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三鷹の陸橋 第十回

―いま貴女は、さっき出会ったばかりの変てこな男の「心中のプロポーズ」を拒絶しました。当然のことです。
でもね、針の先をガラスのレンズの表面がつるんと撥ね除けるようにではなく、不埒な申し出の真意をはかりかねて、躊躇いながらそれを確かめようと、ほんの一瞬、正面から向き合って下さった。
「太宰ごっこ」に付き合ってくださった。
私は嬉しかった。貴女はなんて可愛らしいのでしょう。

哲彦は逸る言葉に自ら驚き、笑顔になって、一拍置いてゆっくりと歩き始めた。
―そう、心中なんて、馴染んだ男女ならば案外ものの弾みであっさり跳び越えてしまう一線なのかも知れません。
例えば三島事件とはわけが違う。
心中ってだらしないですね。
そんなこと、僕はしないな。
さるにても入水現場が、妻子と暮らす自宅の目と鼻の先だったのは意外でした。
本当に死ぬつもりがあったのかどうか。
生きることに不真面目だった男が、どうして死のうとする企てに真面目でありえたでしょうか。
―びっくりするようなことばかり。矢継ぎ早に仰って。お返事ができませんわ。

やがて駅が見えてきた。
―ああ、見えてきました。シラクスの塔楼ならぬ三鷹の駅が。じきにお別れです。
そうだ、跨線橋についてご存知のことがあれば教えていただけませんか?
―あの跨線橋は幼い時分から「陸橋(りくばし)」と呼んでいました。この辺の人たちはみなそう言っているのです。
私は登山が趣味なものですから、ずいぶん色んな土地から富士を見てきましたけれど、一番綺麗で一番好きな富士は、りくばしから眺める富士山ですわ。
―そのりくばしが間もなく、なくなってしまう。
―今日も富士山が見えたら良いのだけれど。
―りくばしは、貴女がここから見る富士が一番綺麗だとずっと思ってきたことを、きっと覚えています。
―橋が人の心を覚えていると?
―ええ。そう思えば、たとい橋が姿を消しても、橋はなくならない。貴女の心の中にずっと生き続けます。
―それがりくばしの最上の保存法かも知れませんわね。
―人と同じですよ。人は焼かれて灰になっても、残された人の心のうちにずっと生き続けるではありませんか。
体を失くしたくらいでは、人は死なない。それが本当だと思うのです。
―そうですわね。私の中にも、もうとうに亡くなったのに、なくならない人が何人かはいますわ。

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