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*3 酸いも甘いも

 すっかり雪に覆われたミュンヘンになおこれでもかと吹き荒れる細かい吹雪の中を、人通りの少なそうな真っさらな道に足跡をつけながら私は保険会社を目指して突き進んでいた。雪を踏んだ時のくっくっと鳴る音に地元の雪国を駆けた幼少期を思い出し、まるで真逆の状況に生きる現在と照らし合わせ何故か親のような心持ちになった。

 予約をしていなければ入れない保険会社の入り口には鍵が掛けられていた。ガラス扉にベタベタと貼られた注意書きに一通り目を通した後、呼び鈴のボタンを押した。ドイツに来たばかりの頃に外国人局の出口の扉に付けられた防犯ブザーに書かれてあった「押す」の文字を、ドイツ語の未熟だった私は扉の押す、引くだと勘違いして押した所、けたたましいアラームが外国人局内に響き渡り奥から係員を引き摺り出してしまってからと言うもの、扉のボタンを押す時はいつでもその時の記憶が蘇り、あまりの初々しさに我ながら微笑みを漏らしてしまう事さえあった。

 少しして女性職員が扉を開きに出てきて私を中に通してくれた。彼女の後をつけて進んでいくと、五人ほどの職員がそれぞれのデスクで仕事をしている大広間に続いていた。私が入るやいなやそのチームの長らしき人物が私を先導していた彼女に向かって、なぜ大広間に連れて来たのかと問い質していたところを見ると、どうも大広間手前のロビーに置かれた二脚の椅子が、本来私と彼女の面接の場であったようである。先導した彼女は、それは知らなかった、と言ったまでで、ついには職員達が見守る視線を背に、私は席に着くように勧められた。


 担当の彼女は私が先日送ったメールを認識していたらしく話は早かったのだが、まず始めに私は、こういった保険などの話についてはてんで無知であるから、との断りを入れておいた。彼女は澄ましたまま問題ないと言って私に質問を要求した。マスク越し、アクリル板越しであれこれ説明する事にもすっかり無抵抗である。

 私が事情を説明し質問を投げ掛ける。要所要所で彼女の相槌と単純明快な回答が返ってくる。これが実に心地の良い落ち着きを持っていた。何一つの混乱も緊張も無く話は済み、あまりのスムーズさに最後には思わず、実に親切でした、ありがとうと伝えずにはいられないほどであった。

 かつて役所で防犯ブザーを押して係員に白目を向けられたような私も、気付けば日本語で保険の説明を受けるよりもドイツ語の方が俄然解り易いとさえ思ってしまう程になっていた。先日なんかも職場で顔を合わせるパンの配送係に、ドイツで生まれたのか、と問われ、これすなわち私のドイツ語に対する賛辞であると解釈した私は実に感慨深い気持ちになった。成長と呼ぶのか、変化と呼ぶのか、いずれにしてもドイツに来たばかりの頃の私とは同じでありながら確実に異なる部分がある事は確かである。


 必要な手続きを終え保険会社を後にした帰路の私の足取りは、往路よりも格段に軽かった。どうも社会構造に従う取り組みには多少の抵抗感が未だに拭えず、いざ立ち向かわなければならない場合などは、それこそ腹を括るような心構えで居なければ何かに押し潰されそうな気さえしてしまう。それだから、こうして関門を突破した後には決まって、大したことなかった、という安堵が生まれ自ずと足取りも軽くなるのである。行きの道では吹雪いていた空も、私の心情を察したかのようにすっかり晴れていた。


 ドイツに来たばかりの頃との違いで言うと、言葉以外にも思い当たる節がある。私が生業としているパンに関しても例外ではない。と言うのも、ドイツに来たばかりの頃の私は、ドイツのパンがそれほど好きではなかったからである。

 渡独当初の私は目新しさと好奇心で日本で口にしたことのない食べ物に心躍らされていたのだが、その合間合間に、日本食に飢えていたわけではないが、米などを欲したりしていたのである。一方、ライ麦粉で作られた大型のドイツパンに関しては食べたいと強く欲した事は全く無いと言っても過言ではないほど稀であった。
 ところがここ数年になると、比較的頻繁にライ麦粉で出来た大型の硬いドイツパンを食べたいと思う事がある。すなわちこの味覚も、ドイツで生活するうえで無意識のうちに徐々に徐々に変化させられていった部分である。

 特筆すべきはRoggenvollkornbrotであるのだが、その前にこんな乱暴にアルファベットを並べられては読者諸君に何のことだかさっぱり解らないだろうと我ながら思いつつも、これを今度ロッゲンフォルコーンブロートとすると発音や抑揚が伝わらないような気がするし、かと言ってライ麦全粒粉パンとすると今度は書いている私の方でどうもしっくりこないので、他所の国の物を我が国の言葉で表現するには限界があるという事をここで再度思い知った次第である。かのシュトーレンも現地の発音に寄せればシュトレン、ないし極端に文字に直せばシュトーンにも成り得るのである。


 もとい、ロッゲンフォルコーンブロート、すなわちライ麦全粒粉パンの話である。

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 私の職場でも作られているロッゲンフォルコーンブロートであるが、ドイツパン特有の酸味がより強い上に、茶色く、いかにも固そうな見た目に当初の私は特に好意を持てずにいた。食感もぷつぷつ、じっとりとして、それでいてぱさぱさと変に歯切れがいい。窯から出した時などは立ち上る湯気がすでに鼻を突くような酸味を含んでいるものだから、働き始めて間もない頃に窯出しを手伝った時などは、どうもその湯気が苦手で顔をしかめていたものである。

 そんなロッゲンフォルコーンブロートを近頃は好んで食うようになった。毛嫌いしていた焼き上がりの酸っぱい湯気でさえ、その匂いを感じた瞬間に幸福感や達成感に似た感情を覚えるほどである。

 そのまま食べてもいいが、時としてバターを塗る。バターの滑らかさが、粒の粗いクラム(※1)の凸凹を馴染ませるように、また奥底まで浸透するかのように表面を覆い、そしてこのパンの持ち味である酸味の隙間にバターが自らの甘味を滑り込ませるのである。すると酸味と甘味が調和し合い、丸みを帯びた味わいに変わり美味い。

 あるいはクリームチーズを表面に塗り、薄くスライスされたサーモンをその上に並べる。それだけで、あれほど田舎くさかったロッゲンフォルコーンブロートが見違える程に上品なドレスアップを果たすのである。一口食べる。見た目ではすでにパンはさながらサーモンとクリームチーズを支える脇役であったはずなのに、絶対的な存在感をそこにちゃんと残している。それは決して嫌な酸味や独特な食感の自己主張と言う我儘なものではなく、ロッゲンフォルコーンブロートが持ち合わせるモデルとしての根本の存在感である。そうでなければ如何様に上質にあつらわれたサーモンもクリームチーズもドレスとは成れぬただの布切れ同然である。ロッゲンフォルコーンブロートが着てこそ生まれる芸術である。そう思わされる類の存在感を持ってして、今度は口の中を縦横無尽に踊り舞うから一度で二つの芸術を味わえるのである。



 パンを食うなりスマートフォンに一件のメールを認めた。差出人は二月から借りる下宿の大家である。何事かと思い開くと、どうも現行のマイスターコースの授業が一月いっぱいはコロナの影響で実施されず、現在住んでいる生徒がまだ出て行かれない為に入居日を二月から三月にしてもらわなければならない、という通達であった。予定が狂うので困った話ではあるが、それはおそらくお互い様でここを厳しく取り締まるのは何時か自分にも返って来てしまうであろうから、とりあえず私は了解の旨をメールで送った。有為転変な昨今、そのままずるずると永久に先送りにされない事を心許なく祈るばかりである。



(※1)クラム:パン内部の柔らかい部分。それに対して外側をクラストと言う。


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