免色の土塊(つちくれ)について
免色が「秋川まりえについて、自分の子なのかどうかがはっきりしなくてもいい」という考えを持っていることについて以前触れたことがありました。
https://note.com/fuuke/n/nb6114420010c
そしてぼくは騎士団長殺しの上巻を読み終わり、下巻を買いました。ヘッダ画像をお借りしています。
https://note.com/fuuke/n/n68f9f9be2e7f
物語を読む者としてこれは卑怯な言い方だと思うんだけど、免色も主人公も作者の分身だと言えてしまう。でもそれぞれ名前が付与されており、別の生き物であると紹介されているんだから「結局は作者の分身だよね」と言ってしまうのはあまりにも卑怯なわけです。
ぼくが騎士団長殺しの下巻を読み始めると、133ページ前後でまたこの話になりました。やっぱそこでは免色は実子かどうかについては限りなくどうでもよく(流石にどうでもいいという言い方は違うと思うけど)、主人公の側は割と理解できない感じである。
それだけでなく、今度はその気持ちに発展があったことをぼくら読者は知れてしまう。でもそれは発展という形容の仕方が正しくないんじゃないかと思えるほど、極めてマイナスな方への進み方だった。
これは免色にとって「奇異な感情」だった。つまり免色はこれまでの人生において自分が生きている意味もやってきたことの意味もなかったんじゃないだろうかという思いは一度も抱いたことがなかった。
このいかにもな独白のカウンター・カルチャーとして、主人公の「その感情は決して『奇異』ではなく、わりと普通の情緒である」然とした考え方に読者の意識が誘導されます。免色はマジで一生、ずっと自分に自信を持ち続けて生きてきたのか……と。もはや超人であると。
ここでもうひとつ、再び卑怯な視点から考えると(あまりにも突飛とされる)免色の考え方も、それをおかしいと思う免色よりも年下の主人公の考えもどちらも作者の思いであるとわかる。
つまり消去法にはなってしまうけど、免色の考え方は年齢を重ねた=人生経験を重ねた後の作者、そのカウンター位置にいる主人公は若かりし頃の作者となり、この会話自体が自分同士の会話であるとも捉えられる。
免色が放った「奇異」という言葉は、人生が空虚なものなのかも知れないというような、若きウェルテルみたいな悩みを普遍的だとは思っていないことの暴露とも言えてしまい、自分に帰ってくる。人生を空虚だと思ったことがないなんて、免色こそ奇異なのだと。
でもやっぱりぼくは免色の「あえて真相を知りたくはない」という答えについてその余白性、余剰性がむしろ免色にとってはエンターテインメントたり得てしまうんじゃないかと思えるようになった。
また結局自分語りに戻ってきて恐縮ではありますが……ぼくはたぶん免色どころか主人公よりも長く生きていないかもしれないんだけど、免色のこのシュレディンガー式スタンスについてを上記のようにエンターテインメント性を持って受け止められた事実がある以上、免色を奇異であるということは自分自身をも奇異と認めなければならないことになると考えた。
もちろんぼくは、自分自身をして「かーっ俺って異端だわ、変わり者だわ、誰にも理解されないわ」と言いたいわけではありません。
免色がこれまで人生を無為だと思わなかったことについては単純に羨ましい。ぼくも人生は無為で、生まれてきた意味とは?自分がこの世に対して為してきたことに意味なんてあるのか?ともし聞かれたら自分なりの答えはあるものの、「そこは空虚だよね!」みたいに質問者が同調してほしい雰囲気を出していて、ぼくもその人に好意を持っていたならそこまで躊躇いはないぐらい、主人公が発したカウンター・カルチャーにも同意できる。
免色は自分をしてつちくれとまで言い放ってしまった。免色がこれまで関わってきた職的な業とは、まさに経済に直結するようなことだっただろう。普通の人は自分が為していることが経済に直結しているという実感を得るにはなかなか至らない。その個人たちが為しているひとつひとつを組み合わせて、確実に経済となっているのだと頭ではわかっていてもです。
免色は事業に対する金という盛大な結果をもたらすことでこれまで何一つ不満を持たずに生きてきたけど、その行為→結果のプロセスが視覚的にあいまいだったからこそだったのかも知れない。
そこに秋川まりえという確実な形を持った(しかも生命までたずさえた)「結果」が現れてしまい、そしてその生命の鋭さとか強さ、もしかしたら「自分の結果」である可能性をも持ち得ているのに、明らかな「他者感」すら持ち合わせて生きている。
たぶん免色にとってそのような生命体を理解することがこの時点では難しいんじゃないかと思える。だからこそ、100%自分の子供であると判明することは怖いし、心の自動防衛本能がはたらく。
心の防衛本能とは、仮にそうだったときのために、傷つかないようにすることだ。「自分とは、人間とは、結局の所異性と交配して次の命を創るための形骸つまり土塊でしかない」と無理やり理解しようとし捉え、防御体制に入ったのかもしれない。
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