見出し画像

三鷹の陸橋 第四回

「en voyage…」、「旅に出ると…」。
その先には旅人一人ひとりのさまざまな出会いと出来事が、期待とともに広がっている。
大望や挑戦もあれば、安息や慰撫もあるだろう。
フランス国鉄の惹句は巧みで心憎かった。
哲彦は、自分が繰り返したひとり旅を、家長の重圧をリセットする便法だったと考えている。
地方名士の六男だった太宰が、旅に、酒に、女たちに、薬物に、人生それ自体からの逃避を試みた悲惨とは根本的に違うのだと思っている。
「三鷹の此の小さい家」の模型は、哲彦にはさしたる出来栄えとは思えない。
彼自身が取り組めば、もっとディテール豊かな、情愛細やかな作品を仕上げる自信があった。
屈みこんで目を落としているうちに、記憶の泡沫が心の器の基底からふつふつと浮かび上がり、連想はあらぬかたに走り、そのことにすっかり気をとられていたから、哲彦は傍から見れば展示品に長いこと目を凝らす熱心な来館者と映ったとしても不思議はなかった。
ふと顔をあげると、リーフレットをくれた女性とまた目が合った。
心得顔に軽く頷いて彼女は歩み寄ってきた。
何か言わねばとの思いに駆られ、哲彦は身構え、計算し、家屋の模型を指さして、
―この旧居の跡地は今どうなっていますか?
と尋ねた。
「旧居」は咄嗟の口から出た誤用である。太宰はこの家から引っ越すことがなかった。
「三鷹の此の小さな家」は広壮な「斜陽館」に呱々の声を挙げた津島修治の終の棲家となった。
―個人宅になっています。
―ここからは遠いですか?
―いいえ、それほどでも。そこの角を右に折れてしばらく行くと…。あっ、あの今お時間はございますかしら?
―ええ、構いません。
―では、ついでがありますから、そこまでご一緒に参りましょう。
俄か仕立ての一対一のガイドツアーが成立した。

観光協会の職員だというその女性は、道すがらこう尋ねた。
―太宰の作品で一番お好きなのは何でしょう?
哲彦は驚いた。
初対面早々に一番好きな作品を訊くものだろうか。
答えは感受性の恥部を晒すことになりかねない。太宰とはそういう作家ではないか。
ガイドの質問を哲彦は一瞬ぶしつけだと思った。
もっとも、初見の風俗嬢が目を合わせた30秒後に、パンティを脱ぎながらお好きなプレイは?といきなり問うたとしても驚くには当たらない。それは互いの「経済」に叶う合理的な質問だからだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?