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三鷹の陸橋 第十三回

眼下に見下ろす電車の形式名を彼は知らない。
汽車ポッポが好きだなどと、鉄道模型が趣味だなどと、口先では言うものの、その実質が痛ましいほど瘦せ衰えていることを、そうと知りながら、もう20年以上も彼は認めずにきた。
―ねえ、パパの遊びは何なの?鉄道模型だって言ってたけれど、走らせもしないし、作ってもいないじゃないか。
子供が、まだ幼かったころ、哲彦に投げかけた問いが彼の胸を抉る。

眼下の車両の屋根上に思いがけない発見があった。テニスボールがひとつ、パンタグラフの近くにポンと載っていたのである。
一体どうやってボールは電車の屋根に載ることができたのか。
周囲には屋根の突起や電気配管が巡らされているから、電車が走り出しても、ボールはちょっとやそっとじゃ振り落とされそうにない。
風来坊のボールは無賃乗車をきめこんで、車庫に帰る都度、また幾たびか陸橋の下をくぐるのかも知れない。

―今日も富士山が見えたら良いのだけれど。
ガイドの声が耳朶に残る。言葉遣い、抑揚、声の張りと美しさ。
それらをずいぶん昔のことのように彼は思いだした。
あいにく富士の姿は霞んで見えない。
薄曇りの昼下がりの空には刷毛で刷いたような雲が流れているばかりだった。

三鷹の電車庫は昭和20年2月に空襲を受けた。
太宰が三鷹の小さな家で「津軽」を書きあげた七か月後である。
敗戦後昭和23年2月に撮影された太宰の写真の背景には、復興半ばの荒れはてた省線電車の姿が写っている。
陸橋が爆弾の直撃を受けなかったとは考えにくい。
この貧弱な橋をひとつ壊せば、中央線は三鷹駅以西で運行できなくなり、山梨方面から首都への糧道は断たれ、入庫中の電車も稼働できなくなり、町の西側は南北に分断される。破壊の効果は決して小さくはない。
そうだ。
だとすればこの橋もまた、ロンビエン橋同様、破壊された後、急場しのぎの復旧工事が施されたのに違いない。
その痕跡は度重なる更新工事の末に、今や確かめることができないけれど、陸橋には、渡れない期間があったのではないか。
しまった。
今の今まで陸橋を空襲に結び付けて思い描くことが哲彦にはできなかった。
三鷹の空襲について、ガイドに質問しそびれた迂闊さを彼は悔やんだ。

哲彦は幼いころ、父親から幾度か、学徒動員で三鷹の中島飛行機の工場に通ったと聞かされた。
父親は堀越技師への敬慕を熱を込めて語った。
零戦を父が作っていた。
哲彦は、少年時代の父を誇らしく思った。
サイパン島が「陥落」すると、米軍は本州の大半を空襲の射程圏に収めた。
昭和19年11月に始まったB29による東京空襲の最初の標的が、ほかならぬこの中島飛行機武蔵製作所だった。
東京の命運はこの先、敵国の思うまま、されるがままになった。


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