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免色の『秋川まりえが自分の娘かもしれない』について考える

ぼくはメインキャラクターたちよりも長く生きてない気がしますが、なんとなく免色の言っていることがわかる気がしたのでメモしています。ヘッダ画像をお借りしています。

それは顕れるイデア編の25話目あたりにある一言です。この話は結構話が動き始めて大事なので、一言つってもそのひとつひとつがつながっており、つながったその全容は重苦しい。

免色のいうことを主役は理解できていないように読者であるぼくには思える。それは、読者であるぼくらをそのように視線誘導したいのか、免色との間に徹底的隔離をもたらしたいのか、まだ最後まで読み切ってないぼくにはわからない。

作者がそこまでの精度で読者の感情を誘導しようとしているのであれば、なんと恐ろしい実力を持っているのだろうと思わされる。

そしてその免色の言葉とは、秋川まりえが自分の実の子どもかもしれないけど、DNA的な科学的な根拠とかは用いずにその佇まいを絵にして手に入れたいというものでした。絶対に自分と秋川まりえの関係の真実については明かさない。

それが免色の人生における最善手であるということだった。ぼくは割とすんなりなるほどと思いました。だけど上記のように、免色が抱いたその感情および選択に対してまるでコミットしないことが正解であるかのような感情誘導が試みられていると思うわけです。

だって読者が主役に感情移入するものであるともし決めつけられているのであれば、免色の願いに対し居心地悪くなり他人の感情に巻き込まれることを嫌悪しなければならないのだ。主人公がその時の自分の気持ちをそのように断言しちゃってるからです。

下巻を読んでないのでなんとも言えないんですけど、ここまで一方的に免色に逆らいたがるような物語の構成になっているということは、行動変容マーケティングみたいなものであるため+これは別に営利目的による行動変容の促しではないため、むしろぼくらは免色に対して感情移入するように仕向けられているのかもしれないとも言える。天の邪鬼というやつですね。

だから下巻でこんな考えとかどうでもいいぐらいの展開が来てくれてぼくは全然構わないんだけど、物事をこのままにしておきたい免色の気持ちが何だか知らないけどよくわかってしまった―――とまで言ってしまうのは大げさだけど―――といいますかごくごく自然なことであるように思えてしまったのはなぜだろうと考える。

『秋川まりえが自分の娘かもしれない』けど免色がこのまま生きていたい理由はすぐその後に書かれてるから、別にこんなところでぼくら読者は止まる必要がないのかもしれない。

ただあまりにも免色の人生が現時点で完成されすぎているから(それはいびつな完成であり、人によっては主役のように未完成な風に見えたりすることもあんのかもしんないけど)、別に今からわざわざその牙城を崩す必要もないんじゃないかと思ってしまう。

ぼくはこの段、365ページあたりから最後の507ページぐらいまで最初はちょっと休憩をはさみながらも最後の100ページぐらいをなぜだか一気に読んでしまいそれをも不思議に思った中で、唯一と言っていいほど心がひっかかったのがここだったため念の為に書きました。しかも一気に読んだ時、ぼくは台所にいてずっと飲まず食わず座らずで立ちっぱなしでした。それが一番この本を読む姿勢として向いていると思ってしまったのだった。そして些かの疲れを得た。

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