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三鷹の陸橋 第一回

晩秋のある晴れた真昼に、哲彦は三鷹駅に下りた。
およそ20年ぶりのことだ。
かつて駅の北に「三福商会」という模型屋があった。店の看板は走る電車の窓からもよく見えたから、覚えている人もあるかも知れない。
三福商会は当時としては珍しく中古の鉄道模型を扱っており、それを目当てに彼はときどき足を運んだ。
10年以上も続けたろうか。しかし、さしたる「掘出し物」に出くわす機会もないままに三福商会は店をたたんでしまった。
店の前には古めかしい跨線橋の階段があった。哲彦は戯れに幾度か昇ってみた。
か細い古レールを再用して組み立てた、貧弱でありふれた橋である。
ウエハースのような、胡麻煎餅のような、薄っぺらなきざはしを登りつめると、見渡す向こう、電車庫の留置線に電車の群れがぞろりとならんでいた。
ざっと100両はあったろう。中には国鉄時代から走っている古い形のもあった。
セコハン模型との出会いを求めて、いつもより財布を膨らませてわざわざ来たというのに、なあんだ、また今回も収穫なしか。空振り、肩透かし、がっかり。いや、なに無駄遣いせずに済んだのだからかえって良かったじゃないか。
負け惜しみ混じりのさまざまな「はずれの気分」に、跨線橋から見下ろす物憂い電車庫の眺めはよく似合った。
いつも電車庫の方ばかり見ていたから、哲彦には橋の反対側、東側の景色はほとんど記憶にない。

田村茂がこの橋で昭和23年2月に撮影した太宰治の写真はよく知られている。
撮影のわずか4か月後に太宰は近くの玉川上水で入水心中を遂げた。
作家の荒廃は抜き差しならぬところにまで迫っていたはずだが、肖像の写真は春浅い日の、うららかな日向ぼっこの長閑さを湛えている。
するとこの写真は「道化」が写真家を欺きおおせた最後の「成果」だったと見做すこともできようか。
翌24年7月のある夜、この電車庫から突然無人の電車が走り出し、駅前で脱線転覆して多くの死傷者を出した。
「国鉄三大ミステリー」のひとつ、いわゆる三鷹事件である。
跨線橋はなんにも言わないけれど、太宰の悲惨も、三鷹事件の企みの一部始終もすべて見ている。知っている。

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