せっちー

小学校教諭を経て、現在中学校教諭。教育と道徳についての研究をしています。教育のこと、道…

せっちー

小学校教諭を経て、現在中学校教諭。教育と道徳についての研究をしています。教育のこと、道徳のこと、哲学のこと、日常で感じたことを綴ります。始めたばかりですが、少しでもお役に立てる記事を書けるようがんばります。

最近の記事

#163_ネガティブ感情を掘り下げる

事情があって、いくつかのセミナーの事務局をやっています。 今回は、あるオンラインセミナーの事務局をしたときの、ネガティブ感情と出会ったときのお話です。 講師の先生は、日頃からお世話になっている、恩のある方で、その人のために動くことに何の苦痛も感じない、そう思っていました。 でも今日、なぜか、その思いを覆すような情動が沸き起こり、その感情を自分ではうまく処理できませんでした。 なぜだかわからなかったので、今読んでいる書籍を頼りに、その思いを掘り下げていきたいと思います。 わ

    • #161_押し返される経験の不足が生むもの

      しばらく投稿が滞ってしまいました。 物理的にも精神的にも余裕がなかったことと 途切れてしまったので「もう、続けなくてもいいかな・・・。」という甘え。 自分にカツを入れて続けようと思います。 応援してくださっているみなさまに感謝いたします。 「叱らない」が子どもを苦しめる(藪下遊・髙坂康雅/ちくまプリマー新書)を読んでいます。 ベストセラーになっているので、知っている方も多いのではないでしょうか。 まだ途中ですが、所感を述べていこうと思います。 「子どもの気持ちを推し量ろう

      • #161_中1ギャップとコロナ禍

        今の中1は、いわゆるギャングエイジをコロナ禍によって奪われた子どもたちである。 わたしの所感として 男子はベタベタとくっつきたがる。 女子は人との距離を置いて接する。 こんな傾向があるように思う。 コロナ禍は、人と接することの有り難さを感じる機会をつくった。 と同時に 健全な成長には、人と接するべき時期が必要であることも浮き彫りにした。 失われた3年間を、自力では取り戻せない子。 人の目が心配でしかたない。 注目されるのは嫌だが、誰かに見ていてほしい。 そんな子たちが

        • #160_発問と質問って何が違うの?

          今年度は、研究主任を担当している。 今年度の研究テーマは「道徳」 今日は「発問づくり」に特化した講座を行った。 まずはここから↓↓ この問い自体が、実は難しい。 ちょっと噛み砕くと、こういうこと。 具体例で考える。 この捉えは「問いのデザイン(安斎・塩瀬、2020)」をもとにした考え。 ここから考えると ①は質問 ②は発問 ③は問い となる。 ③の「問い」の最大の特徴は、Qに「変数」が隠れていること。 「人のパフォーマンス」「最大限発揮する」のそれぞれの言葉の捉えは、

        #163_ネガティブ感情を掘り下げる

          #159_贈与と言語ゲームがつくり出す人間関係を探る

          「人は簡単には理解し合うことはできない。」 これは、国語科の有名教材「ごんぎつね」を貫くテーマである。 なぜ人は、簡単には理解し合うことができないのだろうか。 今回も引き続き、「世界は贈与でできている」(近内悠太・著)の主張をもとに論じてみたいと思う。 筆者はこのように主張している。 他者が使っている言葉の意味と、自分が使っている言葉の意味に齟齬がある。 これは自明の理であるはずなのに、多くのコミュニケーションはそれを見落としがちである。 多くの人たちは「自分の言語ゲー

          #159_贈与と言語ゲームがつくり出す人間関係を探る

          #158_贈与と親子関係を分析する

          今読んでいるのは「世界は贈与でできている」(近内悠太・2020) 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 ここで興味深い、贈与と交換の法則、呪い、そして相手との関係性について、自分の人間関係をもとに分析してみたい。 筆者は 「わたしたちは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることはできない」(p.22)と述べる。 他者からのプレゼントがその価値以上の力を発揮するのは、自分に対する相手からの思いが、プレゼントを通して透けて見えるときだ。 その相手が好きであれ

          #158_贈与と親子関係を分析する

          #157_対面セミナーやります

          29日に、関西学院初等部の宗實直樹先生、群馬県の瀬戸山、千葉大附属小の中谷佳子先生と、セミナーを実施いたします。 6月29日(土)13:30~16:50 前橋市東公民館 第一会議室 参加費2500円(講師の交通費に充てさせていただきます。) 13:30~13:40 開会・オープニングセッション 13:40~14:10 瀬戸山先生講座 14:10~15:10 宗實先生講座 15:10~15:20 休憩 15:20~16:05 鼎談(宗實先生・瀬戸山先生・中谷先生) 16:0

          #157_対面セミナーやります

          #156_道徳科の問い・社会科の問い

          最近、ご縁があって社会科について深く学び機会が多い。 今まで発問は道徳科を中心に考えていたが、教科教育での発問と比較するとまた、学びが多く興味深い。 特に感じているのは、問いの種類だ。 何度も出しているこのイラストの例を挙げても、違いが浮き彫りになる。 社会科の発問における「4W」「1H」は「目に見えるもの」を答える問いである。 「誰が生産しているのかな。」「いつ変わったのかな。」 など、考えるきっかけを得る問いであることが多い。 道徳科の「4W」「1H」は、考えるき

          #156_道徳科の問い・社会科の問い

          #155_道徳通信のねらい

          勤務校では研修主任と道徳主任を兼任していて、今年度の研修は道徳。 こんなにやりやすい年はないので、今年度は研修通信と称して、道徳通信を発行することにした。 第一号にはこのようなことを書いた。 まだジョブの段階なので、自己開示をしつつ、あまり突出したことは書かないように配慮した。 (やんわりと、小中学校当時の先生方の授業を批判しているのはちょっと失敗したかもしれない、、、。) 続きます。 「気持ちを問う発問」からの脱却を目指します。 週に一回くらい発行できればいいな、と

          #155_道徳通信のねらい

          #154_道徳科を学ぶきっかけエピソード

          「道徳科の授業っておもんないよなー。」これはわたしが小学校の頃から教師3年目くらいまでもっていた道徳授業観です。 教科教育は学習内容がはっきりしているけれど、道徳科は学習内容が難しくて曖昧。当たり前のこと教えてどうするの?なんて思っていました。 初任の頃(小学校)は「思いやりの授業」と称して、当時流行っていたプロジェクトアドベンチャーのアクティビティやエンカウンターばかりやり、それが管理職にばれて(当時は週案簿の提出があり、バカ正直に全部「2-(2) 思いやり」って書いてい

          #154_道徳科を学ぶきっかけエピソード

          #153_道徳科における生活と価値の往還とは何か

          教科教育と同様、道徳教育でも、生活と価値(学習内容)の往還により、思考が深まる。 これは具体と抽象の往還であると言い換えてもよい。 ここで述べる「価値」とは、誰もが納得する、確かにこれは普遍的原理であるという、人間として生きる上で、また人と共に生活を営む上で欠かせないものである。 一方で、「生活」はわたしたちの日常である。 そしてその生活の中ではよく、価値と価値がぶつかる場面に遭遇する。 例えば ・規則正しい生活は大切だが、宿題が終わらず夜更かしをしてしまう ・相手のこ

          #153_道徳科における生活と価値の往還とは何か

          #152_教科教育の質と集団の質を相関的に観る

          久しぶりに赤坂先生のオンラインセミナーに参加させていただいた。 相変わらず圧巻の理論と説得力だったが、今回は新たに発見したことは、恐ろしいほどのチャネリング力の高さだった。 今まで何度か赤坂先生のご講演をきかせていただいたが、今回は「教科教育から派生した個別最適な学び」の在り方を学ぶ場という意識がものすごく高いスライド構成となっていた。 教科教育で求められている、主体的・対話的で深い学びの捉えからスタートし、そのような学びを促進させる土台としての集団の在り方、学級経営の型、

          #152_教科教育の質と集団の質を相関的に観る

          #151_子どもの学びを支える教師の指導力

          子どもは自ら学ぶ存在だ。 昔から、よくそのように言われる。 一方で「這いまわる経験主義」と揶揄されるように、子どもに任せっぱなしでは質の高い学びが保証されるとは言い難い。 そこで大切になってくるのが、子どもの学びを支える教師の指導性である。 新宮弘識氏の論考をもとに考えてみる。 1.授業の実際(1)導入での問い返し 「内村選手はなぜ、世界一美しい体操ができるようになったと思うか。」という問いに対し 「毎日努力したから。」 「あきらめないで練習したから。」 等という答え

          #151_子どもの学びを支える教師の指導力

          #150_「Why?」型発問の変化球②

          前回に引き続き、具体的場面で「Why?」型発問の変化球について考えてみる。 (1)「When?」も考えやすい 「いつ?」と時を問う発問も比較的答えやすい発問だ。 道徳科で扱う教材のほとんどは、時系列で書かれたもの。 どんなお話だった?と問うよりも、主人公はいつ〇〇したの?等と問う方が、話の内容を追いやすくなる。 一方で、こちらの意図が明確で、やや誘導的になってしまうことは否めない。 子ども自身を問える者にするための発問として、子どもが活用できるようにしたい。 (2)「

          #150_「Why?」型発問の変化球②

          #149_「Why?」型発問の変化球①

          考えやすい問い方変換についての投稿がちょっとだけバズった。 具体的場面で「Why?」型発問の変化球について考えてみたい。 「Why?」以外の「4W」「1H」で問う (1)一番考えやすいのは「Which?」型 幼い子どもに尋ねるとき、一番答えやすいのは「どっち?」である。 〇✕クイズが盛り上がるのは、どちらか一方を選べばよいという手軽さと、どちらかが必ず正解であるという答えを導き出す敷居の低さにある。 「好きなものは何ですか?」と問うより、「ビールとカクテル、どちらが好

          #149_「Why?」型発問の変化球①

          #148_低学年の道徳授業を考える

          6年振りに、筑波大附属小の公開研に参加させていただいた。 加藤先生の授業を参観し、自分が今まで学んできたことも踏まえて気づいたことをいくつか羅列する。 (1)選択肢を示す 低学年はまだメタ認知が低く、主観的・感覚的に現象を捉える時期だと言われている。 だからこそ、「どんな気持ち?」と相手の気持ちを問う発問が多くなる・・・のが一般的な道徳授業だった。 しかし、加藤先生は授業で「どんな気持ち?」とはほぼ問わない。 大抵は「どっち?(2択)」「どれ?(3~5択)」(Which)

          #148_低学年の道徳授業を考える