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短編小説女将さんと大将の居酒屋始末記1 (1798字)

女将さんが、釣銭を間違えだしたのは半年位い前からだろうか。
御会計のトラブルで怒るお客に大将が出て丸く収める光景を何度か見た。
僕はこの居酒屋の常連で、入り口に近く、レジの脇で落ち着かない、皆が座りたがらない、一人椅子にいつも座っている、ここが僕の指定席だ。
この居酒屋に通いだしたのと、今の会社に勤めたのがほぼ同時だから、約10年になる。
この居酒屋は、女将さんも大将もアルバイトも、客も相手に深入りしない適当な距離感を保てるところが良い所で長く通っている所以でもある。
何が旨いとか、何が安いとかも無い、当たり前に旨いし、安い。特徴がある様で、無い、普通の駅前の居酒屋である。
僕は指定席で、レバーたれ一本と皮塩二本、熱燗コップ酒一杯を頼み一人でちびちびやるのが日課に成っている。
最近は女将さんが突き出しを持ってくると、
「いつもの」
と僕が言い。
「アイヨ、いつものね」
と女将が言い。注文はこれで済んでいる。
この日は、ここまでは一緒だった。
女将が、熱燗コップ酒と、おでんを持って来た。
「はい、おまたせ」
僕はビックリして、何も言えなかったが、改めて女将の顔を見ると、平気な顔で変わった様子はない、伝票を見ると熱燗とおでんとある。
「ありがとう」
と僕は思わず言ってしまった。その日僕は珍しく深酒をしてしまった、
そろそろ看板の時間となり、気づくと客は顔見知りの三人に成っていた。
厨房から、
「バカヤロー」
と怒鳴り声が聞こえてきて、皿の割れる音がし、女将が頬を押さえて店に逃げて来た。大将に殴られたのだろう。涙をぬぐい、そのままカウンター席にうつ伏せ座った。
「一生けんめいやってるのに、」
と小さく発して、しくしく泣きだした。
追うように大将が現れて、
「すみません、お見苦しい所を、お見せしてしまいました」
大将の目にも涙の流れた跡があった。
大将はそのまま店の暖簾を外して、残った僕を含めて四人の常連客に頭を下げた。四人の客は唖然としていたが、誰一人帰ろうとしなかった。
僕は
「どうしたんですか、とりあえず、大将、暴力はいけません」
と、やっと言った。
いつもの毅然とした態度で寡黙な大将が涙を堪えて
「こいつが、バカに成っちまった、何度言っても聞かない、忘れっちまう」
と絞り出すように言った。
スーツを着たサラリーマンらしい五十代位の男が
「認知症ですかね、実は、家の母もそれでして」
と切り出した。僕は、認知症対応のグループホームに勤めていると話した。
大学生風の若い女は、卒業したら老人福祉の方に就職したいと言った。
常連のそれぞれの客が、女将さんと大将の仲を取り持とうと話し出した。
僕の名は山田博、サラリーマンは齊藤富治、女子大生は高島亜由美と名乗った。突然起こった話し合いに大将は戸惑い
「申し訳ない、お客さんに、こんな話で、お恥ずかしい」
と恐縮しきりで、その後の言葉もなくじっと、うなだれていた。
突然当人の女将さんが立ち上がり、
「ごめんなさいね、お茶入れるね」
と、上りのお茶を各人に配り出した。
その女将さんの他人事の様な明るい振る舞いに、事の深刻さを女将以外の全員が、共有し考え込んだ。
いろいろの話が出た、医院での診察、CT、MRI検査、入院、薬の話、専門施設の話、女将引退の話、店の運営、転地療養、スポーツクラブ、女将との馴初めの話、店を出すまでの苦労話、など話は尽きなかった。店をたたむ話を大将が始めた時、突然、常連の四人目、四十代位の男がズボンのポケットから取り出した赤いストラップの着いた名札を取り出し見せて、静かな口調で、重い口を開けた。
「私は河合克之と申します、私は認知症患者です。」
その言葉が、一気に場を凍らせ、全員が驚き、聞き耳を立てた。
名札には、名前の下に、私は認知症です協力お願いします。とあった。
「今老人施設で周りの方々のご協力をもらって働いています。私が思うには、病気は少しずつ進行して忘れますが、本人にとって仕事をすることは、一番です、出来る事があるのは喜びです。仕事は喜びです。」
この話で全ての方向は決まった。
大将と常連客で女将に協力し店を続ける。盛り上げる。
さっきまで、他人事の様に、はしゃいでいた女将さんが、ハンカチを目頭に当てて、じっと聞いていた。
常連客の四人と大将は、どうやつてお客に理解してもらい、居酒屋を続けられるか話し出した。
                              次回へ


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