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三鷹の陸橋 第十四回

東京が空襲の射程圏に入ったとき、真っ先に狙われたのはもちろん軍需施設だった。
哲彦の父は毎日そこに駆り出されていた。
三鷹の陸橋は駅の西にある。
2月の爆撃で山梨方面との往来が閉ざされたとしても、中央・総武線の電車は、都区内から三鷹駅までは走り、折り返すことができた。
昭和20年3月9日、哲彦の父はいつものように出勤した。
その日は夜勤だったから、工場で夜を明かし、自宅には帰らなかった。
そうして10日未明のいわゆる「東京大空襲」の災禍を免れた。

ターゲットから外れた麹町で、この空襲を体験した内田百閒は、
「段々に火の手大きく、又近くなりて往来昼の如し」
「二時三十五分漸く空襲警報解除」
と「東京焼尽」に書いた。

東京大空襲の死者は約10万人。広島原爆に並ぶ規模である。
冬空の東京で逃げ惑い、たっぷり数時間をかけてなぶり殺しにされた10万人の恐怖、無念はいかばかりだったろう。
敵を降伏させる、その目的のために、そんな惨い仕打ちが本当に必要だったのだろうか。

哲彦は今も毎日、地球大の「大馬鹿鍋」からスウプを掬い、飯を食らう。
馬鹿は哲彦自身だ。
鍋の中の悲惨を見て見ぬふりをし、旨いだの不味いだのと言う。あるいは言わずにおく。
馬鹿はまた、地球の人すべてだ。
戦争ほど馬鹿げたものは滅多にあるまい。
ほんのはずみで誰しもが、否応なく、あっけなくこの馬鹿げたからくりに絡めとられて、加担を強いられた挙句、理由も分からぬままに殺し、殺される。

その野蛮を忘れないために、哲彦は時折、煤祓いのように、おまじないのように、ここで10万人、そこで10万人と途方もない馬鹿げた犠牲者の数をあらためずにはいられないのである。
「馬鹿げた」を哲彦はabsurde、アプスュルドという言葉で思い浮かべる。
戦後のある時期、これを「不条理」と呼ぶのが流行った。
まるで他人事のようだ。
absurdeが自身に内在する危機だと気づかぬ馬鹿さ加減に、哲彦は目を伏せる。
わが身を安全な場所に置いて弄ぶ言葉を、彼は唾棄すべき誤訳と断じた。

陸橋を背に、哲彦の父は東に向かう電車で自宅に急いだ。
はたち前だった。関東大震災は知らない。「帝都」は一夜にして変わり果て、初めて目の当たりにする廃墟の光景に彼は息をのんだ。
焼け出されたばかりの、あちこちでくすぶり続けている焦げた臭いが、戦時下のおんぼろ電車の車体の隙間から、びゅうびゅう吹き込んでくる。
帰り着くと、生家ははたして一面の焼け野原の中で灰燼に帰していた。
表面が真っ黒に焼け焦げた死体が、そこここにごろごろと転がっている。
屍を跨ぎ越し、哲彦の父はようよう自宅と思しきあたりにたどりついた。

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