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*12 教うるは学ぶの半ば

 月の初日と月曜日が重なるのは気持ちがいい。新たな門出を迎えた様な、そんなさらな気分になって清々しい。気の早い話であるが、こうした清々しい気持ちで月末の方角を眺めてみると何となく良好な一ヶ月を暮らせるような気が起こる。世の中には占いの結果に日々一喜一憂している者も在るようであるが、運勢の順位がどうでも御籤みくじの吉凶がどうでも、己で勝手に幸運の中にいるんだと思い込んで過ごしている方がよっぽど良い事件に恵まれるというのが私の経験則である。こうして書くとまるで馬鹿みた様であるが、ポジティブという概念の解釈を間違えてちゃらんぽらんに前向きな言葉ばかりを吐いているというわけではないから、そこは一つ区別しておいて戴きたい。
 
 
 実際今年の八月は職場における私の教育係としての新たな門出であるには違いなかった。先週の月曜日に降って湧いた機会である。私はその使命に対して確かに前向きでありながら、それでいて鼻息を荒げて前傾姿勢でいるというわけでもなかった。
 
 見習い生の面倒を見るにあたって出勤時間を通常よりも二時間遅らせる必要のあった私は、月曜日はまだ通常通り早朝三時に仕事を始めた。翌日から特例な勤務になるとあって私のみならず同僚の中にも少なからず浮足立つ空気があったが、それ以外は至って通常通りに仕事は進んで行った。六時半頃になっていつも通り三十分休憩に入り、パンを食べて珈琲を啜ってまた仕事に戻った頃には見習い生の二人が既に工房に来ていた。新たに職業訓練を始める二人とは言えどちらも知った顔であった。
 
 二人とは昨年の八月に初※1めて顔を合わせていた。どちらもその当時は職業体験と言う形で工房に来て一緒になって作業をしていた。一方で当時の私と言えばドイツからの強制送還の危機を回避して、マイスター学校が休暇に入っていた八月の三週間だけ正式雇用の前に働かせてもらっていた。彼らも私もお互いベッカライ・クラインチームの一員になる前に出会っていたのであるが、それが一年を経て今度はチームの仲間として顔を合わせるのだから何とも感慨深い。
 
 彼らにとってもこの八月一日は新たな門出であった。さっきから彼ら彼らとばかり呼んでいて不躾であるから単簡に紹介すると、一人はマリオという少年でもう一人はクララという少女である。どちらも十六歳の年であるが、マリオは早生まれだから厳密に言えばまだ十五歳であった。この日は彼らにとって初日であり、シェフの方で職場案内だの職業訓練の説明だのとする積でいたらしかったから、七時から昼頃まで工房にいた彼らにとって翌火曜日からが本格的な職業訓練の開始であった。
 
 
 
 早朝四時前にスマートフォンのアラームを止めた私は、直ぐに体を起こしてコーヒーメーカーのスイッチを押してからもう一度体を横にした。行動こそいつも通りであるが時間が珍しい。ドイツに来てからの八年を振り返ってみてもこんな時間に出勤を控えるのは初めての事であった。身支度を済ませて四時半頃に部屋を出ると、薄暗い空の端の方では橙色オレンジ濃紺ネイビーを侵食し始めて朝に向かっていた。新鮮な景色であった。
 
 職場の前まで来ると支店へとパンを運ぶ黄色い車が停まっていた。成程なるほどまさに出荷準備が行われている時間である。普段は内側で若チーフのマリアとその旦那であるシェフの息子がせっせと仕分けをしている忙しい情景しか見る事が無かったが、外側には薄暗い夜明けの中の、活気を宿らせる前のパン屋の正面に黄色いバンが停まっている実に閑静な情景があった。開け放しにされた出入口から入ると、例の如くマリア達が忙しそうに動いていた。おはようと挨拶をしてその脇を通って更衣室へ向かい、着替えを済ませると工房に入って既に仕事を始めている同僚にもおはようと声を掛けた。普段の始業時に見るのとは違う作業をしている彼らの動きも心なしか新鮮に見えた。

 私より一時間遅れて見習い生の二人も出勤してきた。今週マリオは製パンの方に参加するが、クララは製菓のアンナに付く事になっていた。十一時くらいまでは他の同僚もいるから私が全て手取り足取り教える必要も無いのであるが、原則私が彼らと行動を共にし、私のする作業を説明しながら見せてやるという段取だんどりになっていた。工房全体の作業進行の都合上、ペストリ※2ー生地の折り込みやその成形が主であったが、掃除の仕方だの翌日の為の準備だの細々した事も教える必要があった。寧ろ小規模なパン屋において所謂いわゆる雑用仕事を見習い生に覚えさせる事の方が何より先に求められる所である。余りに雑用が続くと見習い生と言えど嫌気が差して職業訓練を途中で断念するなり職場を変えるなりと言った事例は幾つも聞いた事があるのでその点においては心配であるが、今週から職業訓練を始めた彼らの目には純粋な輝きが宿っており、弱冠十六歳という若人のその純真無垢な希望に一縷の影も差す事無くパン職人と成れる日が来る事を、私はまるで父親にでもなったかのように心底願うと共に、彼らの希望がついえる事の無いように可能な限り尽力したいと思った。それほどまでに彼らの目は美しく、また製パンの職業訓練の道へ進んだ意思が尊かった。大袈裟な理由を付けて志高く刻苦勉励こっくべんれい勤倹力行きんけんりっこうを重ねて職業訓練に臨んでいた外国籍の男の持ち得なかった尊さが彼らには備わっているように思われた。
 
 
 火曜日からは休憩も彼らと共にした。無理に喋るでもなく、それでも思い立ったそばから他愛も無い会話をし、時として大笑いも巻き起こったその時間は、私がこれまでルーカスやアンドレやヨハンと共に過ごしていた休憩とはまた異なる居心地があった。私からすれば一緒に過ごすには少々幼過ぎる年齢の彼らである筈が、まるで同級生とでも喋るかのように心が楽であった。
 
 それは休憩を終え仕事をしている時にも感じられた。元来人にものを教える時や仕事の指示を出す時にいちいち冗句ジョークを言わずにいられない性質たちの子供染みた私であるが、彼らの前ではその性質にも拍車が掛かった。とは言え仕事をするには真剣である。彼らの仕事に不備があれば責任は私の物であるから注意は深く配った。作業の説明も、幾ら冗談を挟んでしまうとは言え、幾らドイツ語が拙いとは言え、いい加減に手を抜く無責任な私では無かったから詳しくした。それをまた彼らも真剣に聞いた。
 
 
 私が彼らの立場であれば大変働きやすかろうと思った。これは教育係という点において己の振舞いを自画自賛したいが為に言う訳ではなく、屹度私が過去に施されたかった理想の指導の体現であるのだろうと思うのである。気分屋の上司の機嫌に細心の注意を払って吃々びくびくしたり、勤務年数を振り翳しては頭ごなしに怒鳴る上司に神経を遣ったり、そうした宮大工見習いの頃からドイツでの職業訓練時代に至るまでに積み重ねた経験を反面教師に、今の私の態度が形成されているとするならば、それを私が理想の体現と言うのは理路整然として単純明快な見解である。然しそれには覚悟していた以上に体力を遣うらしく、土曜日の仕事終わりには帰ってくるなり珍しく直ぐに四時間近くも眠ってしまった。
 
 
 見習い生の面倒を見る為に頭の回転が通常よりも早かったからか、彼らに対してのみならずアンドレと話していても過去に味わった事の無いほど今週の私は諧謔かいぎゃくに冴えていた。それはかえって自然体の様にも思われたが、これほど人を笑わせる事が出来た今週はそれだけで良い一週間だったと言えた。その上、来週から二週間の休暇に入るアンドレから、今月末頃にある私の誕生日が日曜日である事を受けて、その翌月曜日にビアガーデンでも行こうという提案があった。初めは冗談かとも思ったが、どうも本気らしかったから是非行こうという意思を表示しておいた。
 


(※1)二人とは…顔を合わせていた。:下記の話参照
ドイツパン修行録マイスター学校編『*30 プログレス/エンブレイス』
https://note.com/gencos_baecker/n/n77eb1b1ce8db
ドイツパン修行録マイスター学校編『*32 ギフト』
https://note.com/gencos_baecker/n/n2c761a189692
 
(※2)ペストリー:クロワッサン生地やパイ生地を使ったパンの総称。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。

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