#148_低学年の道徳授業を考える

6年振りに、筑波大附属小の公開研に参加させていただいた。
加藤先生の授業を参観し、自分が今まで学んできたことも踏まえて気づいたことをいくつか羅列する。


(1)選択肢を示す

低学年はまだメタ認知が低く、主観的・感覚的に現象を捉える時期だと言われている。
だからこそ、「どんな気持ち?」と相手の気持ちを問う発問が多くなる・・・のが一般的な道徳授業だった。
しかし、加藤先生は授業で「どんな気持ち?」とはほぼ問わない。
大抵は「どっち?(2択)」「どれ?(3~5択)」(Which)、または「誰?」(Who)である。

答えを導き出しやすい問い方の工夫として、宗實(2021)は「なぜ?」を変換する方法を述べている。

左下が答えやすい問い、右上が答えにくい問いである。
Why?は最も答えにくく、子ども自身の思考力が問われる問いだ。

考えることに慣れている、迷いながら応えのない問いを考えること自体の楽しさを味わえている子どもたちであれば、いきなり「なぜ?」と問うのもよい。

しかし、考えることに慣れていない、新しいことを自ら生み出す経験のない子どもたちは、選択肢を示すことで断然考えやすくなる。
今回参観した授業では、「Which」型の問いが3回、「Who」型は2回出てきた。

さらに面白いのは、子どもたちは選択しながら新たな選択肢を付け加えていくこと。
AとBを示すことで、A'やB'が出てくるのだ。
本授業ではCに当たる発言はわからなかったが、選択肢を示すことで新たな考えが生まれる事実が面白い。

(2)子どもたちから出てきた話題を考えるきっかけに

これも加藤道徳の醍醐味の一つ。
子どもから出てきた生活の例をもとに発想を膨らませる。
今回の授業では「のびのびと過ごす」ことと「背泳ぎで泳ぐ」だった。

のびのびと過ごすことはいいこと?という問いに対する子どもたちの答えが「いいことと悪いことがある!」だった。
既に鍛えられている子どもたちだ。

のびのびにもルールがある、という子どもたち。
病気でゴロゴロしてるのはいいけど、普段からずっとゴロゴロしてるのはダメ。
このあたりは、家庭での躾の側面が垣間見える。

ここで出てきたのが「背泳ぎ」。
背泳ぎはいいのびのびだと言うのだ。
これに対して加藤先生は「背泳ぎはのびのびできるの?できないの?」と問い返す。
子どもたちは意見の意見は分かれた。
「のびのび」の捉えが、
①「(手が伸びていて)のびのびできる」の子ども(眼に見える世界での捉え)
②「(泳ぎ方や型があるから)のびのびできる(泳げる)」の子ども(目に見える世界での捉え)
③「(泳ぎ方や型があり、水をかいたあとは手が下がるから)のびのびできない」の子ども(目に見える世界での捉え)
④「(泳ぎ方や型があるから)のびのびできない」の子ども(型があって窮屈だという目に見えない世界での捉え)
少なくとも、この4パターンの子どもがいた。
(もっといたかもしれない。)

このあたりをどこまで整理するか、また敢えて曖昧にするかでそのあとの授業に変化があると感じた。
限られた授業時間のなかでの時間配分が授業では一番難しい。

(3)教師が子どもたちとの対話を楽しむ

低学年の子どもたちの会話は、聞いているだけで面白い。
会話に脈絡がない、急に話題が飛ぶ、と思ったら、本質的なことを話してくる。
だからこそ、その会話を教師が「楽しむ」こと。
それ以上に、本質に近づく会話の端を掴んで膨らませることが、低学年道徳の勘所だと思った。

一方で、発話内容をすぐ忘れてしまうこと(これが感覚で話している証なのだが)も低学年の大きな特徴。
だからこそ、ノートも含めた記録の意味は大きい。

最後に

かくいうわたしも、今日の授業を通して何を学んだかは、このように言語化しないと消え去ってしまうことを痛感した。
もやもやの原因が何か、この授業の意味は何か、書くことによってかなりクリアになった。

授業の腕は授業でしか磨けない。
それは道徳授業に限らず、すべての授業で鍛えることができる技術だ。
道徳に限らず、理科の授業も含め全ての場面で、自分自身と子どもたちを鍛えていきたい。


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