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あんたらのメンタルサポートが心配だ

普段は直情的な文を書かないようにしている。書いても仕方ないからですね。

別にそれを他者に強要するわけではない。このサイト内で感情に任せた文を書いた者がい、いちいち規約違反ボタンを押しまわるような趣味をぼくは持ち合わせていない。そのような近代的SNSを代表するような行為をぼくはぼくの連続的生命状態において求めていないのだ。

それは同時に、その感情的な文が何らかの他者を傷つけるものであった場合は何の遠慮もなく悪しきものとして排除すべきであることを意味する。もちろんぼくは表現の自由という考え方に反旗を翻すつもりはなく、明らかに強い体制つまり国とか、激烈にバカ高い資本なんかが明らかに間違ったことをしていたら、こういうノミ以下の存在である場所から徹底的に扱き下ろさなければならないと思っている。

しかし、近年のSNSではそういうときだけに振るわれるべきちからが個人のストレス発散とか「一般的に間違いであると思われる者」を再起不能なレベルになるまで叩き潰すためだけに使われている。まだ本題にすら入っていないがぼくらが抱える現実にはこのような情けない実情がある。

感情的な文を書きたいのだが、内容をはっきりさすわけにいかないためどうしたものか悩んでいる。ぼくは直接の悲しみを背負うわけではないが、残された者たちのことを考えると、その心のケアが何もできないことにもどかしく……はならないのだが──といいますかもどかしくなってしまうとそれはあまりよくない力に巻き込まれていることになるため推奨されないのだが───

それでも何かを話そうとする人に対して、ぼくらには何ができるのか。そしてその人々は何をしてくれるのか。これは共感以外にないわけです。

なんだか知らないが、抱えている悲しみを発出し、それを誰でもいいから誰かしらが聞いただけで、発話者の体内からその悲しみが薄れる。心理学的にどうこうあるんだろうけど別にこれは論文じゃないので今はいい。

精神が壊れるのは(壊れたと決めつけるのは少し大げさ、といいますか「精神が壊れる」という表現が日本語的に他のものが壊れるよりも重すぎる)、なんらかの「傷つき」が発生したからだ。

壊れは誰かに受け止めさせることでその日々が少し治るらしい。ぼくらにも当事者にもできることはそれぐらいなのかも知れない。

このサイト内ではいかなる場合でも返信行為をしていません。