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部長とか大臣とかPh.Dとか、肩書がないと喋れない人々の価値はどこへ消えたのか

ものすごくうるさくてありえないほど近いを観終わったためやっと感想がかけます。ヘッダ画像をお借りしています。

かつて観ながら書きました。その続きでもあり、新たな文だと思っていただいても一向に構わない。

つまるところぼくは映画でも本でも事前情報を絶対に入れないで見ようとするため、この映画の主役のガキが自閉症、アスペルガー障碍、サヴァン症候群に準ずる個性の持ち主だとわからず(本筋で描写なんてされてました……?)、どうやら元になった本ではド繊細にド描写されてたっぽいんですが(本とは描写をせずに何をするというメディアである)、思い入れを持って当該ガキを見れなかった。

最後に社屋から帰ってきて、ここまで車で送ってくれたブラックと一緒に帰るんやろか~思ったらいきなり走り始めて奇声を上げ(視聴者は頻繁にこの奇声を聞くことになる)、地下鉄に乗り寝そべってどこかへ行く(もともと地下鉄に乗れない。乗れるようになったのは祖父のおかげである。そちらについてはまたいずれ)。この時点で視聴者が次の場面と繋がりがある(ブラックの元から消え去って、対して時間経過していないなんて)なんて思うことは難しいようにぼくは思う。

ひとえにブラックの夫の元で割とこの物語最大にして本質の重大事項が発覚するのだが、それを踏まえても以後の行動に納得を寄せることは難しい。

つまり親父であるトム・ハンクス(とても良い親父だ)が、2000年9月11日の昼間に、もう自分の命はすぐに終わってしまうのだという覚悟を受け入れて

(あるいは受け入れておらず、自分の子は問題を抱えてはいるものの自分の置かれた環境を想い、親父がどのように死去してしまうのかを簡単に推察できてしまうこと、

およびそのような不安を抱えた自分の子供の将来を想い、残された時間でトム・ハンクス自身がどのような声を掛けてやれるかを必死に思考した上で)

世界貿易センタービルの100階から自分の子供に対して電話をかけます。どう考えてもこの行為がこの物語の鍵である。

トムは貿易センタービル内で携帯電話をシェアしているようであり、まず奥さんのサンドラ・ブロックに電話をかけ、ずっと愛していたと伝える。しかしながら次の人に電話を渡さねばならない。

それをちょっと融通してもらった感じの描写があり、何度も何度も自分の家に電話をかけたようだった。それが6回とされている?

つまり、死ぬ前に自分の子に電話で話したいと思った。でも電話に出てこないから、オンフック、スピーカーモードになることを見越して留守番電話録音の状態で話しかけまくる。トムはそこに子供がいて、自分の声を聴いているのだという確信を持って話しかけているのだ。視聴者はもはやそう思わされる。

トムからしたらそんな確信なんて得られるわけがないのに、である。この親父には肩書がない。家族のために研究職的な道を諦めて、宝石屋さん?みたいな道に進んだらしい。

各所でトムがそんな肩書など持っていなくてもいかに自閉症の子供を感性豊かに育てているかの描写が挟まれます。視聴者はもういなくなってしまった人を想い、いかに希望に満ちた教育者であったかについて想いを巡らせることになる。

絶望のふちに立たされたトムは自分の家に子供がいて、自分の声を聴いているなんていう希望にすがることでしか残りの数分の人生を生きれなかったのかも知れないし、仮に家に子供がいなかろうと、その留守電を聞くぐらいの知能は持ち合わせているし家族の誰かが聴いてくれるだろうしという保険もあった、と考えていたかも知れない。

しかしながらトムはおそらく最後まで子供のために話しかけ続けた。ガキはその電話を目の前で受けておきながら、通話口に出なかった。

多分ガキはその時点でTVもつけており、親父が置かれた状況を瞬時に理解していた。で電話に出ることは親父の死を受け入れざるを得ない(この表現は死が確定して以降つまり物語内で「あの8分を先送りにするために」などと散々繰り返される)と判断し、電話に出ないことで親父の死を確定させないようにする防衛本能的なものが働いていたのだろう。

……この話しはサンドラ・ブロックの意趣返し的な部分や祖父という親父の身代わりのような奇跡的な存在によって完成するのだが、そちらについてはまた以降書きたくなったら書かせていただきます。それぐらいこの映画におけるトム・ハンクスの喪失は重たい。

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