駒田 順

役に立つ。それは私の狙いと無縁です。 拙い言の葉にご感想、共振、ご批評をくださる人がも…

駒田 順

役に立つ。それは私の狙いと無縁です。 拙い言の葉にご感想、共振、ご批評をくださる人がもしあったならば、望外のよろこびです。

最近の記事

三鷹の陸橋 第七回

ー「Melos」の歌いだしは「じゃちぼぎゃくのおー」です。 歌詞を見なければ何のことやら分かりません。 作詞はケンモチヒデフミ。彼もまた「走れメロス」を読んだとき、「邪知暴虐」という言葉に強い印象を受けたのだろうと思いました。 ーさて、すると、ではしかし、太宰は一体どこでこんな言葉を見知ったのか。私の関心はそちらに移りました。 太宰はある時この言葉に出会い、のちに自分の小説に書いたのでしょう。 誰の何という文章に「邪智暴虐」と記されていたか。その水脈を辿れたら嬉しい。 路上の

    • 三鷹の陸橋 第十五回(最終回)

      焼け跡は、しんとしていた。 時折方々で、キョーだの、ギャーだのと、けだものめいた叫びがあがる。 人のすがた形をして横たわる、目の前の黒焦げの物体をおそるおそる検分して、それが肉親だと認めたならば、声は人語になるはずもない。 ひとしきり喚き、哭く。慟哭が、嗚咽がひとしきり続き、やがて鎮まる。 親父は、姉は、生きているのか。 哲彦の父に知る術はない。 編み上げ靴のつま先で、敗戦処理の投手のように力なく灰を掻き分けると、まだ暖かい灰の中から、見覚えのある茶碗のかけらが現れた。 炎

      • 三鷹の陸橋 第十四回

        東京が空襲の射程圏に入ったとき、真っ先に狙われたのはもちろん軍需施設だった。 哲彦の父は毎日そこに駆り出されていた。 三鷹の陸橋は駅の西にある。 2月の爆撃で山梨方面との往来が閉ざされたとしても、中央・総武線の電車は、都区内から三鷹駅までは走り、折り返すことができた。 昭和20年3月9日、哲彦の父はいつものように出勤した。 その日は夜勤だったから、工場で夜を明かし、自宅には帰らなかった。 そうして10日未明のいわゆる「東京大空襲」の災禍を免れた。 ターゲットから外れた麹町で

        • 三鷹の陸橋 第十三回

          眼下に見下ろす電車の形式名を彼は知らない。 汽車ポッポが好きだなどと、鉄道模型が趣味だなどと、口先では言うものの、その実質が痛ましいほど瘦せ衰えていることを、そうと知りながら、もう20年以上も彼は認めずにきた。 ―ねえ、パパの遊びは何なの?鉄道模型だって言ってたけれど、走らせもしないし、作ってもいないじゃないか。 子供が、まだ幼かったころ、哲彦に投げかけた問いが彼の胸を抉る。 眼下の車両の屋根上に思いがけない発見があった。テニスボールがひとつ、パンタグラフの近くにポンと載っ

        三鷹の陸橋 第七回

          三鷹の陸橋 第十二回

          ―びっくりするようなことを、教えて頂きましたわ。 ―玉川上水の水嵩が増したら、水音を聴きにお邪魔するつもりです。 ところで、「津軽」の結びの一文を覚えていますか? 一瞬かんがえてその人は答えた。 ―あ、「では、失敬。」でしたかしら。 ―そうです、そうです。正解。命あらばまた他日。では、失敬。 哲彦は名のらず、その人の名前も訊ねなかった。交わした会話の濃密さからみれば不自然なくらいあっけない別れ方だった。 「命あらばまた他日」。手を握るでもなく、ラインを交換するでもなく、左手

          三鷹の陸橋 第十二回

          三鷹の陸橋 第十一回

          哲彦は頷き、話頭を転じた。 ―「りくばし」。そう呼ぶのですね。 良いことを聞きました。やはり現地は踏むものだ。 忘れずにおいて、折あらば「三鷹人」のふりをしましょう。 山を見る角度といえば「津軽」にはこうあります。 哲彦は再び青空文庫を開き、次の一節を音読した。 【「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真

          三鷹の陸橋 第十一回

          三鷹の陸橋 第十回

          ―いま貴女は、さっき出会ったばかりの変てこな男の「心中のプロポーズ」を拒絶しました。当然のことです。 でもね、針の先をガラスのレンズの表面がつるんと撥ね除けるようにではなく、不埒な申し出の真意をはかりかねて、躊躇いながらそれを確かめようと、ほんの一瞬、正面から向き合って下さった。 「太宰ごっこ」に付き合ってくださった。 私は嬉しかった。貴女はなんて可愛らしいのでしょう。 哲彦は逸る言葉に自ら驚き、笑顔になって、一拍置いてゆっくりと歩き始めた。 ―そう、心中なんて、馴染んだ男

          三鷹の陸橋 第十回

          三鷹の陸橋 第九回

          ―百日紅を撫でるのは、もうその辺にしておきませんか。 ―あ、そうですわね。あまり撫で続けていると、薄紅の花が濃いピンクになっ… そう言いかけると、その人の頬にも不意に紅が差した。 哲彦の耳元に俯いて、声を落として、 ―このお向かいの路地にね、太宰の家はあったのです。 ―「三鷹の此の小さい家」ですね。 ―はい。でも今はね、そこまで入っては駄目なの。 その人は初めて哲彦に敬語を解いて、秘密めかしく囁いた。 哲彦は、百日紅の幹を離れて、指を開いたままのその人の掌に自分の掌を近づけて

          三鷹の陸橋 第九回

          三鷹の陸橋 第八回

          修治と富栄が入水したという斜面は、水の流れが雑木の枝葉に遮られていて見ることができない。 ガイドは哲彦に声をかけるでもなく、ゆっくり次の路地へと赴き、目で追う彼はそれに従った。 彼女は寂びた古い家の塀の前に立ち、かつて太宰宅に植えられていて今はここに移植されたという百日紅の幹を撫ではじめた。 ―何色の花をつけるのです。濃いピンクの暑苦しい奴なら、あれは僕は御免だな。 誰も哲彦の趣味なぞ尋ねてはいない。 初めて敬語を捨てて、彼はノンシャランとした口調で話しかけた。 ―白いのもあ

          三鷹の陸橋 第八回

          三鷹の陸橋 第七回

          ー「Melos」の歌いだしは「じゃちぼぎゃくのおー」です。 いったいどこの国の言葉やら、何のことやら、歌詞を見なければさっぱり分かりません。 作詞はケンモチヒデフミという人。彼もまた「走れメロス」を読んだとき、おそらく「邪知暴虐」という言葉に強い印象を受けたのでしょう。 ーさて、すると、ではしかし、太宰は一体どこでこんな言葉を見知ったのか。私の関心はそちらに移りました。 太宰はある時この言葉に出会い、のちに自分の小説の中に書きつけたのでしょう。 誰の何という文章に「邪智暴虐」

          三鷹の陸橋 第七回

          三鷹の陸橋 第六回

          ―私は「津軽」の上機嫌なところが好きです。 昭和19年にこんな作品を書けたのは、太宰の心根がおよそ現実に密着しない浮世離れしたものだった証かもしれません。 同時に「津軽」はそのかけがえない賜物でもあります。 さてところで、彼は掉尾に「私は虚飾を行はなかつた。読者をだましはしなかつた」などと、いけしゃあしゃあと書きました。 小説の真実はさておき、二重のホラ吹き、根っからのホラ吹きですよ。 私は現実にはそんな人に近づきたくはありません。 思いがけず迸り出た愛憎二筋の青臭い太宰観

          三鷹の陸橋 第六回

          三鷹の陸橋 第五回

          哲彦は、みずから進んで「太宰治文学サロン」に赴いたのだ。 だから、ガイドの問いを不躾だと感じた自分の方がおかしい、と思い直した。 太宰は実生活では、弱さと優しさを逆手にとり、多くの人を傷つけ、愚行の巻き添えにし、あまつさえ幾人かを死に追いやりさえした。 今ならば病理学的に人格障害を疑われても仕方ない人間である。 士大夫、まともな社会人であれば、そんな作家のファンだと公言するのは憚られて然るべき人物だ。 ガイドはそうした機微を心得た、知性ある人に思えた。 一番好きな作品は、とい

          三鷹の陸橋 第五回

          三鷹の陸橋 第四回

          「en voyage…」、「旅に出ると…」。 その先には旅人一人ひとりのさまざまな出会いと出来事が、期待とともに広がっている。 大望や挑戦もあれば、安息や慰撫もあるだろう。 フランス国鉄の惹句は巧みで心憎かった。 哲彦は、自分が繰り返したひとり旅を、家長の重圧をリセットする便法だったと考えている。 地方名士の六男だった太宰が、旅に、酒に、女たちに、薬物に、人生それ自体からの逃避を試みた悲惨とは根本的に違うのだと思っている。 「三鷹の此の小さい家」の模型は、哲彦にはさしたる出来

          三鷹の陸橋 第四回

          三鷹の陸橋 第三回

          掲示物の年譜を見ると、「津軽」を書いたのはこの家である。 【「ね、なぜ旅に出るの?」 「苦しいからさ。」】 昭和19年に書かれた「津軽」のこの会話の一節を、平成の勤め人として汲々として過ごした哲彦は幾度となく反芻してきた。 子供がまだ小さかった頃、彼は家族を残してひとり海外に旅する衝動を抑えかねる幾年かを重ねた。 行先はどこでもよかった。 溶岩が足元直下にドロドロとうごめく火山島だったり。 川の上に設えた便所の直下で魚が嬉々としてバシャバシャ音を立てるジャングルだったり。 隣

          三鷹の陸橋 第三回

          三鷹の陸橋 第一回

          晩秋のある晴れた真昼に、哲彦は三鷹駅に下りた。 およそ20年ぶりのことだ。 かつて駅の北に「三福商会」という模型屋があった。店の看板は走る電車の窓からもよく見えたから、覚えている人もあるかも知れない。 三福商会は当時としては珍しく中古の鉄道模型を扱っており、それを目当てに彼はときどき足を運んだ。 10年以上も続けたろうか。しかし、さしたる「掘出し物」に出くわす機会もないままに三福商会は店をたたんでしまった。 店の前には古めかしい跨線橋の階段があった。哲彦は戯れに幾度か昇ってみ

          三鷹の陸橋 第一回

          三鷹の陸橋 第二回

          昭和の初めに建てられたこの橋は現在の耐震基準を満たしていない。 紆余曲折を経て取り壊すことになったそうだ。 解体される橋ならば、渡り納めをしたい。哲彦は平日の昼間に、スーツの上着を放っぽりだしたまま、サラリーマンが昼食に出るような格好で三鷹駅に下りたった。 馴染みのない街の昼飯時、ささやかな盛り場を右往左往していたら偶然「太宰治文学サロン」の前に行きついた。 「太宰治」も「文学」も「サロン」も悉く恥ずかしい。目を伏せて通り過ぎたい。哲彦は、はたちをもう40年ほど前に通り過ぎた

          三鷹の陸橋 第二回