つながり奉行 江戸おけさ
パルプフィクションの永野の説明を見ていろんなことを思った続き。ヘッダ画像をお借りしています。
サミュエル・L・ジャクソンのパフォーマンスは、タランティーノの脚本と相まってキャラクターによくわからん異様を与えてる。台詞回しや表情、身体の動きはすべてが計算され尽くされているかのようだった。
『パルプ・フィクション』の成功の鍵となる成分とまで言われてるかどうか知らないけど、絶対的信念としてジュールズがいる。
ブルースはあの微動だにしない長回しが異様なのが画期的だったんスかね。当時生きてない状態だと、それ以降パルプフィクションのぱくりみたいな映画ばっか出てきたって言われるけどぼくにはよくわからん。
パルプ以降にも凄まじくいい話をよく見てきた。だったらぱくった者は淘汰されて消えてしまったのだろうか。ガチ目に歴史にも残らない、誰からも愛されない歌が死ぬほど生まれては消えたのだろうか?
昨日言ったように永野の『パルプ・フィクション』に関する説明は、ぼくにとってこの映画を理解するためのきっかけとなった。
映画の複雑な構造やテーマをわかりやすく伝えてくれたんで、あ、見ますかね……と。
しかし永野の解説がどれほど詳細であっても、観客一人一人の視点や感受性が映画の受け取り方を大きく左右する。
永野の解説に影響されて、ぼくは再び『パルプ・フィクション』のオープニング「だけ」を観たくなった。映画の冒頭に流れるディック・デイルの「ミザルー」は、観る者を一瞬で映画の世界に引き込むというより映画自体を擬人化したとして着ている服がどんなんかが伝わって来る感じがする。この曲はまるでベンチャーズのカバーのように聴こえるってことを永野で知った。
さっきも言ったけどブルース・ウィリスが演じるブッチのシーンでは、長回しのカメラワークが映画の緊張感を高め……ているのか?ぼくは緊張していなかった。これから怖いことが起こるとかそういうことを一切思ってなかった。主要なやつが死ぬとは思わなかったほど。
『パルプ・フィクション』以降、タランティーノを模倣するのが次々と生まれたらしいが、その独自性とクオリティに及ばないまま消えていった物が多いのか少ないのか確かめようがない。模倣者たちが表面的に真似て取り入れるだけで、オリジナルの持つ深みやユニークさを再現したのかどうかももはやわからんのだ。
『タランティーノはポップカルチャーへの深い愛情を持ってたらしい。そして永野はワンス・アポン・ア・タイムインハリウッドを褒めるやつは表面だけの奴と思ってるらしかった。でもぼくはワンス・アポン・ア・タイムインハリウッドをべた褒めした。といいますか、ブラピが悪魔すぎて怖いヴィラン的ヒーロー的なものに映った。
時系列こそ普通になってただろうが、パルプフィクションと同じ奴が撮ったと言われて納得するのは無理だと思う。パルプはジュールズが凄まじくよく、ワンスアポはブラピが鬼であり魔神だからすごかった。そのような通底の仕方であれば、たしかに同じ人が撮っていると思える。
映画の感想なんて人に左右されたら終わりなんだけど。
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