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2-07-3【信頼関係の構築プロセス=縁起×PDCAサイクル】

さて『縁起×PDCAサイクル』の構造を統合したところで、次はそいつを使ってみる。「異質な人間同士の信頼関係の構築プロセス」がそっくりそのまま論じられる。

2-07-2のつづき
本著の概要と目次

縁起図

■信頼関係の構築プロセス=縁起×PDCAサイクル■

この縁起プロセス『縁起×PDCAサイクル』は、「信頼関係の構築プロセス」とまったく同じ意味を成す。縁起の発生は、人間関係そのものを構築していく。
そもそも『信頼』と『信じる』は違う。「信じ合う」関係とは『P:プラン』の『A:体系化』であり、信じたこと以外を観ない状態であり、『PL→理想←PR』のみの関係で閉じる。中空が具体的な達成目標になり、不確実なケムリじゃなくなる。確かな目標があるから、その理想に服従して「信じ合う」のだ。
物語が発生しない。あとは理性の出番。互いの違いは「認め合いましょう」「理解しましょう」という言葉で表現され、『主体律:道徳』が絶対化し、互いに自分を変えるつもりは無くなりがちになる。二元的衝突が発生して分裂に至る。だからそれを事前に回避し、似た者同士を選別して信じ合う。異質な人間は事前に排他される。信頼を信じて目指すと信頼は崩れるのだ。
「信じる」は『客体<主体』なのである。ちなみにこれは理性批判として展開できる。精神論になるか?衝突するか?空中分解するか?合理的に無理矢理まとめて一方が潰れるか?がオチ。信じ過ぎると恨みが生じる。設定した『未来(理想)』に主観的期待が集中するので、あるがままの『現在(現実)』を否定し、「信じ合う」故に「お前が変われ」と言い合う喧嘩を始める。
本来の『信頼』は行為に依ってのみ成る。信頼とは「信じて頼る」という物語である。縁起プロセスに当て嵌めてみるとこう・・・『信じる→分かち合う→受け入れる→示し合う→共感→信頼』という物語を為す。それは『寄り添う』でもある。線に頼ることで、寄り添うことが自ずとせしめられるのである。
『信じる』を絶対化して物語を紡がないのは下手である。「私は○○の為に○○をしたい」とも言わず、「あなたは何が得意?」「私はコレが得意」と示し合いもせず、「コレでどうだ?」と初対面で価格交渉に入るBtoB営業マンにロクなのはいない。交渉術のレトリックたる『社会律:ロゴス』も『客体律:エトス』も『主体律:パトス』も無い。寄り添う気が無い。立場を利用した因果律の押し付けである。力関係で決着をつける者の姿勢だ。外交でも同じ事が起こるだろう。それじゃいかんのだ。信頼構築プロセスを『縁起×PDCAサイクル』に嵌めるとこうだ・・・

①Pドリブン『L→中空←R』
先ず互いに『信じる』ものを共有して「私とあなたは違う」と確認し、
②Dドリブン『L←中空→R』
一旦『分かつ』から、周囲を眺め、己自身と向き合い、
③Cドリブン『L↓中空↓R』
互いにこだわりを捨てることで自他を『受け入れ』、
④Aドリブン『L 中空 R』
ゼロから互いに出し合うものを『示し合う』時に、ふと互いに同じイメージを浮かべる瞬間『共感』が発生して・・・
その線に『頼る』ことで『L↑中空↑R』の上昇気流へ一気に乗り、この連続性が『信頼関係』になるのである。それは『分かち合う』とも言える。「分かつ」から「合える」のである。では分かつとは何か?・・・

■私とあなたを繋ぐ『線』を掴む■

人は他者を理解する。出会った相手が何者であるか?を知らぬのに、何者であるか?を、己の『主体律:長期記憶』から情報補完して、あるいは『社会律』が定型化した資格だの肩書だのレッテルだのから情報補完して、勝手に相手の人格を主観的に判断し、不確実な存在に確実性を与える。手前の脳内でそれをやる。多様な判断材料があっても、慎重に判断しても、必ず誤解は発生する。『主体律:心』は否応なしに『固定観念』を抱いている。
ならば『不確実性』を価値基準にして、「分からない」と判断保留にすればいい。だが不安が強いほど、相手に『確実性』を求めだす。妙な期待と共に理解をしたがる。なぜだ?人は「他者を理解出来ない」ということに、単純な話、耐えられない。世界を理解出来なくても平気なくせに、目の前の他者の存在だけはそれを許さない。「私を守り、他者を変える」になる。己の『主体律:固定観念』に囚われた状態で、己の「不安を変えたい」と想うほど、それが掴みどころが無い故に、「あなたを変えれば、私も変われる」となるのだ。他者の心を編集することで、手前の心を安定させたがるのだ。
欲しいのは安心だ。人の心には安心できるホームが必要だ。殻の内から外を八方睨みしていれば、異質な概念も異質な他者も、「理解出来なくても構わない」になる。自我にホームがあれば、外は『判断保留』にできる。『主体律:長期記憶』の内側を『自我』と『他我』に分ける必要がある。「"私の心の中"の"私の部分"と"あなたの部分"」だ。本当に大事なのは『理解』じゃない。無理して自我から他我を観る必要は無い。先天的に必要なのは己自身の『アイデンティティ』だ。"私"と"あなた"を分かち、『距離感』を掴むことを覚えないと、そもそも理解も不能になるのである。
実に『空間的認識』が必要なのだ。だから『行為』が先ず必要なのだ。一旦離れよう。自分自身と向き合おう。その後で、繋がれる部分から、にじり寄ればいいのである。先ずは自分を許そう。あるがままを受け容れよう。自分で自分を認めよう。"私"を私でつくろう。するといつの間にか、判断保留が出来てくる。私の『主体律:心』を守る姿勢を、「何を守るか?」と範囲を絞るからこそ、その外殻を判断保留に出来るのである。
これは形而上で、つまり『主体律』でやれば難しいが、『客体律』でやれば物理的に相手との距離間を掴める分だけ、実は簡単なことだったりする。『客体律』が『主体律』を編集するのであり、『主体律』で『主体律』を編集するのは難しい。なぜなら『固定観念』は無意識の所管だからだ。無意識で「私とあなたは違う」を無理にやれば、そいつは己の『主体律:心』そのものを漠然と否定しだし、自己嫌悪へ突入させる。それで他者と繋がれるか?信頼関係を構築するには、必ず手前の固定観念を捨てる作業が必要になる・・・
よく「自分と他人を比較しちゃいけません」と言われるが、それは『主体律:道徳』的には正しい。だが『客体律:倫理』においては、比較するのが大事となる。主観的な価値判断をしない、ただの行為の差異を比較する点においては、比較はしていいのである。自分と他者の行為の差を観るから、人は他者をリスペクトし、学び、承認し、上手い行為を真似して、成長するのである。
礼儀正しい姿勢や倫理的な行為が、異なる者同士の『リスペクト』と『寄り添う』を可能にする。基本姿勢は「繋がるタグから繋げていく」になる。再び申すが『縁』とはファイルではなくタグであり、自分と他者を繋いでナンボであり、その繋ぐべき「きわ」が観えなきゃお話にならない。どういうことか?手前の『主体律:長期記憶』の中をマインドマップとするならば、広大な無意識空間には『自我サークル』と『他我サークル』が並んでいる。本著はこれを『主体マップ』と呼ぶ。そいつは『客体律→主体律』のベクトルで観えてくる。『客観』である。
あるがままを観る姿勢だ。『分かつ』状態を俯瞰的に『受け入れる』のである。もし自我サークルの内側から主観的に外を眺めると、他我は目の前にいる実際の他人とイコールにしたがる。それこそが『固定観念』の正体だ。その視点で他者との繋がりを模索するのは難儀だ。だって自我サークルより、他我サークルの方が圧倒的に大きい(自意識過剰を例外として)。
客観できれば、接点を掴んで、線を手繰り寄せる作業が始まる。『自我⇄他我』を繋ぐ作業が始まる。それを実際の他者とコミュニケーションして『示し合う』わけである。イコールしたがる性質を逆に利用するのである。大事なのは『向き合う』ではなく、俯瞰して距離を掴んで『寄り添う』となる。間に示し合い作業の出来る中空テーブルを置け!だ。引っ張っちゃいかん!他我が自我を破壊するからだ。いきなり「アイツになろう」とすると再び自己嫌悪だ。いきなり「アイツに敵わない」となると自己嫌悪だ。反動すると『拒絶感』を増すだけだ。客観的に俯瞰した異なるサークル同士を、『縁(タグ)』で、線を繋いで寄り添わせるのである。

■自我と他我を繋げる作業■

「理解し合う」ではなく「示し合う」である。「本質的な中身」ではなく「実存同士の繋がり」である。ファイル同士を繋げるのではなく、融合させるでもなく、示し合う作業を介して繋がるタグを繋げていくわけである。すべて客体で「分かつ」をやるから可能となる。
ココにおいても「多様性を並べる」が重要だ。和食の食卓をイメージすればいいが、「並べる」が内包する「分ける」が、「分かち合う」を行為させることになるベースとなる。「多様性を混ぜる」だと、分け与えることがただの『量』になり、主張や喧嘩の原因にもなる。混ぜご飯を分け合うと『平等』が意識され、『主体律:道徳観念』によって「お前の量多いから私に分けろ」と、即ち「お前が変われ」になって距離のお話じゃなくなる。心理学で申す『小差異のナルシズム』である。
「多様に並んだ食材を分ける行為」には『自由』と『責任』が発生する。自由に選ぶ。そこに自己責任が発生し、隣人の不条理に気づき、隣人の得意に気づき、自分に出来ることを探して、分け与える行為が発生する。それが『示し合う』だ。いきなり量を平等分配しだすと、単一の選択肢故に他者との距離が無理に詰められ、この調整『客体律:倫理行為』は発生しない。才能の違う者同士で分かつ行為を調整すると、「私は○○が得意で××が苦手」と選択することで「君は××が得意で○○が得意」と気づけて、「××は君に任す」という調整が可能になる。差異の『承認』である。個々に取捨選択の自由が背景にある方が、「分かち合う」は刹那に宿り得るのだ。いきなり混ぜた多様性を平等分配しだすと、自分と他者との量の差異を気にしてこの調整行為は発生しない。
「分ける」は観念ではなく行為で為された方が良い。他者に意識を向けることは、自分と向き合うことだ。両者は"結果"として同じだ。"いきなり"観念的に『P:プラン=A:体系化』して、現実の側を受け入れずに否定して、「お前が変われ」と言い出すのは、逆に「自分を守る」を加速させ、自分とも他人とも向き合わない状態へ接近させる。固定観念の加速作業である。だから二元論的な相対性に、時間的・空間的な円環を設けるのが有意義なのだ。距離を掴んで円環をまわしていりゃ、結果として自分も変われるのである。だから信頼関係にはプロセスがあるのである。
距離を離して『分かつ』ことで自分と向き合い、客観的に己の主体マップを『受け入れ』、実際の他者を『受け入れ』、自分の得意を探して周囲を観察し、他者の得意に気づいて任せることで、『示し合う』ことで、自分の得意を成長させる模索が可能となっていく。それは固定観念を捨てる行為と同じである。そうして異質な他者同士は補完をし合う。距離を置いてできた中空空間のテーブルに、お互い『示す』を出し合うわけだ。そして繋がる線を繋げた瞬間、私とあなたの間に『共感』が発生する。「それなら繋がる!」と、刹那に同じイメージを共有する。それを掴んだら、後はコツを掴んだようなもので、そいつを繋ぎ続けりゃいいだけ。自他のタグを繋ぐ作業が加速する。線を繋げる作業に集中する。その線に頼るところに『信頼』が成立していくのである。
距離を置く事で補完行為が自然と調整される。結果として、得意を活かす行為に集中する行為が自分を変えるのである。固定観念もいつの間にか編集されるのである。意識は己の脳内に在る。己の狭い価値観で他者を判断する事態を回避するには、己の毒を表に出さない為には、コミュニケーションエラーを回避するには、『克己心』が必要となる。「己の心に克つ」ということ。これは克己心を覚える作業でもある。
距離をおき、先ず『客体律>主体律』にすること。それは「自我を脇に置く」ということ。我を捨てるということは、我を忘れるということだ。それは行為に集中することで可能になる。
だいたいが、我々は『客体:行為』で模索し発見した『型(上手い線の繋ぎっぷり)』を、『因果律:文化や経済』場で隣人他者と共有することで、我々は『主体律:自己肯定感』を満たすのだろう?その連続性で自分を変えて、他者を認めて、尊厳を守るのだろう?それが手前の意志で出来て、人は独立するのだろう?逆のプロセスだと不自然になる。主体で先ず型を構築して、そいつを『社会律:ルール』にして他者に共有させるプロセスでも不自然になる。
『信じる→分かち合う→受け入れる→示し合う→共感→信頼』というプロセスを経て、自他の線を繋ぐ作業を繰り返して、「信じる」は「信じることに頼る」になる。それは引っ張り合う糸を断ち切り緩く繋げていくことでもある。緩い糸で繋がる。それを『絆』とも言う。
①Pドリブン『L→中空←R』『信じ』
②Dドリブン『L←中空→R』 『分かち』
③Cドリブン『L↓中空↓R』『受け入れ』
④Aドリブン『L 中空 R』『示し合う』
を繰り返し、『共感』を掴んで、その繋がる線に『頼る』ことで『L↑中空↑R』の上昇気流へ一気に乗り『信頼関係』になる。それは己の心の内の編集作業と同じでもある。

縁起図2

・・・・つづく
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