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いじめの復讐は、結果で。

筆者は高校卒業くらいまでいじめられていた。

勉強も運動もできないし、特技もなければイケメンでもなかった。

別にそれでいい。放っておいてくれればいいし、必要があれば普通に接してくれればいい。

筆者は筆者が好きなように生きていたい。

なのに、いつもどうでも良い他人から雑に扱われたり無駄に興味を持たれて攻撃されたりする。

別にこちらは他人と比べて張り合って生きているわけじゃないのに。

そもそも、筆者は身の回りの人と戦う価値観の人が理解できない。

その場の誰もが何者でもないし、ちょっとの差をもって叩くこと自体が馬鹿馬鹿しい。


中学校の修学旅行では、「好きな人同士」で行動班を作れという指示が飛び、人気のない筆者と数名が余り、クラス全員の前でどの班が誰を引き取るのかという債務引受のような取引の客体として扱われた公開処刑を今でも覚えている。宿泊施設では胸ぐらをつかまれて罵声を浴びせられたりもした。

その後垢ぬけようとテニスサークルに入るも、全然できなくて最後まで壁打ちをやっていた。合宿では、同様にイケてなくてこっち側の気持ちわかってくれてる感じだと思っていた先輩と二人になった時に「お前に話しかけられると同類だと思われる」と言われた。その先輩の名前が「素直(すなお)」だったのが今考えると笑える。

親戚との付き合いでは、筆者君が進学するなら●●大学がちょうどいいんじゃないかな?と言われ、調べてみたらめちゃくちゃ偏差値が低い大学だった。

具体的なエピソードはいくらでもあるのだが、不幸自慢もこれくらいにしておく。

あの頃からHiphopが好きだった。何も悪いことをしていないのに、馬鹿にされたり危害を加えられたりすることに対する強い怒りを表現するカルチャーが筆者の心に沁みた。

そして筆者の怒りももう限界に達していた。

追いつめられて自殺したくなったこともあったけど、デパスとかマイスリーとか飲みながら、戦う決意をした。

他人と比べてどうだとかクソどうでもいいけど、もうこれは一発勝って黙らせないとずっとこれが続くんだな、と。

筆者がヒツジだから食われるんだ。自分がオオカミになって、ヒツジを食わないで生きていけばいいんだ、と。

他責思考では一生このままだ。自分が被害者であることを主張し、周囲の責任を問うても誰も耳を傾けない。

自分に起こることは不幸な事故や病気を除いて自分の責任。嫌なやつをコントロールする責任も自分にある。

自分が変わるしかないのだ。

もちろんすべての人に認められることはできない。ただ、うるさい人の大半を黙らせることができれば、人生はだいぶラクになるはずだ。


これが筆者の復讐の始まりである。


まずは学生の3指標「高学歴」・「イケてる」・「彼女が美人」からハックすることにした。

大学は親戚の長男が二浪したところに現役で入った。これで、親戚は一発で黙ったし、世間的にも評価された。

次に、性格を改造した。改造後に出会った人の筆者に対する印象が、「チャラい」・「遊んでる」・「騙されそう」のように変わり、イメージコントロールに成功した。

また、高校までは女子と話すことすらまともにできなかったが、ピンポイントは難しいものの、狙ったターゲット層を落とせるようになった。もともと美人が好きなので、願ったり叶ったりであった。

人生が好転したのはわかるけど、いじめてきた人に何も仕返しできてないじゃないか!と思うかもしれないが、もう復讐は済んでいるのだ。

確かに、実際彼らを見返したかどうかと言えば、そうではない場合が多いだろう。彼らも成長していじめが良くなかったと理解しているかもしれないし、時間も経って距離も離れて、既に筆者がどうなろうとどうでもよくなっているだろう。

しかし、いじめてきた人がこの期に及んでこちらをディスって来た場合、彼ら側がダサいですねという状況ができていればぶちのめしたのと同じだ。

やりすぎて評価の沼にハマるという失態もあったが、評価を味方につけることで、明らかに人生の邪魔は減った。

大学時代は人生のピークかな?と思えるくらい楽しく過ごせた。亡くなってしまったが親友もできた。


しかし、これでハッピーエンドというわけにはいかず、社会に出てからもまたどうでもよい他人から攻撃されることになる。

今度は社会人の3指標、「地位」・「収入/資産」・「奥さんが美人」というところで勝手に戦いを挑まれる。

学歴があれば社会人になっても通用すると未だに思っている人が多いように思うが、学歴は稼ぐための取っ掛りにはなれど、学歴では稼げない。

周囲の価値観の変化は高校から大学へ移行した時の変化よりも大きな変化があったように思う。

本質的にはこんな価値観に付き合いたい気持ちは毛頭ない。

まだやってんのかよ、そんなの放っておけよとも思ったが、他者の攻撃に耐えながら生きるというのはストレスでしかない。

ゼロスタートとは言わないものの、まためんどくさいゲームに付き合わされることに辟易したが、これが最後と思って頑張ることにした。


最初に入社した証券会社では、会社のビジネスに共感することができず、ひどく成果が出なかったので、2年程度で辞める決断をした。不況で転職も難しく、お金も持っていない状況で移行できそうな先として公認会計士になることにしたが、退社直前に支店長から激詰めされた挙句、「お前なんかが受かるはずがない」と言われた。


ここでまた親戚が、「石の上にも三年だ、今会社を辞めたらお前は終わる」、「知り合いに会計士がいるが、何年も勉強しないと受からない」というようなご親切なアドバイスを受けた。

結果的には一発合格し、親戚は更に静かになった。ついでに支店長が購読している業界誌でインタビューを受ける機会があり、静かにお知らせが彼のお手元に届くことになった。

意図せずも資格を目指すことになり、その合格により一定の信用と収入を得られるようになったが、もともと会計や監査に興味があったわけではなく、10年近く働いても変わらなかったので、立ち止まって考えた。

もうそろそろ好きなように生きてもいいんじゃないかな、と。

筆者の目的は自分が好きなように生きることだ。

本質的な目的は、誰に縛られることもなく文章を書いたり、音楽を作ったり、学校で学んだり、家族の時間を過ごしたりしたいだけだ。

もう、いじめてくる人はほとんどいない。邪魔をする人は減った。

監査法人の人間の考え方になっていたので、未経験の事業領域に転職することに抵抗がなかったわけではないが、興味のある分野に転職した。

そして、その後にその分野で法人を設立し、自ら事業を行うことになった。

幸いにして現時点で十分な収入も得られているし、仕事もプライベートも好きなこともできているし、過去にいじめられたことはもう気にならないし、今いじめてくる人もほとんどいない。

この先どうなるかはわからないけれど、学生であれ社会人であれ、コミュニティに所属しながら生きることになるので、結果を示して黙らせる戦略は有効だったのではないかと思う。


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