか分からないからこそ、毎日をしっかりと生きねばならぬと。

人間は残念なことに、普段通りの生活が続くと、
今の生活への感謝が薄らいでいくのです。

そしてちょっとした嫌なことがあっただけでも、文句ばかり言うようになり、
もっとこうしてほしい・もっと得したい、と得することや楽することばかりに気持ちや思考が向いていってしまうのです。

「もっと、もっと」と要求や欲求が増え、贅沢なことで悩みだすのです。

例えば
「子どもや、夫(もしくは妻)が思い通りに動いてくれない」とか
「もっとこうしてくれたら良いのに、気が利かないな」とか
「あの子は○○ができるのに、うちの子はできない」とか

そういう言葉が当たり前と思っている日常の中で、当たり前のことのように要望や不平不満として出てきやすくなるのです。

人間は悲しきかな欲深い生き物ですから
住むところと、食べるものと、生活できる程度のお金、
そしてある程度自分の時間があると、
「もっとこうなればいいのに」
「もっと良いことが起きてほしい」
「思い通りに事が進んでほしい」
そんなことばかり思うようになっていくのです。

大なり小なり生活の中で苦労やら、しんどいことは誰しもあるでしょうけれども、
身の危険のない安全な環境で、一応の安定した生活状況にいる限りは
必ず何かしら欲求や要求、不平不満が新たに出てくるのです。

これが人間の厄介なところなのです。

今年は元旦から能登半島地震や、その次には航空機事故…
その後も続く余震や、他の県でも続々と大きな地震が発生している日々…

ニュースで見る被災地や事故後の映像は、目を瞑りたくなるほどの痛ましい状況ばかり。

そんな状況を観ている中で、
「働くのはしんどいし、休みが多い方が良いけど、遊ぶお金は欲しい」
「(子ども、夫、妻、部下、友人等)が思い通りに動いてくれない」
「一足飛びで、良い仕事と、良いポジションと、高い給料が欲しい」
「SNSやYouTubeで楽して儲けたい、誰よりも目立ちたい」
なんてこと言っていたり、

福祉や世の中にある何かしらのサービスに甘えて、○○手当やら割引やら補助やら、とにかくお金の面で得しようとする者
些細なことでクレームを出し、自分の思い通りのサービスや手厚いサポートを得ようとする者がいたり、

そういった、欲深い言動を表に出してしまう人達を見ていると嘆かわしく思うのです。

あなたたちがそうしている時にも、今とてつもなく苦労している人、
生活の安全すら確保できずに、今日明日がどうなるかも分からず、
不安を募らせて要る人達がいるのですよ、と言いたくなることすらあります。

欲やら要望が次々と出てきて尽きないのが人間の性分であり
自分自身も気を付けなければそういったものに溺れてしまいかねません。
だからこそ、自分の今の状況と、世間的な状況と、
全人的な思いやりというものにフォーカスし、
「自分の考え方はこれで良いのか?」と立ち返らなければなりません。

先にも述べましたが、平穏に過ごせることが当たり前ではないのです。

いつ何が起きるか分からないのが人生です。

地震にかぎらず、事故や病気等、そういったものがいつ生じてくるか分かりません。
突然生活が一変すること、突然死ぬかもしれないこと、
誰しもそういったことが起こる可能性を持っているのです。

まずは生きていることに感謝。
安全な環境で、
程度は人それぞれでも、ひとまずは安定した生活を送れていること
子どもや家族が元気に目の前にいること
知人と話せること
仕事ができていること
病気せずに過ごせていること、等々…

言い出したらきりがないくらい、いつもの日常と言える日々を送れていることに有難さと幸せをもっと感じる必要があるのです。

人間の性として出てきてしまう欲の部分が顔を出した時こそ

自分の考え方、ふと思ってしまうこと、生活や仕事の中での言動が
感謝を忘れたものになっていないか
贅沢な考えになっていないか
わがままになっていないか

そういったことにすぐに気付き、考え巡らせるくらいでなければ
自立し自律した人間とは言えないでしょう。
欲や甘えにあっさりと身を寄せ、それを正当化して表に出しているようでは人としてまだまだなのです。
自分自身も日々反省するところです。

人の痛み…それが顔も名も知らない他人のことであっても、
誰かの状況や心情を想い、苦労や痛みを想像し感じ取りながら
自分や他者が幸せになるためにできることを見出し、
なおかつ常に謙虚な姿勢で日々を送ること、
些細なこと一つでも感謝の気持ちを持つこと、
そういったことが大事なのではないでしょうか。

言葉では言えても、なかなか難しいことではあります。
簡単にはできないからこそ考え続けなければならないのです。

欲が表に出てしまっていたとしても
ついつい不平不満が多くなってしまっても
思い通りにいかないことがあっても
謙虚な気持ちを持てずとも感謝する気持ちだけは持ちましょう。

感謝できない人は心が貧しく寂しい、残念な人です。
何においても当たり前だ、してもらって当然だ
自分の要求は通るべきであって、通らない現実や相手の方が悪い
そんなことばかり思って、感謝を忘れていることほど情けないものはありません。
そういう考えの人は「ごめんなさい」も言えない人です。
自分の考えの方が”当たり前”なのですから。

そんな情けない人になってはいけません。

人間、ちょっとくらいできないことや、苦手なこと、損していることがあっても良し。
今取り組んでいることに思うような結果が出せなくても良し。
そこに文句をつける必要なんて本来ないはずです。
高望みをする必要もありません。

がむしゃらに勉強でも仕事でも、何でも必死に頑張ってみて、
多少の苦労も失敗もしながら、
弱い自分の一部分も感じ取り、それに向き合いながら、
精一杯生きていくことが大事なのです。

苦労は人を強くします。
いつ死ぬか分からないからこそやりたいことに必死になれるのです。
いつ死ぬか分からないからこそ物事を楽しめるのです。

今生きていることに感謝しているからこそ思うことなのです。

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