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「小さき思いやり」メディア論
メディアをずっと考えている。マックルハーンのメディアを出発点に、人に何かを運ぶ「乗り物」としてのメディアの意義を考えている。
マックルハーンによれば、メディアに乗せるコンテンツという見方よりも、メディアがコンテンツを形作るという抜き身の視点が大事だという。
これは目から鱗で、応用の効く概念提示ではあるけど、そこからもう一歩前に行かなければならない脅迫観念がある。
今のメディアに足りないもの。
いいかげんなメディア
メディアを仕事に使うとなるとイイカゲンでは困るけど、遊びであれば徹底的にイイカゲンであってもいい。
徹底的にイイカゲンなメディア。ここでのメディアとは、マスメディアのことではなく、あくまで「情報の媒体」という広義でのメディアのこと。
なので、フェイクニュースは、ここでいうイイカゲンなメディアではない。これは、中身の情報自体がイイカゲンなのであって、媒体は既存のSNS。まあ、それほど徹底的にイイ
「生命」とは非常識的連続的偶然の産物
「生命をデザインする」ことができる時代だと勘違いされることがありますが、それは間違いです。
言えるとすれば「生物システムを贋作する」です。
何が違うかって?!
生命というのは偶然で作られています。進化の過程で起きた「たまたま」が、信じられない連続的に起きて生命が生まれました。
多くの偶然の賜物である生命を模範に、それに似た膜か殻で覆われた自己組織化された化学反応のネットワークを作ったとして
メディアGを通してみる存在論 #04
Gは、目には見えないほど小さい。
しかし見えないのは小さいからだけではなく、Gは自分を形作っているものだから、ともいえる。自己中心にあるG。
自分自身が、最も見えないものである。
Gは、自分の外にもある。我々の周りにある、我々が気になる存在のほぼ全てがGをもつ。
自分がGをもっていることを思い知らされるのは、これら他存在のGと、自分Gが直接な関わり合いを持ったとき。
その直接的な関わり合
Gメディア論 #03
Gは存在そのものである。Gの一断片だけでは、存在しているとはいえない。しかしGが多少欠けていても、存在は保たれる。その境目は何であろうか。
存在と非存在のあいだ。それを決めているのはGの有り様。
でも、不完全なGでも、存在はなんとか成り立つ。
存在のちょっと手前の非存在をうみだすGの不完全さと、非存在に転げ落ちるギリギリの状態の存在を生み出すGの不完全さの間には、どんな違いがあるのだろうか。
Gメディア論 #02
Gはシステムを作れます。Gは変化もします。 なので、Gがつくるシステムは変化をします。
Gは作るシステムは、キョウカイを持ちます。 このキョウカイの内側と外側はゆるやかにつながっています。 そのため、外側の影響を、Gがつくるシステムはゆるやかに受けます。
その影響が、G自身の変化も促していきます。
安定すぎるシステムをつくると、