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三鷹の陸橋 第十五回(最終回)

焼け跡は、しんとしていた。
時折方々で、キョーだの、ギャーだのと、けだものめいた叫びがあがる。
人のすがた形をして横たわる、目の前の黒焦げの物体をおそるおそる検分して、それが肉親だと認めたならば、声は人語になるはずもない。
ひとしきり喚き、哭く。慟哭が、嗚咽がひとしきり続き、やがて鎮まる。

親父は、姉は、生きているのか。
哲彦の父に知る術はない。
編み上げ靴のつま先で、敗戦処理の投手のように力なく灰を掻き分けると、まだ暖かい灰の中から、見覚えのある茶碗のかけらが現れた。
炎に炙られ変色してはいるが、紛れもない彼のご飯茶碗だ。ほんの二日前、姉が炊いた芋ばかりの薄い雑炊をよそってかき込んだ茶碗。
明日、いや今日自分が食う飯はどこにあるのか。餓死のお守り代わりに、彼はそのかけらを手の甲で拭い、大切にポケットにしまった。

父親が十代で絶命していたら、哲彦が生を享けることはなかった。
今までに幾度となく思い浮かべてきた命の連鎖の奇妙な手触りだ。

倒壊の危険から予防的に取り壊す橋の上に哲彦は立っている。
そんな場所にいては駄目だ。
しかし今ここに激震はなく、焼夷弾をばら撒く爆撃機の編隊も、匕首のように飛び出す艦載機の機銃掃射もなく、空に富士の姿はなく、傍らに心中したい女もいない。
三福商会のあった場所を思い出そうとしたが、もう見当がつかなかった。

哲彦は近頃、どうかすると、自分の年齢を思い出せなくなる時がある。
幼時の、青春・朱夏・白秋の、或いは未生の記憶が哲彦の中には無数に併存している。
それらのひとつびとつが、ひょんな拍子にゆらりと水面に浮かび上がり、身を屈めて覗き込めばそれがすなわち彼の「今、ここ」になる。

いつでも愛せる。いつでも愛される。
眺めせしまに年ふりた哲彦は、いまだ家族を養うことに齷齪している。
たった今、放棄しても構わない。
その「自由」こそが却って、彼を依怙地にする。
梅雨で嵩を増した上水の奔流に、ともすれば持っていかれそうになる草履の、
その草履の鼻緒に引っかけた玉鹿石のように突っ張らかって、女房子供を食わせることをやめない。
血まみれの足指も踝も速い流れに洗われていれば、きれいなままに見える。
「生」がせめて「責務」と引き裂かれぬようにと、哲彦は心の中で赤い腰紐をしっかりと括り直す。
腰紐は彼を「死」ではなく「非死」に繋ぎとめる。
太宰なんかとは違う。
その思いこみこそが辛うじて彼を支える。
しかし、太宰は破滅の向こうに、仮令忘れられたとしても消えはしない、いくつかの言葉の細工物を残したではないか。
それに代わるものが哲彦にあるか。

てろん、とした陸橋の半ばに立ち尽くし、哲彦には自分が、浮遊感ばかりがたちまさる、偶然の、かりそめの、影法師のように思いなされる。

もう30年越しの付き合いじゃないか。
知らない、とは言わせない。

りくばしはそれを知っている。
                             ―了―


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