#159_贈与と言語ゲームがつくり出す人間関係を探る

「人は簡単には理解し合うことはできない。」
これは、国語科の有名教材「ごんぎつね」を貫くテーマである。
なぜ人は、簡単には理解し合うことができないのだろうか。

今回も引き続き、「世界は贈与でできている」(近内悠太・著)の主張をもとに論じてみたいと思う。

筆者はこのように主張している。

他者と共に生きるとは、言語ゲームを一緒に作っていくことなのです。

p.136

他者が使っている言葉の意味と、自分が使っている言葉の意味に齟齬がある。
これは自明の理であるはずなのに、多くのコミュニケーションはそれを見落としがちである。
多くの人たちは「自分の言語ゲーム」の中に、他者を引き入れようとする。
そこで起こる諍いは、親子、夫婦、恋人、友人・・・限りがない。

相手の言語ゲームを探ろうとすること。
これが「他者理解」であると筆者は主張しているのである。

コミュニケーションが上手い人は二通りいると思っている。
一つは、相手を自分の言語ゲームに取り込むことがうまい人。
もう一つは、相手の言語ゲームを探り、その構造を理解するのがうまい人。

いわゆるカリスマ性が高い人は前者であり、自分の世界に相手を浸らせて心地よくしたり、気持ちを鼓舞したりする力に長けている。
ただ、これによって相手の概念崩しはできても、相手の成長という点では疑問が残る。

子ども理解がうまい人は後者である。
相手の世界を探り、相手の言語ゲームの構造をみて、それをつぶさに掬い上げて自分の言語ゲームと交錯させる。
カウンセリングの要素も含まれている。

教師はどちらの力も必要だと思う。

子どもたちの中には、言語ゲームが見えにくい子もいる。
その子のロジックがわからない。
矛盾して見える。
そのような子ほど、そのロジックを解いてくれる人と出会えるかどうかで、生きやすさが変わると思っている。

教師において、どちらの力も低い人はどうなるか。
自分だけの言語ゲームのなかで堂々巡りをする。
当然、子どもからは理解されず、同僚の理解を得ることも苦しい。
本人の中に明確にある言語ゲームが理解できないので、一見自分の主張だけを繰り返し伝えているように見える。

わたしの知人で、「あの人ともっと仲良くなりたい」思いが叶わなかったために、ネットストーカー化して見える人がいる。
彼女はその人たちと仲良くなりたい、その人たちにとっての一番の理解者でありたいと願い、多くの「贈与」を施した。
贈与を受け取った彼らは、彼らなりの返礼をした。(この時点で「交換の論理」が成り立っているように見える。)

しかし、彼女の欲望はそれでは満たされなかった。

彼らと繋がりある人たちと自分が置かれている境遇をネットを通して比較し、「自分はここまで尽くしているのに思いを返してくれない」という苛立ちを、メールという形でぶつけるようになったのだ。

思いのずれの根源は「わたしたちは永遠に続く、誰よりも強い”愛”という絆で結ばれている」という思い込みであるように思う。
そんな関係は、存在しない。
たとえ、親子関係であっても。

もっと突き詰めて考えると、「贈与したら必ず返礼がある」、いや「一度の贈与は永続的な返礼を生み出す」という、極めて自己中心的な妄想だ。
それは対等な関係ではない。
主従関係だ。
彼女は、贈与を通して「彼らの行動規制と永続的な服従」を求めているように見えるのだ。

これは恐らく、リアルな場では生まれない感情だ。
ネットという相手が見えない世界、相手の表情も空気感もわからない世界だからこそ生まれた、歪んだ欲望であるように捉えている。

ここまできてしまったら、相互理解は到底難しい。
わたしはただ、身近な人たちの平穏と無事、安定した関係を祈るだけである。

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