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【創作】短編小説 Right Place

1. 成瀬和敏(かずとし) *** 2019年 5月***

 成瀬和敏(なるせ かずとし)は自身が受け持つ生徒の気持ちに寄り添おうと努力していた。およそ25年の教諭生活の中で、これほど苦慮したのは久しぶりだった。

 自己否定感の強い子たちのネガティブな考えの根本はどこにあるのかを模索していたのだ。ツイッター,インスタグラム、何十億というYouTube動画が発端にあるのだろうが、何度SNSを過剰に見ないようにと教えても、自らの存在感を否定し、それでも誰かに見てほしくてSNSの波に飛び込んでいく。

 だからスマホに不慣れな成瀬もいわゆる裏アカのようなアカウントを取得し、ハッシュタグで検索して自分の生徒と思しき子どもたちを見つけたら、画面で追いながら、学校では実体のある彼らに芳しくない変化が起きていないか注意を払っていた。

 教師は万能ではない。時々、全ての事は学校で教えてもらわないと困る、という親がいる。教師だって一人の人間だ。出来る事と出来ない事がある。自分が出来ない時は潔く誰かに頼る方が良いと言っても「子育て」まで学校に丸投げしてしまうのは哀しいな、と成瀬は思った。

- 話を聞くだけでは、愛情を注ぎ続けるだけではどうにもならない事があります - 懐かしい声がした。

 自分が教育実習生だった23歳当時、自ら若さを抱きながら、教師の一人として生徒と向き合おうと必死だった。

*** 1996年  9月 ***

 年齢の近い友達としてではなく“大人”として対応する。生徒たちと大した違いはないのに、個々の問題や悩みを解きほぐさなければならない。
 教員室に戻り息抜きにと窓の外を見やった。

「あっ、森脇の奴、また!」
 成瀬はその窓から飛び出さんばかりの勢いで、体育館へと続く松の並木道へ出た。
「こら何してる。森脇、何の嫌がらせだ?」
 後ろから必死に呼び止める成瀬に、森脇星奈(せいな)という女子生徒はくわえていた煙草を離して「あぁ?」と振り向いた。
 森脇星奈はよく言えば清楚、悪く言えば平々凡々な容姿の子だ。他の女子生徒がアムラーだシノラーだと有名人を真似ている事を言って憚らないが、森脇は煙草以外に主張する部分はなかった。長い髪の色は烏羽色(からすばいろ)とまではいかないが綺麗な黒で手は加えられていない。両肩の手前にくる髪は細く2本に分けられて,鎖骨の下まで真っ直ぐに垂れていて、あとの髪は背中へ伸ばしている。
「あぁ先玉か。何って煙草吸ってんだけど」

 成瀬は、教育実習生というだけで「先公のたまご」と呼ばれていた。それが略されて、特に柄の悪い生徒には先玉と呼ばれるようになったのだ。
「素直に答えるんじゃない。煙草を吸うのは20歳を過ぎてからだ。悪い事だと森脇も知ってるだろう」
「そんな事言ったってさぁ、ワタシ勉強も解んないし、煙草でも吸ってなきゃやってらんないっしょ」

 成瀬は幸か不幸か生活に1度も苦労した事はなかったから、彼らと同じ年代の時でも、これといった不満もなく大人になった。今思えば暢気なもんだと思う。  

「とにかく煙草の火を消しなさい。こんな所で火を付けたらこの辺にある木に燃え移るだろうが」 思わず語尾が強くなった。
「したら何?ここじゃなきゃ良いわけ?」 
 勉強には追いつけなくても、こうして揚げ足を取るのが上手い子はいつの時代もいた。
「そういう事じゃない」
 腹立ち紛れに言い放った成瀬に、森脇は徐ろに立ち上がって「じゃあ何よ」と叫ぶように言った。成瀬は兎にも角にも彼女の手から煙草を奪い取り靴の裏で踏み消した。射抜くような鋭い眼差しの森脇に、成瀬自身もきっと自分でも想像できないような恐い顔になっていたのではないだろうか。

 担任の城山先生に森脇の煙草の件を相談した。
「森脇さんですか。ご両親が、いえ、お父様が愛煙家だと聞いた事があるので、もしかしたら習慣的に吸っているのかもしれませんね」
「どうしますか。取り上げて今すぐやめさせますか?」
「それが出来ればそれに越した事はありませんが、煙草は自動販売機で子供でも普通に買えてしまいますし、一度森脇さんと話し合いましょう」

 翌日、来客用駐車スペースで煙草を吸っている森脇に授業後に残ってもらうようお願いした。車止めに腰掛けて足を伸ばしていた。煙草を持っている事を除けば、赤点か失恋したかのようなショボくれ具合だ。城山先生も煙草の件は知っていると話すと、急に視線は尖り「バラしたね、あんた」と毒づかれたが動じなかった。

1996年。1980年前後生まれの15.6歳の親である人たちの中には、かつて名の通った暴走族のメンバーだった親やヤンキー気質を抱えたまま大人になったような親もいた。
 ドキュメンタリーだと謳う『警察24時』で暴走族との攻防が目玉として特集される。まさかあの映像の中に生徒たちの親がいたとは思いたくない。森脇の一言でそうした何個もの記憶がフラッシュバックのように頭を巡った。生徒の、しかも学内での行為を見逃す事はできなかった。

ーこのままでは森脇はどこまでも堕ちてしまうー
 それが教育実習生だった成瀬が感じた森脇についての最初の記憶だ。

2,森脇星奈(せいな) *** 1996年 9月 ***

 星奈が勉強に付いていけなくなったのは分数が出てきてからだった。唯一理解できたのは2/4が1/2になるという事だけ。3/8が8個中の3個だったとしても、物の数で計算せずに「割り切れない数字」が正答であるという事がどうしても解せなかった。そうなれば、成績が下降に転ずるのも必然の事と言えた。

 煙草を見咎められた。煙草くらい良いじゃないか。貴子は煙草と一緒にビールを飲んでいる。貴子の家はバブルに乗ってブイブイ言わせていた。あの子が持つ物1つ1つが高級ブランドだったけど、バブルが弾けて割りを食わされた格好となり、貧富という名のシーソーの端から端まで一気に滑り落ちてしまった。何処でくすねて来るのかは知らないけれど、素面で居たところを見た事はこの一年半1度も見ていなかった。

森脇家は何棟も並ぶ団地の一室だった。

その辺り一帯を一斉に建てたのでどれもが妙に古めかしく、人がすれ違えないほどの階段幅や踊り場も小ぢんまりとしたものだった。そんなだったからどうしても顔見知りは多くなり、煙草を吸っている女の子と言えば「あぁ、星奈ちゃんの事ね」と通じてしまうムラ感覚があって肩身の狭い思いもした。

 もともと貧しかったという事がせめてもの救いだった。貴子の家や、夢見がちな大人たちが投資したり「まだまだ坪単価が上がるぞ」と引っ越しの予定もない土地と家を買った家庭の子たちは、将来設計の全てから梯子(はしご)を外されて、何もできないまま上から眺めているしかなかった。  

 思案しつつ団地の敷地に入る頃には外灯がチラチラ揺れるだけの午後10時近い時間だった。こんな時間でも怒られないのは両親が共働きでいつ帰っても親の片方が眠っているか、そうでなければ2人とも居ないかのどちらかだ。鍵っ子というほど立派なものではないが、決して「お帰り」なんていう家庭的な反応のない暗い部屋へと帰って来るのだ。

 星奈は壁や天井こそ薄汚れているものの、母の綺麗好きによってよく整えられたリビングをぐるりと1度見渡してから自室に入る。テレビも最後に家族で観たのはいつの事だったか思い出せない。少し赤みの強いピンクのカーテンを閉じた。
 自分はもう少し薄いピンクを欲しがったのだが「元気が出るわよ」と母が選んだものだった。無理に強めのピンクを選んでくれて良かったと星奈は感じていた。予想していたより心を和ませてくれているからだ。

 そして、机に向かって小学校5年のドリルを開いた。全教科そろっている。別の地域に住む幼な友だちに選んでもらい、全ての漢字にルビを振ってもらった。「うん、星ちゃんは星ちゃんに出来る事から始めればいいよ」と言ってくれた。代金は自分の小遣いから支払った。  
 高校生にもなって情けないとは思ったけれど、これから何年かかろうと義務教育分のドリルだけは制覇するつもりだ。高校の問題を解くのは無理でも、小学校なら解けるのではないか。そう思い立った。

 翌日も、遅刻扱いにならない程度にゆっくり教室へ向かう。朝の学校は雑多としていて、おじいちゃん総理の長すぎる眉毛がどうの、「ちーにいちゃん」がどうのとよく解らない話題で湧き上がっていた。先玉は星奈を見つけるなりキッと睨んできたけど、完全無視した。

 先日の担任の城山先生と先玉との話し合いは進路指導室だった。主に城山先生が対応し先玉は横で黙って聞いていた。「森脇さん、最近疲れてるみたいだけど大丈夫?」と担任の女性教諭はそう言った。
「煙草の件じゃないんですか?」
「うん、それもあるけれど他の先生方も森脇さんが眠っている事を気にされていたから」
「別に。普通に帰って、ちょっと勉強して1時2時に寝る感じです」
「そうか、それじゃあ眠くても仕方ないよね。勉強は付いていけてる?」
「授業は全然。ドリル買って小学校からやり直してますよ。分数で止まってるんで」
「私たちにできる事はあるかな?」
「特別扱いはやめて下さい」
 これは、惨めさと他の生徒たちの目を気にしての事だった。城山先生は“分かっている”といった雰囲気で柔らかく微笑み、「それで」と少し間を置いた。
「煙草の方はどう? 何か悩みがあるのかな?」
 星奈は少し目を逸らし、自嘲したような笑みを浮かべた。

「ワタシ、馬鹿でしょ?」と言った時、手がポケットに向かい始めた。煙草を吸いたくなったのだろう。ふと気付いて煙草の入っているだろうポケットを強く握り潰した。
「将来の夢とかよく訊かれるんだけどさ、就職なんて無理だよ。漢字読めないし」
「だからってお前!」
 苛立ちを見せた成瀬を城山が手のひらで制した。
「分かった。特別なことはしないわ。でも小学校のドリルでも解らない所があったら、私たちに訊いてね。今日は時間取ってくれてありがとう」 城山先生はそう言って、持ってきた資料を片付け始めた。

 進路指導室を出る時、成瀬は星奈の後ろ姿を睨めつけた。
「成瀬君、あなたにはここでの時間が限られてるから焦る気持ちは解る。でも焦っても良い事はないわ。森脇さんに関する事は今日はこの辺りにしておきましょう」 城山先生は成瀬が付いて来ようが来まいが、すたすたと廊下を進んでいった。

 今日もセブンスターはカバンの下地の裏に隠し持っている。教科書はそれを隠すための目眩(くらま)しなのだ。でも教科書を持っている喜びもある。幼なじみの真梨子から“解き方は学校と塾とでは必ずしも一緒ではない”と聞いた。もし本当なら時代が変わっても解けるはずだ。いつかはこれを実際に勉強できる日が来るかもしれないのだから。

 星奈は教室のどの席だろうと眠れる自信がある。ほとんどの教師は星奈を切り捨てていて、誰もが見て見ぬふりを決めている。城山先生もそう言っていた。つまらなくなれば理由も言わず席を立ち、教室を出ていく。そして先日のように隠れて煙草を吸う。

 何で自分はこんなに平凡な顔をしてるんだろう、と自分が嫌になった。頭の悪さばかり気になって、髪を染めて不良になる事も奇抜な服で根暗な部分を繕う事もできなかった。染めた髪の毛も変わった服も、言ってみれば鎧だ。誰かしら何かを隠し持っている。でも星奈は自分に合う上手な隠し方を見つけられなかった。そして行き着いた答えは、誰かを真似る事は「逆に没個性なんだ」と思う事にした。

 父親が煙草を吸う人だったし、今の団地の前の住居人が「壁という壁」全てを真っ黄色にするようなオジサンだったらしい。父親はこれ幸いと煙草を再開したのだ。
「星奈も少しはヤンチャを覚えろ」
 なんて言いながら、当時中学2年だった星奈に煙草を与えたのが始まりだ。最初の1本に違和感はなかった。だけど本来は禁止されているものであり、星奈もそれ以来父親にせがむ事はなかった。高校に入ってからこれまでのような居心地よさが無く“やりにくさ”と感じた時に煙草の味を思い出して持ち歩くようになった。

 教員室からは見えない場所に中庭がある。今日はそこで吸う事にした。教師たちに“たしなめられない”と、カップルが事に及んでいたり、堂々と昼寝を決め込む金髪もいたりと、かなり目立つはずなのに監視の目が強化された事が無かった。だけど今は“先玉”がいる事を、星奈は忘れていた。

「やっぱりここか」 先玉こと成瀬和敏だった。
「ちょっ何。付けてきたの?」と不満が溢れてしまい、くわえかけた煙草を取りこぼした。
「お前という奴は何回言えば分かるんだ。それとも何か。頭が悪いからって体の一部が汚(よご)れるくらい怖くないってか?」
 それは星奈にも分かる禁句だった。馬鹿と言われているのと同じだ。教師然たる気持ちは分からないでもない。しかしそれ以前に生徒の受け皿になろう、という気持ちが微塵も表れていなかった。

「それってワタシを馬鹿にしてるよね。てか脳も細胞もないとか思ってる証拠だよね?」 
 また喧嘩になった。どうも先玉とは相性が合わない。他の教師たちと同じように放っておいてくれれば良いのに。
「違うのか? 脳も細胞もあれば煙草が善か悪かくらいは分かると思うが」
「分かってるってば」
 煙草と健康の関係は現在ほど強く言われていなかった。病院に喫煙室が普通に存在していたから、煙草が致命傷になる事はないと思っていた。星奈としても煙草を吸う事くらい、父親が言ったように“ヤンチャ”の範疇でしかなかった。

 それでも法に触れる事なので、難癖を付けられる事は承知だったが、掴み所のない不安が煽る時にはどうしても煙草の力を借りずにはいられなかった。
 漢字もろくに読めない人間が就職できるのかを考え出したら「何になりたいか」なんて分からないし、言う事さえできなかった。だから勉強のやり直しを始めた。成瀬は厳しい眼差しのままこちらを見ていた。星奈は落ちた煙草を拾ってポケットに入れると、無関心の表情を作って中庭を後にした。

 貴子の取り巻きは自分を売り物にして身を持ち崩していた。もしかしたら、貴子は手駒の女子を男に斡旋しては、売春の元締めのような事をしていたのかもしれないと先玉の言葉を聞いてふと気付いた。

3,鈴木高松(こうしょう) *** 1996年 9月 ***

「校長先生、聞いて下さいよ。森脇の事です。煙草を吸っている。はい、その森脇です」

 成瀬という若者はこちらに唾が飛んでいる事にも気付かないような血気盛んな若い先生だった。鈴木は長年使ってきた机に付いた成瀬先生の唾を、笑顔で相槌を打ちながらハンカチで拭き取った。将来有望であると感じさせると同時に、いつかポキッと折れてしまうのではないかと思うほど教育熱心な態度だ。この熱意を冷ませずに、柔軟に対応する術を学んで欲しい。

「成瀬先生」と呼んだ。教育実習生とはいえ教師を志しているのだ。今日明日ではないにせよ、必ずや彼は教師という道を選ぶだろう、と鈴木高松(こうしょう)の中で確信めいた勘が働いていた。

 国語の教諭として、教頭を経て今は校長として残り、今年勤続40年を迎えた。その教師生活の中で研ぎすまされ、先の15年この勘は外れていない。年齢にそぐわず毛髪の全てが真っ白い事からも“老獪”と言われるようになった所以である。来年は他所から新しく校長先生を招く予定だ。

「あいつは僕の事なんかこれっぽっちも気に留めていません。梃子でも動かないつもりなら、警察でも何でも…引っ叩いてでもやめさせます」
 森脇という生徒が以前から煙草を吸っているようだと聞いていた。だが、率先して更正に努めてこなかった事も認めなければならない。相対するべき生徒の数は200人を越えている。その全てに手が回らない事もまた現実だった。

「引っ叩くのは良くありません。暴力は絶対にやってはいけない。それに成瀬先生,森脇さんを助けたい気持ちは解りますが、荒っぽい言葉遣いは直した方が良いですよ。暴力も暴言もやめて下さい。果てさて、一言にやめさせると言ってもどうするつもりですか?」
 努めて柔和に受け答えた。
「監視します。妙な動きを見せたら警察に引っ張って行きます」
「森脇さんは何と言っていますか?」
 こちらもさん付けで呼ぶ。人間の尊厳は尊ばれてこそだ。成瀬先生には存外かもしれないが教師の目が光っていない時というのは意外と少ない。どこかで目をかけている。それに裏を返せば、この成瀬先生は他の教員が気にも留めなかった生徒に気付き、しっかり向き合おうとしている。
「特には何も。でも煙草はやめる気はないようです」
「ただ押さえつければ良いというものでもありません。城山先生から1度話を聞いたと伺ったのですが」
 僅かに困惑しながら成瀬先生は頭を掻いた。
「高校の授業では追い付けないので、自宅で小学校のドリルをやってるそうです」
「良い兆候ですね」 そうなんですけどねぇ、と成瀬先生は不満げにした。
「まずは森脇さんの気持ちを聞いてみて下さい。気持ちに寄り添う事です。下手な言葉は要りません。何も言わなくて良いんです。可能なら朝日が昇るまで隣りに座って、黙っていても良い」 

 鈴木は、数年に一度、県の教育委員会が取りまとめる取組点検(報告)書をそれこそ穴が開くほど読んできた。そこから伺える事は、善意であれ未熟さや気の緩みから哀しい事件が起きてきたという事だ。近年では不良少年だけでなく、ごく普通の子だと思われていた生徒が腹立ちを爆発させて、全国を賑わせる事件を起こしている。

 鈴木は一拍置いて成瀬の表情を伺った。校長室に乗り込んで来た時の勢いは削がれていたが、忙しなく視線を泳がせて異論を取り去れないでいる。
「成瀬先生の言葉に応じているなら、森脇さんは聡い子です。そういう聡い子は、もちろん煙草を吸う事は良くない事だと知っています。正しいから、正論だからこそ真正面からぶつけられたら痛いのでしょう」 
 これ以上言い争っても利はないと判断したのだろう。成瀬先生は引き下がった。

「でも森脇さんの事を否定するような事は、絶対に言わないで下さい。首肯しかねる部分があっても受け止めてあげて下さい。そして、否定するための『でも、だけど』は使わない。どんな事でも耳を傾けて下さい。できそうですか?」

 正論というのは“自分の核”となるもののバランスを失った子ほど全く響かない。そこに自分はいないのだから。正論や規則がどこを飛び交おうが自分には関係ない事と感じているのだろう。

 あるいは、どうしても動き出せないのかもしれない。心には響いている。だが無理にバランスを戻そうとすると心体のどこかに激痛が走るのだ。そうなると簡単には動けない。何度も浮き沈みを乗り越えてようやく自分と向き合えるようになる。星奈は後者だった。

4,森脇星奈  *** 1996年9月 ***

 星奈は、学校の中庭で成瀬に諭されてからというともの目に見えて1日の煙草の本数が増えた。5本から10本に、10本から20本になった。眠るだけの授業は拷問に近かった。

 確かに授業はキツいし、教師や女子たちもウザい。卒業の条件は忘れてしまったが、皆勤賞でも卒業できるなら縁が切れる。それだけでせいせいした。鈴木が言ったように正論で打たれて苛立っていた。
 安定した職に付けないかもしれない焦り、学校で居場所がない事、それに加えて目の上のこぶのような成瀬の存在。20本と吸うようになると、学校では吸えずに家で吸うようになった。小学校のドリルを解きながら脳が欲するままに煙を体に包み込んでいった。だが自らも愛煙家の父親は臭いには疎かった。

 成瀬はその事にすぐに気付いた。気付いたが鈴木に言われた事も頭にあって、なかなか言い咎める事ができなかった。これが後年の成瀬に重くのし掛かった。
「森脇、最近煙草の量が増えてないか」
 3週間見ているのだ。実習中の初めに気付けて良かった。そう思った。
 星奈が眉間にシワを寄せ、カーディガンの袖を鼻と口に覆って自分の体臭を確かめた。口をききたくないけど、そう言われては急に気になった。関係ないでしょと言って彼女は逃げるようにと帰った。

 それからは急転直下だった。彼女はその日確かに帰った。あの団地で勉強机に向かった。父親は隣室で眠っていて、夜遅く起きてみると星奈の部屋から明かりが漏れていた。
「おい星奈。寝るなら明かりを...」
と言って、断りなく扉を開くと勉強机に星奈が伏していた。机の上の星奈の体が小さく上下に揺れていた。
 近寄ってみると呼吸は至って浅く、口唇は真紫に染まっていた。星奈は普段ファッションでリップを塗る事は無い。ただならぬ事態を読み取った父親が救急車を呼んだと学校に連絡を入れた。
 
 診断の結果、星奈は急性呼吸不全だった。幸いにも一命は取り留めた。煙草の本数が増えだして2週間目の事だった。先玉が学校の並木道で見咎めたあの時、貴子に良いアルバイトがあると言われた日だった。一度断ると周りからの風当たりが強くなり、何かに頼りたくなった。それが煙草だった。

5,鈴木高松 *** 1996年 9 ***

 鈴木と成瀬は病院には入らず、病院名がみどり色に輝くのを少し先に見ながら車を止めて話し合っていた。外に出るとスーツでは薄寒く感じるほどだった。今年は寒冬だと言うのは当たっていたようだ。

「成瀬先生、すみませんでした。私の浅慮でしたね。森脇さんの事は何ごとも言い咎めないようにと言った私の責任です。成瀬先生はただ忠実に、私の言葉を守っただけです。責任はありません」 校長先生のせいではありません、と彼は言った。森脇さんのご家族は、森脇さん自身を含めて非は自分たちにある、と言った。救急搬入口で父親は言った。

「煙草を覚えさせたのは俺なんです。親父として失格だ。仕事が不規則で、娘に目をかけてやる事ができなかった。でもそれは言い訳にしちゃならない。ちゃんと親として娘の事をしっかり見てやらなきゃいけなかった。

 家内にも母親失格だとか言ってやらないで下さい。アイツも少ない収入でやり繰りしなきゃいけない上に家の事もしてくれた。あと出来たら卒業させてやって欲しい。娘なりに頑張っているから」

 隣りに立つ成瀬先生の背は自分より頭ひとつ大きく、それだけで迫力があった。校長室の椅子からは感じなかった雰囲気をまとっていた。

「彼女を頭ごなしに否定していたのは僕の方だったのに、先生はきっと正しかったんです。もっと早く話を聞いていれば...」
「言わないで下さい。幸いにも私は来年、校長を退任する身です。それが少し早まるだけです」 辞めるんですか? あと1年なのに、と成瀬先生はまた威勢の良い声を上げた。

「はい、私は少しばかり教育界に長く居すぎました。順風満帆に航海を終えて、帆を下ろす訳にはいきません」 そうだったならどれだけ良かっただろう。問題の無い年度など一年と無かったではないか。出来すぎだったのだ。
「成瀬先生、最後にひとつだけ覚えておいて下さい。教師というのは万能ではありません。出来る事と出来ない事があります。教師が出来ない時は潔く誰かに頼るべきです
 
 煙草は惑溺性がある。薬物と同じだ。医学的な知識や治療が必要になる。そうなれば教師の出来る事は限られる。
「例えばそう、医師のような人に」 鈴木はむくと沸き上がった感情に頬を打つ冷気を忘れいていた。だから、一度言葉を切って呼吸を整えた。

「だから今回のような時には、教師だからとて出過ぎた真似をすべきではありません。話を聞くだけでは、愛情を注ぎ続けるだけではどうにもならない事があります。私は今日、その事を思い知りました」
 今回は打つべき手を早く打たなかった。教師の引き際を見誤った。成瀬先生は何も言い返さなかった。解ってくれたようだ。

 その後、鈴木は退任を待つ事なく辞して行った。
「皆さんに感謝します。ありがとう。そして申し訳ない」といんぎんに頭を垂れ、背筋をピンと伸ばして校庭を去った。 

 森脇星奈さんは無事に卒業したそうだ。体内の酸素と二酸化炭素のバランスを整えるために数日ごとに喫煙時と似た状況を作り、体の中でどう変化するかを確認する検査が幾度となく行われたらしい。1年後には完全に正常値になり、今は煙草をやめて、健康に気をつけている。

 何かと踏み外す生徒が多かった中でよく卒業してくれたと思う。彼女は今、危険物取扱者資格を取り、調剤薬局で働いている傍ら、不良少年のNPOがホットラインを引く時は相談窓口で少年たちの声に耳を傾けているそうだ。

 終幕  *** 2019年 ***
  
 成瀬は、その後30年以上教壇に立ち続けている。学業の楽しさを見出していく子たちに安堵を覚える一方で、ツイッターやインスタグラムには戦々恐々としている。

 教師には出来る事と出来ない事がある。畑違いだと思えば誰かに委ねるべきだ。誰かが異変を起こせば救急車を呼ぶ、警察を呼ぶ。ただ今の彼らを見守る事はできる。それが教師に出来る最後の事だと信じて。

              完

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