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三鷹の陸橋 第二回

昭和の初めに建てられたこの橋は現在の耐震基準を満たしていない。
紆余曲折を経て取り壊すことになったそうだ。
解体される橋ならば、渡り納めをしたい。哲彦は平日の昼間に、スーツの上着を放っぽりだしたまま、サラリーマンが昼食に出るような格好で三鷹駅に下りたった。
馴染みのない街の昼飯時、ささやかな盛り場を右往左往していたら偶然「太宰治文学サロン」の前に行きついた。
「太宰治」も「文学」も「サロン」も悉く恥ずかしい。目を伏せて通り過ぎたい。哲彦は、はたちをもう40年ほど前に通り過ぎた男だ。
しかし跨線橋が消え去れば、もうこの町を訪ねる機会もあるまい。
これを一期と覚悟を決めて、収蔵品のくさぐさを、しけじけと眺めまわしてやろうと入り口の扉を排した。
館内に入ると、ほどなく彼と同年輩と思われる女性スタッフが哲彦に声をかけた。
時候はずれの、蒸し暑いほどの陽気だったが、晩秋の日差しはやはり低く弱い。窓から横ざまに入る光がその人のシルエットを柔らかに浮き立たせた。
通った鼻筋に、哲彦は遠い昔、教養課程で一緒だった同級生の面影を重ね合わせたが、その友人の名前は思い出せなかった。
―初めてでいらっしゃいますか?
「サロン」は常連客に支えられている場所なのかも知れない。
ええ、と答えると幾葉かのリーフレットを彼は受け取った。
四角い部屋の、壁二面に及ぶ書棚にびっしりと太宰の著書の背表紙が並んでいる。
ひとわたり眺めたが、彼の知らない版元から出た著書が随分あった。
次いで、ガラスケースに納められた、屋根を取り払った家屋の模型が彼の目を引いた。
模型を見ると、太宰が棲んだ家の間取りは、六畳、四畳半、三畳のたった三間である。
昭和20年5月25日の空襲で焼け出された内田百閒が、同居人と二人で暮らした麴町の家は三畳三間だったという。それよりは広いけれど。太宰の家族は三人の子を抱えた五人暮らしだったはずである。
青森県に現存する彼の生家、観光地として名高い「斜陽館」と比べれば、生家の鶏小屋ほどの狭さだ。
果たしてキャプションには「三鷹の此の小さい家」とあった。
そうか、やはりこの狭さこそが一番の特徴なのかと哲彦は思った。
引っ越してきた昭和14年当時、太宰には三鷹村の借家でさえも、この程度が精いっぱいだったのだろう。


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