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3年前の3月を思い出そう

文明社会とは異様なまでに「記念日」が好きです。まず誕生日がそうだし、誰かしらあるいは団体が偉業を為したらいつまでもそれを誇り続ける。「今日は誰々が世界新記録を打ち立てた日だ」。ヘッダ画像をお借りしています。

記念日とは商売だ

記念日は商売になるわけです。つまり「今日は何々の記念日である」が言い訳理由となり、いきなり「記念グッズ」なるものを合法的に売りつけられることになる。

あるいは2020年以降の資本主義社会ではそれぐらいしないともはや消費者が無尽蔵に財布から彼ら資本家の食い扶持を出してくれなくなってしまった。だから苦肉の策で「記念日商売」が今日も横行するのかもしれない。

ぼくはこのところ3月についての便益を考えていました。一応それなりの考えが生まれた。


3月と宇宙

別に一日そこらで3月というこれまでも散々繰り返されてきた「期間」の全容を把握するなんてぼくには無理です。だから今日も考えてた。

すると3月という期間において、ぼくは改めて「この宇宙空間においてぼくは極めてひとりぼっちだ」ということに気づく。この時点ではまだそれが便益かどうか、あるいはこの始まりたての思考が便益を見出そうとしてるのかすらも不明だ。

11月~2月あたりは上記リンクでも触れたかもしれませんが、外に出かける気力がわかない。「外に出ることで得られる便益」程度であれば、出ない方がマシ、みたいな考え方が自動的に為されているのかもしれない。

3月は以外と冬なんだけど、日中少しだけそれが救われる感じになる。だから外に出かける頻度を増やすと何か救われた気持ちになる。

空を見上げると青しかないわけです。するとここは地上だけど宇宙空間につながっていると気づく。勝手に生き物が地球だとか火星だとか、北海道だとか名古屋だとかその場を呼んでいるだけで、ここは宇宙なわけです。

上を見ていた頭を戻すと、きれいに整備された地面が見える。舗装された理由は車が通りやすくなるだろうから、お年寄りがカートみたいなものをバリアフリーに押せるだろうから、子どもたちが自転車で悪路をこけないでいられるから。

どんなに整備された土地でも、そこは宇宙空間でしかない。宇宙空間にしては珍しく酸素があるから、何らかの生命体が生まれただけに過ぎない。

するとぼくは急に宇宙に投げ出された気がして、――実際ぼくはひとりで行動するのが好きだからいつもそうなんだけど別にこれは強がりとかじゃなくて公然の事実として―――ものすごい孤独を感じた。まるでたまたま地面を舗装する文化がある星に降り立った何らかの生命体になった。

実際にはそこは宇宙空間ではなく、ぼくは引力に引っ張られているおかげで「空間」然とした場にはいないと学者的な方々には定義されるんじゃないかと思う。

3年前の3月

でもなんでこのようなことをしばらく考えるに至らなかったんだろうと思った。3年前の3月が思い出される。

3年前の3月とはぼくらにとって、「必死に元通り振る舞おうとする、まるで当人にはそうする実力が備わっているとでも思ってそうな能力がない大人たち」に振り回され始めた記念日でもあるはずだ。

自分をばかだと思うなんて、自尊心が傷つきそうだからしないほうが良いと思うけど、ばかだとかなんだとか自分をレッテル付ける以前に、ぼくは3年前に受けた強制力をしてどう受け止めて変わったのかがわからなかった。

上記山口周は多分ぼくが言っている3年前とは違うごくありふれた3年前を論っているんだと思うけど、3年前から今に至るまで何も変わらない大人ばかり思い出される。対面で出勤しろとかがそうですね。ぼくらはリモートワークという文明の利器を手にしたのに、対面じゃないと生き物が管理できないつまり能力が足りないから、上記の大人はそのようなことを強要する。

必死に何も変わらなかった以前の自分に戻ろうとするだけを求めるなんて哀れだ。自らの心がホメオスタシス(変わろうとすることを防ぐ代謝的機能)に乗っ取られてしまい、もはや自我がない状態とすら言えるんじゃないだろうか?

「変わりたくない」を求める。奇しくも3月とは誰もが変わらざるを得ない季節だ。実際面倒だと思う。

あの流行語大賞を覚えていますか?コとロとナという文字を順序よく組み合わせた言葉はことごとく選ばれなかった。

知的生命体とは―――それは土着の風習に左右されるだけなのかもしれないけど――こうまで「見たくないもの」を「見ないようにする」生き物だっただろうか?とぼくはあの時思いました。でもそれは3月ではないですね。8ヶ月後の11月とかでしょう。

ここnoteも、コとロとナを混ぜた単語を文内のたったどこか一箇所にでも書くと、「病気の実態はどうのこうの~~政府の公式発表を~~~」みたいなアラートをそのページのド頭に強制的に貼り付ける。もはや尊厳などどこへいったのかという具合だ。なんでそこでするべきなのかが理解できない責任逃れを一生懸命やっているようにしか見えない。「変わりたくない」信仰とどう違うのか。

三年前の今頃、春の芽吹きを身体で感じれた人っていたんだろうか?もちろんエッセンシャルワーカーにとっては避けられない日常だから当たり前だろって言われて仕方ないし、いたとしてもそれは北半球の似たようなエリア限定の話になるだろうけど……


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