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三鷹の陸橋 第九回

―百日紅を撫でるのは、もうその辺にしておきませんか。
―あ、そうですわね。あまり撫で続けていると、薄紅の花が濃いピンクになっ…
そう言いかけると、その人の頬にも不意に紅が差した。
哲彦の耳元に俯いて、声を落として、
―このお向かいの路地にね、太宰の家はあったのです。
―「三鷹の此の小さい家」ですね。
―はい。でも今はね、そこまで入っては駄目なの。
その人は初めて哲彦に敬語を解いて、秘密めかしく囁いた。
哲彦は、百日紅の幹を離れて、指を開いたままのその人の掌に自分の掌を近づけて、触れるともなく触れずともなく、宙に彷徨わせた。
―そう、入っては駄目なところは色々あります。町にも、人にも。
眼差しを見返して彼はそう答えた。
―これからどうされますの?
―例の跨線橋がじき取り壊されるでしょう?だからその渡り納めに。
―まあ。
―私はもともと汽車ポッポが好きなのです。
―汽車ポッポが。ではもう駅の方に戻りましょうか。
―あ、ちょっと待ってください。
僕はまだ上水の流れを見ていない。ちょっと橋の上に立ってみたい。
二人は近くの橋の上に立ち、肩を並べて背を丸くして眼下の景色を窺い見た。晩秋の淡い木漏れ日が背中に斑を散らした。
玉川上水は、案の定、ちり芥ばかりが目障りな、詰まらない、ほんのささやかな流れに過ぎなかった。
―子供の頃にはもっと流量が豊かだったのだけれど。これでは心中はできませんわね。
心中はできませんわね、という言葉にそそのかされて、哲彦はちょっとした悪戯を思いついた。
企みはうまくいくだろうか。
―無理でしょうね。でも水嵩が増して滔々と、或いは轟々と流れる日がきたならば、できるかもしれない、願いは叶うかも知れません。
そうしたら、もう一度ここにこうして、貴女、ご一緒して下さいませんか?
哲彦は真顔でそう言い、そのひとの肩に軽く手を添え、顔を近づけ、瞳をまともに覗き込んだ。
その刹那、おんなの視線が宙に泳いだ。
哲彦の不意打ちに、そのひとの眼差しには狼狽える気配が走り、覆うすべもなかった。
―(!)。まあ、悪いご冗談を。
哲彦は視線を逸らさず、彼女の弾む息が鎮まるのを待った。

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