*30 最後のイタリア、最後のウィーン
イタリア・ミラノへの旅
一人、荷物を絡げて部屋を出た私を太陽光が容赦なく焼く。所謂猛暑日と呼ばれるだけの権利を得たこの日のドイツの気候は、最後の休暇を迎えた私の背中を押す様でもあり、またこれから旅先で私を迎え撃つ過酷な気候の予行演習の様でもあった。
電車に乗ってミュンヘンを目指す。猛暑日であろうとドイツの電車の中の空調は冷涼にされていなかったから、いつまでも腕や首に汗が溢れて堪らなかった。そうして出発が三十分以上遅れたのも相変わらずで殆辟易した。
二時間電車に揺られミュンヘンに着いたのは夜の十時前。どことなく心が浮ついて落ち着かなかったのは、私が夜分の外出を苦手としているという事に起因するばかりでなく、私が過ごしたミュンヘンでの五年間の彼是が走馬灯の様に浮かんでそれで少し気が動転していた様に思われた。酸い思い出、甘い思い出、苦い思い出の何れに関わらず、過去の出来事を思い出そうとすると眩暈を覚えるのが私であった。それだからミュンヘン最大のバス停留所に到着した時などは、過去この停留所から発った旅行の数々も蘇り、妙な感傷が更に増幅してしまったから、それを掻き消し飲み下すが如くハンバーガーを頬張った。
深夜〇時に長距離バスはミラノへ向けて出発した。この窮屈さも懐かしかった。バスの運転手がイタリア語を喋っていて、ああ本当にイタリアへ単身行くんだなぁと思いつつ、それでいてミラノへ旅行をする実感についてはなかなか湧かなかった。友人が急遽来れなくなった事により生まれた、言葉の面や地理の面においての不安が夜の暗さと過去の記憶に煽られて脳と心を支配してしまったのがいけなかった。加えて慣れない時間まで起きている疲労感の影響もあっただろう、それら全てを払拭すべく私はバスが出発するなり早々目を瞑った。
スイスでバスは二度ほど停まり、その度に目こそ覚ましたがまた直ぐに眠り込み、結局早朝六時半にバスがミラノへ着く迄殆ど眠り通した。体の凝り方から満足な睡眠がとれていなかった事は明白であったが、それでも眠ったには眠ったから御陰で昨晩の不安感はそれほど残っていなかった。
友人の妹がミラノに住んでいて、彼自身頻くミラノへ行っている様であったから、私は只二人での最後の旅行を楽しめたら名所も名物も二の次だと、余り入念に観光名所等を調べて来なかった。何処に行くか、何をするかよりも誰と、と言うところが大事であった旅行なだけに、その誰かを失った以上、何処と何が大事になり、そこをまるで段取っていなかった私は、一先ずミラノの中心地であるドゥオーモを目指した。
世界最大級の大聖堂と言うだけあって、確かに迫力が物凄かった。大聖堂と聞いて、ウィーンのシュテファン大聖堂やケルンの大聖堂、身近な所で言えばドイツはレーゲンスブルクの大聖堂なんかは詳細に脳内に思い描けるが、それらと比べても、或いは比べ物にならない迫力があった。朝七時過ぎにも関わらずドゥオーモ前の広場では観光客と見られる人々が記念撮影に明け暮れていた。
南イタリア出身の友人が「イタリアは北と南で随分違う。南は仕事も無ければ交通規制も無く、代わりにマフィアが沢山いるが、北は観光地も多く、比較的上品だ」と言う様に、ミラノの街には気品が溢れていた。それもイタリア特有の下町人情の雰囲気を持った上で気品があった。特にドゥオーモからスカラ座へ抜けるまでのガッレリアの雰囲気は堪らなかった。まだ早朝で店も開き切らない内から既に大変美しいアーケードは、却って賑わっていない時間帯であったからあれほど凛と美しかったのかもしれない。
ガッレリアを抜けスカラ座と対峙し、それからミラノ市街を散策しがてら朝食を求めてカフェを探した。そうして偶々見付けたバスティアネッロというカフェも、ガッレリアに負けず劣らず品が在った。そこでイタリアを代表する菓子であるスフォリアテッラを食べた。
然し天気が良かった。例によって猛暑日であった。一度ホテルによって荷物を預けた私は、ミラノの考古学博物館へ向かった。ミラノと聞いて誰しもが思い浮かべる様な場所では無いだろうが、反対に私の場合は考古学博物館はミラノにもあるだろうかという風に探って、それであったから行った。興味深い品々が展示されていたのは間違いないが、如何せん説明書きがイタリア語と英語ばかりであったから博物館を出る頃には随分脳味噌が疲れていた。
昼にはフォカッチャを食べた。感動的な美味しさであった。数年前、南イタリアはプーリア州にある通称「パンの村」として知られるアルタムーラへ行った時、人生で初めてフォカッチャを食べて頬を落とし腰を抜かした事があるのだがその時の感動が思い起こされた。
それからまた地図を開いて、近くの観光名所へ足を伸ばす。スフォルツェスコ城なるものがあったからそこへ行ってみた。建物の構造も様式もまるで違うが何となくパリのルーブル美術館を思い出した。そんな私に近付いて来てミサンガを押し売ろうとする輩がここにもいた。私はNo,Noと払い除けた。それで引き下がるあたり、パリで私の腕に無理苦理ミサンガを巻いて財布の中身を引き抜いて行った集団が如何に性質が悪かったのか再確認した。
陽に照らされた景色は美しく、イタリアらしい街並みにも大変満足していたが、暑さに加え、地図を頻りに見なければならないのが次第に億劫になって来た。そもそも地図など開かず景色だけを見て歩けたらそれに越した事は無い、寧ろそうして歩きたいと願う私なのであるが、如何せん極度の方向音痴であるからなかなか叶わない。一度地図を確認したなり閉じ、頭の中に地図を思い起こしてそれ通りに歩いている筈でも、気付けば延々見当違いな方向へ歩いている事が頻く起こる。兎に角、そうした作業が面倒になった私は一度ホテルへ戻った。そうして気付けば二時間近く眠っていた。 夜になって腹が減った。私はホテルから歩いて十分ほどの所にあったピッツェリアを目指した。
店に入る。ボナセーラと挨拶をする。席に着くと、ピッツァ・ナポリとサラダとビールを頼んだ。ミュンヘンに居た頃、とあるイタリア料理店でピッツァ・ナポリを初めて食べた時の衝撃が忘れられず、それ以来どこのピッツェリアへ行ってもまず第一候補にピッツァ・ナポリが浮かぶ。トマトソースにチーズ、バジル、アンチョビと言う至ってシンプルなピッツァであるが、下手な店ではアンチョビが辛すぎたりする。シンプルであるからこそ、美味しいが良くわかる。
先ずサラダが運ばれてきた。バルサミコ酢とオリーブオイルを掛ける。近頃は家でもバルサミコ酢でサラダを食うのに凝っている。トマトを口へ運ぶ。矢張りイタリアのトマトである。ミニトマトでありながら通常のトマトの如き食べ応えである。トマトが好物である私の人生においてイタリアのトマトを知れた経験は全く掛け替えない事であり、ドイツで暮らした経験の価値を構成する素材の内の堂々たる一つである。以前オーストリアのリンツで偶々入ったイタリア料理店でも同様のトマトが出された時、ああこの店は本物のイタリア料理店なのだろう、と美食家でもあるまい、恐れ多くも胸の内でそんな事を考えていた。
少ししてピッツァ・ナポリが運ばれてきた。全く求めていた味であった。素晴らしかった。これで八ユーロである。文句の付けようも無い。食後にはエスプレッソを戴き、大満足で店を出た。
***
夜行バスで朝方にミラノへ着いてから殆ど一日中動いて夜中の一時にベッドに潜り込んだ私は、まあ二日目の朝はゆっくり起きようという積でいたが、結局六時には目を覚ました。いつもの癖である。
何と特筆するようでもなかった朝食を済ますと、九時頃になって私はホテルを出てミラノ中央駅を目指した。バスで来た私にとって玄関口でも無かった中央駅であるが、なんでも美しいんだと聞いたから一先ず行ってみる事にした。丁度駅近辺に目を付けておいたパン屋もあった。
なるほど中央駅は立派であった。博物館と言われれば鵜呑みにするほど立派な構えをしていた。駅前に出ると怪しげな集団がそれぞれ木陰で談合をしている辺りはミュンヘンともパリともちっとも変わらなかった。
イタリアは一般的に余りパンのイメージが無い様に思われる。パネトーネやパンドーロ、マリトッツォやチャバッタあたりが有名ではあるが、ドイツにおけるパンとの距離感に慣れた所為かどうしても未だにイタリアとパンの関係が然程親密に思われない。例の「パンの村」アルタムーラについてはまた話が変わって来るが、この時ミラノの街を歩いていても思っているほどパン屋に鉢合わせなかった。これはパリやプラハにも言えた。同時にドイツは矢張りパン屋の数が多いんだとも改めて言えた。
またフォカッチャを食った。今度は玉ねぎのフォカッチャである。店ごとに生地が異なったが、だからと言って優も劣も無い。美味かった。店の外にあったテーブル席に腰掛けて、陽の光を浴びながら、また陽を浴びた街路を眼前に拝めながらフォカッチャを頬張っている内に一つ考えが頭の中に芽を出した。
私は日光が好きであるが、取り分け地中海近辺諸国の日光が好きである。今年の三月に訪れたアテネの日光も素晴らしかった。イタリアは今回のミラノを含めると計十二都市に足を運んできたが、いずれの街も日光が心地良かった。それは浴びるにも、また浴びた景色を眺めるにも大変好ましいのであるが、この気候と言うのはこの土地に自然備わっている物である。即ちその土地の人間や歴史や社会文化や食文化は、全てこの気候を含む風土から生み出されているというわけになる。
「旅行先で食べる物は雰囲気も相俟って美味しく感じる」「雰囲気が調味料」というような文句があるが、これはその実逆なのだろうと思う。本場のピッツァが美味しいのは旅の雰囲気が演出しているわけではなく、ピッツァが生まれた気候の中で食べるから美味しいのであろう。本場のビールが美味しいのは非日常という調味料が加わっているわけではなく、ビールが広く愛される気風の中で飲むから美味しいのであろう。本場と言うのはそういう事である。回転寿司であれ日本の寿司が美味いのも全く同じ理由である。
ミラノで食べた幾つかのフォカッチャが、それぞれに違いはあれど優劣無く美味しかったのも、フォカッチャと言うパンがイタリアの気候の中で育った人間によって生み出されたからであろうと思った。今やレシピなど世界中に溢れている。材料も幾らでも手に入れられる。誰であっても形を完璧に模倣する事は出来るであろうが、気候まで模倣をする事は我々人間には不可能である。本物と言うのはそういう事である。
これは然し、本場本物を知らねば偽物である、という高圧的な極論を偉そうに振り翳すわけではない。ただ本物と模倣ではどこが明確に異なるのかを知っておく事と、森羅万象何れの物にも本物と言う物が存在していると言うのを心得ておく事は大切である。値が張る、贅沢品だ、という理由で頭ごなしに本場本物を見向きもせず辛辣に切り捨てて己の保身に入ってしまうのは、角度を変えて見れば文化歴史への冒涜である。実際に体験しないまでも、存在を認めるは重要である。無論、私が作るパンも一筋縄に本物とは呼べぬが、私が私のパンを認める根底に、本場本物、或いは原形原点と言う物の存在が置かれているのは言わずもがなである。
***
夕方になってナヴィリオ・グランデ運河の辺りを散策した。川辺に立ち並ぶテラス席は如何にもイタリアらしい。何処となくヴェネチアを思い起こした。時間は十七時前ほどであったが何時までも明るく暑い。
腹が減ったからまたパン屋を見付けてフォカッチャを買った。全く幾つ食べれば気が済むんだか、幾つ食べても幾つも食べたかった。運河を眺めながら戴く。鼻からオリーブオイルとトマトの風味が抜ける。白米に梅干しが乗った如き国旗を有する日本で梅干しの御握りが懐かしい味に感じる様に、トマトとバジル、オリーブとチーズ辺りがイタリアの懐かしい味なのかもしれない。
それからまた川沿いを歩く。随分歩いたから喉が渇いた。私はふらっとテラス席を構える店に入ると、ビールと水を頼んだ。陽を浴び、川沿いの景色を眺めつつビールを飲む。イタリアのビールは苦みが濃い。私の勝手な持論の内に、珈琲が美味い国ではビールが劣る、と言うのがあったが、味にも慣れて来たのかこの旅行中に飲んだビールはいつも美味かった。
そうしてまた歩く。景色が良いから足が進んで行くが、足もいつまでも元気なわけにもいかない。そうしてまた妙な時間にフォカッチャを入れてしまっていた腹が空いて来る迄、ふらふらとレストランを吟味しながら歩こうと範囲も広げて歩いてみたが持ち前の方向音痴も相俟って思っていた以上の距離を歩いた挙句、また川沿いの方まで戻って来て、それなり賑わっているレストランに入った。
この日はパスタを食べた。海鮮の身近でないドイツ在住者らしくフルッティ・ディ・マーレとサラダを注文し、ボトルの水を貰った。なかなか人に見せる機会も無いが、実のところ私の得意料理はパスタである。それ用の道具も一通り持っている。ところがここ一ヶ月以上、食生活を見直した関係で家でパスタを食べる事が無かった私は、久し振りにパスタを口にした。その余りの美味しさに頬が落ち背は仰け反った。それほど減っていなかった腹にもするする入った。この味は如何なる天邪鬼であってもそう容易に攻撃出来まい。一見乱雑に配置された様に見える海鮮も、まるで立ち位置を厳守し並んでいる様に美しかった。不自然な作為性よりも無作為な自然性の方が、私の場合の食を目で楽しむと言う感覚を喜ばした。
大変な満足な店を出る。時刻はすっかり九時前であったが、それでも日はまだ高かった。
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二日目の晩、私が予約していた時間のバスが運休になったから別の時間のバスへ予約変更して下さい、という連絡がバス会社から入った。突然の予定変更である。私は止む無し本来の予定よりも三時間早いバスを取り直した。それ即ち、ミラノ滞在時間も同じだけ削られた私は、レオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐を拝むのを泣く泣く諦めた。
起きて簡単に朝食を済まし支度をすると、もう残り時間は僅かであった。九時前にチェックアウトを済ますと、真っ直ぐガリバルディ駅へと向かった。イータリーという食料品店へ行くのが目的であった。ミュンヘンにも支店があるこの食料品店を、ミュンヘンに住んでいた当時私は頻く足を運んでいた。イタリア産の食材が売っているから、パスタ作りに凝っていた、もっと言えばイタリアの雰囲気が好きな私はその店に行くのも好きであった。
それがミラノにもあったとは知らず、それならシェフへの手土産としてイータリーでワインでも買っていこうと思い店に入った。そこは全く夢の様な空間であった。惜しかったのは私が旅行者の身分で、手土産として持ち帰るには限度がある事であった。まあ然し主たる目的がシェフへのワインを買う事であったから、それ以外は指をくわえて眺めて通るだけの覚悟が出来ていた私であったが、本売り場の前を通った時にパンに関する書物の棚が目に入って思わず足を止めた。
そうして幾つか手に取ってぱらぱらと捲っている内に、何とも興味深い一冊があった。その本の内の一つの項目に過ぎないだろうが、イタリアのパンを写真付きで紹介している様な頁があった。それがイタリアの食事パン、と言う私にとって未開の地への入口に思えた私は、気付けばその本を籠に入れ、ワインと共にレジを通し己の物にした。
後になって冷静に考えると、その本の内容が全編イタリア語で書かれている事と、自分がイタリア語を読めない事実に気が付いた。帰りのバスを待つ間にベンチに腰掛けて本を開いてみたが、想像していた以上にイタリア語の本であり、単語の一つも読めずに呆然と己を嘲笑した。とは言え、家で翻訳機を用いたら良い話である。この本は私にとって価値のある物に違いないという確信があった以上、購入を後悔するような瞬間は塵刻も無かった。何百頁あろうと其処に一つでも発見があるならそれが自分にとっての本の役目であり価値である。
午前十一時半に出発したバスは夜の十九時にミュンヘンに無事着いた。夜間の八時間は眠っていれば良いが、昼間の八時間は随分退屈した。そうしてミュンヘンから私の住む町まではまた電車に乗った。相変わらず遅延に緊急停止に尽きないドイツ電鉄は私を住む町まで運ぶのに二時間も余計に費やした。移動疲れもある中で酷く神経を摺り減らされ、旅の結末を汚された様な気分になったドイツ電鉄の杜撰さは、これからドイツへの移住を考えている人はよく心得ておくべきドイツの欠点である。
何はともあれ不安のあったミラノ旅行、ドイツ滞在中では最後のになるイタリア旅行は大変な満足感を持って終えた。この旅中、景色や食事を味わう以外に考え、想い、感じる発見が沢山あった。本だけでなく旅行も、その内一つでも発見があれば私にとっての価値である。
オーストリア・ウィーンへの旅
木曜日の朝六時、また詰め直した荷物を絡げて部屋を出た私を涼しい空気が撫でる。昨晩雨が降ったとみられる痕跡も道の上にあった。ミラノは朝から暑かったが矢ッ張りここはそれほど酷くない。
然し随分忙しい印象を与えるかも知れない。ミラノから帰って来たと思えばまた直ぐに出掛けた私の向かった先はウィーンであるの抱くウィーンへの想いは愈々執拗いくらい書き残して来たから皆迄書かぬが、端的に申せば夢の国であり心の故郷である。それほど私にとって意味のある場所を本帰国前に訪れずして、嗚呼充実のドイツ生活でしたとはまさか締められる筈も無く、またその為の日取りがこの時しか無かったから、ミラノの疲れを引き摺る事も覚悟でウィーンへの帰郷の敢行を決めたわけである。
朝は四時前には起きたから電車に揺られている内に眠たくなった。同時にウィーンに対する興奮もあって眠るのが惜しくも思われた。それだから目を開けていたり、また眠り込んだりしながらウィーン迄の四時間を過ごした。幸い電車の遅延を食らう事も無かった。
私の場合、ウィーンの始まりは何時でもシュテファン広場からであった。地下鉄の駅から地へ出るなり目の前に立ち開かるシュテファン大聖堂を見上げずしてウィーンが始まらないのは、人がシンデレラ城や大きい地球儀を見てテーマパークの実感を得るのと同じである。
相変わらず凛々しい。そして美しい。世界屈指の洒落た屋根を持つ聖堂界きってのファッショニスタであるシュテファン大聖堂が美しいのは言わずもがな、その取り巻きたる諸々の建物も在ってそれで美しいのである。シュテファン広場を通る度に溜息が漏れ骨が抜ける程魅了されてならない私はこの数日で幾度動画に写真に納めたか知らん。同じ画角、同じ景色の物も沢山あるだろう。それを解って撮っているんだから良いのである。
シュテファン広場を見上げたらケルントナー通りを通ってホテル・ザッハーを目指した。余りに観光名所で何時も観光客で混みあっているから、過去に五六回ウィーンに来ていながら毎度寄る様な所では無かった。それでも今回の旅行はホテル・ザッハーでザッハートルテを食べる、という王道の順路を通らずにはいられなかった。
列はあったが然程並ばずに入れた。店内の絢爛さは健在である。素晴らしい。こういった煌びやかな内装、ウィーンのカフェ文化を象徴するような装飾は私の心を何時でも満たした。自然背筋が伸びる。自然口角が上がる。前世と言う物があるとすれば恐らくウィーンに身を置いたか、ウィーンに強い憧れを抱いていた者に違いない。
注文したザッハートルテが運ばれてきた。給仕の出で立ちも皆凛々しい。数年ぶりに対面したホテル・ザッハーのザッハートルテ。相変わらずの重鎮たる貫禄である。母という字が似合おう。
世界中の人々に長きに渡って感動を与え続けて来たザッハートルテの味を、今更私が何を評するも烏滸がましいが、ウィーンの歴史をぺらぺらと捲るが如く、アンティークで重厚な気品ある甘さが口の中に広がった。鼻で一度ぐんと息を吸って、吐く。思わず天を仰ぐ。五感で感じたい。ザッハトルテの味のみならず、ホテの空気、ウィーンの歴史、客の歓びを浴びる。美しい。
胸の奥まで満たされた私はジャケットを羽織り、挨拶をして店を出た。「Auf Wiederschauen」というさようならの挨拶が、愈々現実味を帯びないようになったのが寂しく感ぜられた。
店外に出るとまた街の景観に圧倒される。一人である筈だのに「ちょっと待ってくれ、美し過ぎる」と言う様な台詞が口をついて出るのは、一人ではなくウィーンと共に在る様な気でいるからかもしれない。
私はトラムに乗ってベルヴェデーレ宮殿を目指した。何を隠そうこの宮殿もホテル・ザッハー同様、過去に一度だけ来た事があるのみでこの日で二度目であった。市街から少し離れているという地理的要因も一つの理由であった。それでもこの日来ようと思ったのは、最後の挨拶周りをしている感覚に近いかもしれなかった。
ベルヴェデーレ宮殿と言えば、ウィーンの画家グスタフ・クリムトの接吻が所蔵されている事で有名である。その絵を見ようと観光客に人気のスポットであるが、接吻も霞むほどの美しい庭園と宮殿の装飾も素晴らしい。
ベルヴェデーレ宮殿を出る前、もう一度宮殿の全体を見上げる。もう生きている内には見に来れないのかもしれないなどと思う。まさか感傷的にはならず、十分な満足感を胸に敷地を出た。
カフェ・ゲアストナーへ来た。厳密に言えば市街へ戻って来た所で通り掛かったから吸い込まれる様に入った。このカフェの内装はとんでもない。まさに宮殿の中である。皇帝の茶室である。店の名前にある「K.u.K.」も「Hofzuckerbäckerei」も宮廷に仕えていたという名残であるから宮殿の中と言うのも強ち過言では無いのである。
眩しいほど輝く煌びやかな内装は大変居心地が良い。心が和む。こんな部屋にベッドを置いて眠れたらどんなに気分が良いだろうかと思う。私はメランジェとアプフェルシュトゥルーデルを頼んだ。ウィーンのアプフェルシュトゥルーデルは有名であるが、私はこれ迄食べずに来たからここぞとばかりに頼んだ。
生地はパイ生地ではなく専用の、所謂シュトゥルーデル生地であろう。中に詰まった林檎のフィリングが頗る豊かで、一口食むなりフォークを皿に寝かしシャンデリアのぶら下がる天井を仰いだ。私のこれは急激に満足度が満たされた時の反応である。言葉を失う、力が抜けるの類であろう。
夕飯までまだ時間がある。さてもう少し街を散策するかと歩き出すと、アルベルティーナ広場の景観に思わず足を止めた。この景色も無論幾度も見たが、天気が良い日の絶景は幾度見たって新鮮に美しい。そこを通って抜ける積でいたのであるが、そう言えばアルベルティーナ美術館には入った事が無いな、と不図思い付いた。
一先ず私は入口へ続く階段を上がった。この階段を上がるのも初めてであったかもしれなかった。上へ登ると、さっき下で見惚れていたアルベルティーナ広場の景観を上から眺める形になってまた美しかった。夢かと疑うほど震え上がった。景色を眺めてから恐る恐る美術館の中へ入った。入ってもなお、どうしようかと考えていたが、結局一度渋った事は未来で必ず後悔するだろうと腹を決め、入場料を払い見学した。
絵に詳しいわけではないが、詳しくなければ美術館を歩いてはいけないという訳でもあるまい。それに西洋美術史には関心がある。宗教画も印象派も写実主義も興味深い。畢竟歴史が好きなのだろうと改めて思う。この時、アルベルティーナを一周回っている内にエゴン・シーレの画風に大変興味が湧いた。こういう発見もあるんだから、美術に詳しくない人間が美術館を回った後、美術について私見を述べるのは許されて然るべきである。
美術館を出るとその足で街を抜けて夕食を取る為にカフェに入った。またカフェである。またカフェであるが、今度はケーキと珈琲を目的としているわけではない。ウィーンのカフェで食事を取る、というのも私が予てよりしたく、然しこれまで出来ていなかった事の一つであった。カフェ文化の深いウィーンにはクラシックなカフェが其処彼処にある。その中でも幾つか行っておきたいカフェに印をつけておいた。この日の夕飯はカフェー・アルト・ウィーンで取る事にした。
店に入って、以前にも来た事があったのを思い出した。クラシックな内装、ここは豪華絢爛と言うよりも少し庶民的であるが、そうは言っても凛々しい。私はシュニッツェルと水を注文した。ウィーンのシュニッツェルと言えばフィグルミュラーが代表格であるが、そこはこれまでに散々行ったし、いつでも混み合っているから、まあ今回は他の所でシュニッツェルを食べようと思った。然し、私は個人的にフィグルミュラーの名物はシュニッツェルよりも付け合わせのポテトサラダであると思っているから、そのポテトサラダだけでも食べておかねば帰るに帰れないかもしれなかった。まあまだあと二日ある。
初日はそうして終わった。初日だけでも十二分に濃かったが、矢張り世界的に人気の観光地だけあって出て行く金もなかなかのものである。ミラノは比較的安価であった。まあ然し経験に吝嗇では人生の貧乏である。況してや心の故郷であり夢の国である。ここは腹を括って太らせるに限る。ディズニーランドを好んで通う者も矢張り羽目を外している筈である。
***
ホテルは朝食付きで取ってあったが、折角老舗のカフェが立ち並ぶウィーンに来ておいてホテルで朝食を取るのはどうだろうかと考えた私は、一先ず珈琲だけでも飲む積で朝食室まで降りて行った。何処でも変わらないメニューが並んでいる。一通り目を通して、矢ッ張り取り敢えず珈琲を淹れた。然しパンの匂いが鼻を突く。既に朝食を取っている宿泊客の様子が私の目を突く。結局私はパンを二つ、ハムとチーズを乗せて、それからゆで卵を二つ食べた。結局しっかりとした朝食を取った。
九時前になってホテルを出ると、シェーンブルン宮殿を目指してトラムに乗った。一から宮殿の中へ入館する積で居なかった私は、それでも最後にせめて外観や庭園だけでも拝んで挨拶をしておかねばと思っていた。
到着するなり圧巻の迫力である。いや、例えばヴェルサイユ宮殿の迫力と比べれば大人しい物である。それなら迫力と言う言葉がどうにも相応しくなさそうである。或いは迫力という言葉の前に「静かなる」などと付ければニュアンスの点において私は少なくとも満足である。
この日は雨の予報であった。敷地内を暫くうろうろしていると、予報通り雨がぱらついた。幸い私の膝に二三滴ぽつぽつと当たったくらいで酷くなる事も無かったが、雨を機に私は売店へ入って土産物を物色した。一々眺めて手に取ってみては実用性の有無を考える。そうして答えに行き詰った時、実用論争の前に必要性が潜んでいる事に気が付く。もう恐らく二度と訪れる事が無いかも知れないこのシェーンブルン宮殿の記念品、という必要性であればいずれの品にもあった。その二点を絶妙に調節し、私は幾つかの記念品を購入した。入場しなかった分のチケット代に換えて、といった所である。
それから私は地下鉄に乗ってまた市街迄戻って来ると、ミラノに次いでウィーンでも考古学博物館へ向かった。三月のアテネとエジプトを経てすっかり考古学に夢中になった私は、ウィーンの観光地としてはそれほど脚光の浴びていない博物館だと知りながら足を運んだ。建物の前まで来た時、その近くにアンカークロックと呼ばれる仕掛け時計がある事に気が付いて、さて以前この仕掛け時計を見た事があったがこんな所だったかな、と曖昧な記憶を思い起こして現実を疑ったりなんかした。
博物館の展示は古代ローマ帝国の都市としてのウィンドボナ時代の物であった。以前に自分で調べた事があってそれでウィンドボナの名前だけは憶えていたから、表示を見た時に嗚呼ウィンドボナだと、偉そうに懐かしみの様な感覚を覚えた。
当時の町の区画、人々の生活、食器、そして当時の煉瓦や石造の跡なんかが展示されていた。古代ローマらしい雰囲気のそれらの展示は興味深かったが、ミラノも然り、矢張り古代の文明が直接的に関わっていない都市の考古学博物館は今一つ感動に物足りない。これは仕方の無い事であるが、それならアテネ、エジプトと見てきた私は、ローマの考古学博物館への興味が俄然沸いて来た。命のある内に訪れられるだろうか。
ウィーンの考古学博物館の悪口を言った様で申し訳ないが、ウィーンの名立たる博物館に比べて入館料が随分安いから、ちょっと興味本位で行ってみる分にはおすすめである。時刻は昼前、私はそこからカフェ・ツェントラールへ向かって歩いた。ウィーンの顔たるカフェであり、私個人も最も好むカフェである。
然し問題は、このカフェを好むのが私だけではないという事である。ホテル・ザッハー同様、観光客から絶大な人気を誇るカフェ・ツェントラールは予約無しでは入れないという事が常である。幸いこれ迄私はカフェ・ツェントラールで行列に並んだ事は無かったが、この日カフェの目の前まで行くとすっかり長蛇の列であった。私は閉まったと思った。すっかり油断して予約をしておかなかった。それなら翌日はどうだろうかとインターネットで席を予約しようとするも、来週の月曜迄予約で一杯であるという事だった。それならじゃあ明日もう一度来て行列に並んでみようと思って私は別のカフェへ行った。
私がウィーンで愛する建物の一つにホーフブルク宮殿があった。白い外壁と緑の屋根のコントラストは何時までも美しい。建物と対面して見上げるのも良いが、コールマルクト通り越しに拝むホーフブルク宮殿の顔が私は好きであった。そんなコールマルクト通りにあるカフェ・デメルに入った。ここも宮廷御用達の歴史深いカフェである。
店内は芸術である。アンティークのオルゴールである。箱入りの菓子やケーキの間を抜けてカフェのある一階へ上がる。この一階へは初めて上がったが、洗練された上品さがあった。
私は満を持してカイザーシュマーレンを注文した。カイザーの好物であったとされるウィーンの名物である。
運ばれてきたカイザーシュマーレンは慎ましく皿に座っていた。デメルのカイザーシュマーレンを店舗で食べるのは初めてであった。食む。甘さも大変な上品ぶりである。この甘さで十分な所にスモモのソースの酸味が強烈に乗っかって来て邪魔だ、と言うのは昔の私の意見であったが、何時しかそうも思わなくなった。却ってその酸味に、何に対する物なんだか或る懐かしさを覚えた。
帰り掛け、友人への土産として幾つかデメルの商品を購入した。土産の菓子も菓子の箱も上品である。比較的値は張るが、それすら納得である。
店を出るとまたホーフブルクに見惚れた。ウィーンの街中にはつい見惚れて足を止めて膝を崩してしまうスポットが何箇所もある。
ナッシュマルクトも有名な観光地とされる市場であるが、私はここも過去に一度しか行っていなかった。長い距離立ち並ぶ幾つもの屋台や土産物屋や飲食店。ここは市場と称されるが、余り長閑な市場を想像してしまっていると、客引きの執拗さに辟易とするだろう。実際この時の私も半分ほど見てそれで止めにした。まあ私の場合は目当ての物も買ったし、大体の雰囲気もわかったしと、それなり満足したから途中で終わりにした。
そのナッシュマルクトから歩いて数分の所にカフェ・シュペールがあった。私は手元にウィーンのカフェ文化の歴史書を持っているのであるが、それを読んでいる内に知った老舗カフェの一つである。これまで言った事の無いでいたこのカフェは、この旅行中で最も私の胸を射抜いた。そうして本で読んだのと、見たのと同じ雰囲気が未だに残っている事が感動的であった。それは店内の装飾であり、新聞紙であり、ビリヤード台であった。
昔のウィーン市民の情報共有の場であり、憩いの場であり、また遊びの場でもあったカフェという存在の形がそのままあった。遂にウィーンのカフェの原点に辿り着いた様な大袈裟な気さえした。そしてまた価格も主たるカフェに比べてずっと安しかった。私はアイスコーヒーのみを頼んだが、もし明日カフェ・ツェントラールに席が無い様であればもう一度このカフェ・シュペールに来たいような気さえ起こった。
悪いと思われた天気は何だかんだずっと持った。カフェ・シュペールを出てマリア・テレージア広場へ向かった時には随分天気も良かった。折角だからベンチに腰掛けてぼーっとしようか知らんとも思ったが肝心のベンチは何処も先客で埋まっていた。マリア・テレージア広場の両翼には博物館が建つ。これらも圧巻の迫力である。これらはまさしく迫力である。幾度写真を撮り動画を撮っても限が無い。この広場から英雄広場へ抜け、ホーフブルク宮殿へ出て来る迄、カメラの忙しい時間が続いた。何処を切り取っても、いやその実切り取るのも惜しいほどに絵になる景色が延々続いた。
荷物も増えて足も肩も疲れて来た私は、一度ホテルに荷物を置きに戻ると、少し休んだ後、夕飯を食べにカフェ・リッターへ向かった。全くカフェに行ってばかりであるが、これにはウィーンのカフェが持つ特別な歴史と趣に私が強く魅せられているからに他ならない。単なる御洒落ではなく、単なる優雅さではなく、である。
カフェ・リッターでは牛肉のグーラシュを頼んだ。私が店に入るなり、外は土砂降りになった。それで結局私が店を出る頃にはすっかり止んで日まで照っていた。
カフェ・リッターは店構えや内装が、ビリヤード台の有無を覗いてカフェ・シュペールとよく似ていた。リッターの方を以前から知っていた私は、シュペールを見た時に真っ先にそれを思った。年代的特徴であろうか、地理的特徴であろうか、リッターとシュペールは比較的近い距離に建っていた。
グーラシュを食べながら、愈々旅の終わりの足音が胸に響いて寂しくなった。ウィーンが私にとって単なる観光地であれば良かったのであるが、余りに思い入れを強くして来たばっかりに、例えば私のこの先の人生でウィーンに来る事は今ほど簡単ではなくなるとして、そうした場合屹度死ぬまでにもう二度とウィーンに来ることは無いのかと思うと、その死ぬまでの間、半永久的に胸の内にウィーンロスを抱えて生きて行かなければならず、それは余りにも惨い事の様に思われてしまった。
二日目の夜も更けていく。明日はもう殆ど用事も無い。用事も無いが、ウィーンの景色に見惚れ始めれば時間はあっという間である。日常に戻る事よりも、もっと先の事を考えて少し憂鬱な気分にある事は全くの想定外である。
***
最終日の朝も目覚ましより早く目を覚ました私は、それでいていつまでもごろごろとしていたかった。その時は言語化出来ていなかったが、今思えばひょっとすると
旅行の終わりを拒否する体の意思表示だったのかもしれない。
とは言え七時半頃には朝食室へ向かうと、前日と殆ど同じような朝食をとるなり、部屋に戻って荷物をまとめて時計を見るとそれでもまだ九時前であった。私はそれからまた少しのんびりすると、九時半頃になって漸くチェックアウトをした。三日目のこの日、十七時の電車で帰る予定でいた私は、土産を物色しカフェへ行く事より他に取り分けする事も無かったからそれだけ悠長に居られた。
大荷物だけ中央駅のコインロッカーに入れると、その足でカフェ・ツェントラールへ向かった。予約は取れなくとも、順番に並んででも入っておかねば帰るに帰られない。私はカフェへ向かう道中、仮に三時間待ちであったとしても十七時の電車には間に合うから並ぼう、と覚悟を自らに問いかけ確認した。
着くと案の定列が外へ伸びていた。然し先日見た時よりかは短く思われた。私は躊躇なく列に並ぶ。テーマパークのアトラクションと同じである。
十分と待っただろうか、覚悟していたよりもずっと早く店内に通された。ペーター・アルテンベルクが私を出迎える。綺麗な正装の給仕に運ばれて通された席は、ちょうど皇帝フランツ・ヨーゼフと皇后シシーの大きい肖像画の正面であった。特等席である。
店内をぐるり何度も見渡す。何処を切り取っても絵になるが、実際一部を写真にしたくらいでは伝わり切らない豪絢さこそカフェ・ツェントラールである。私はメランジェと、アルテンベルクと名付けられたチョコレートケーキを頼んだ。最後の食事に相応しい。
実際この時、ケーキの美味しさを事細かに脳内で書き起こす作業をしている場合では無かった。それよりもカフェ・ツェントラールの空間の中でケーキを食べている事実にあらゆる感情と心配と言葉を忘れてしまっていた。
ウィーンを心の故郷と称している私にとって、カフェ・ツェントラールは心の真髄であった。心の真髄の定義はさぞ曖昧であろうが、完全なまでに心が安らぎ、思考は無になり昇天すると同時に、世の喧騒の一切が切り捨てられ、日常的欲求の一切が鎮まる。この身が生きていようといまいとそんな事はどうでもよく、ただカフェ・ツェントラールの空間の中に存在している、という事実に満足し、その内世間も自己も未来も過去も感じなくなる場所こそ、心の真髄であろうと思う。
幾度もカフェ・ツェントラールで食事をした事はあったが、何時まで経っても感動は無くならなかった。この時も、ああこれが最後のカフェ・ツェントラールか、等と態々思う頭も働かず、無となった心のまま感動していた。涙が出そうと言えば大袈裟だが、ただ感極まると言う表現は適当であった。
支払いを済ませると帰りがけにケーキの並ぶショウウィンドウを眺めた。するとそこにカフェ・ツェントラールのグッズなんかも置かれていた。マグネットは最近SNSで見掛けて知っていたが、マグカップもあったからこれは幾らだろうと店員に尋ねると、想像していたよりも安価であったから反射的にそれも買った。
そしてこの時、私の接客にあたってくれていた女性の店員がまさかの日本人であって驚いた。アジア系である事は当然顔の造りで分かったがまさか日本人とは思っていなかった私はドイツ語で何だかんだと質問を投げていたが、その内彼女の方からドイツ語で「どこから来られたんですか」と聞かれて「日本だが、今はドイツに住んでるんだ」と答えると突然日本語で「私も日本人です」と返って来て一瞬何が起こったんだかわからなかった。それで少し話をした。
不思議な出会いもあるものである。それより何より日本人の彼女がカフェ・ツェントラールのホールで働いているというのは何とも立派である。私は彼女から土産を受け取ると、紙袋をぶら提げてカフェを出た。振り返ってもう一度建物を眺める。どこまでも美しい。これほど美しい歴史的なカフェで働く立派な日本人よりも、ここに住み着いて住所をカフェ・ツェントラールにしてしまったペーター・アルテンベルクを羨ましいと思う私は、その欲望を全て左手の紙袋の中に委ねた。
さてもうこれで愈々やる事の無くなった私は、ひたすらウィーンの旧市街を散策した。ドナウ川の方も行った。国会議事堂や市庁舎も、そう言えばまだ見ていなかったなと思い出して見に行った。どれをとっても立派な建物である。
馬車は至る所を走っている。観光シーズンだから忙しいのだろう。私も過去に一度乗った事があった。馬が走ると一帯が臭くなるが、この臭さもウィーンの確固たるアイデンティティである。
午後三時頃になってカフェ・フラオエンフーバーに入った。このカフェはウィーンで最も古いとされている老舗である。妙な時間であったが私はシュニッツェルを頼んだ。ウィーンを代表するGösserのラドラーも注文した。
これが最後の食事である。この時はもう変に感傷的になったりせず、ただ美味しく食べた。然し食べ終えてシュテファン広場へ出て、ベンチに腰掛けて時間を潰している内に、そうしてそれから中央駅へ行き電車を待っている間に、また昨晩同様のウィーンロス、この先の人生でこの喪失感を胸に抱えたまま生きていかなければならない事が億劫に感ぜられてきた。旅行に来る前から覚悟していた筈であったが、そうしてその覚悟があったからウィーンの土産品を山ほど買って帰るんだと意気込んでいた筈であったが、いざこうしてその時を迎えると想像の内では感じられなかった現実が見えて来た。
散々ウィーンをディズニーランドに喩えて来た。私にとってのウィーンとは、ディズニーを愛するファンにとってのディズニーランドと同じ感覚だ、というのが最も私のウィーンに対する想いを解り易く噛み砕けている言葉であると思っているのであるが、私がこれで日本へ帰国したあと、私とウィーンとの物理的距離は、ディズニーファンとディズニーランドとの距離よりもずっと大きくなる。今度はそれを逆の立場になって想像してみて戴きたい。足繁く通っていたディズニーランドが半永久的に遠く離れるのである。その喪失感たるや。
大袈裟である事は百も承知である。私の命がある内は、もう二度と来れない場所という訳でもない。それを目標に掲げて生きていくのが最も綺麗な形なのであろう。一つの生きる理由として。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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