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2022年8月の記事一覧
むかし話になっちゃった。
インターネットむかし話である。
むかしむかしのインターネット黎明期、具体的には90年代後半、ICQというサービスが人気を博していた。ICQ とは別に、インターナショナルなんとかの頭文字でもなければ、インフォメーションなんとかの頭文字でもない。英語における「あなたを探す」、すなわち I seek you の音を ICQ の3文字に置き換えた、イカした名前のサービスである。
簡単にいうとチャットア
一年でいちばん面倒くさい日、なのかもしれない。
先週に、誕生日を迎えた。
「もうお祝いするような歳じゃないから」。聞き飽きたし、自分でも言い飽きたセリフだ。けれど、その日を無事にやり過ごす呪文のように、今年も何度か口にした。もうお祝いするような歳じゃない。待ちに待ってた歳じゃない。ただいつもと同じ今日がやってきて、たまたまその日が自分の誕生日だったというだけの話だ。ひねくれた男のように聞こえるかもしれないが、それがぼくの(自分に対する)バース
完成予想図がほしいのだ。
以前、ある映画監督さんに取材したときのこと。
その監督さんは映画づくりにおけるルールのひとつとして「絵コンテを切らない」を挙げていた。監督はみな、自分のあたまのなかに「こういう絵を撮りたい」とのイメージを持っている。それぞれの場面に持っている。しかしながらその「絵」は、監督のあたまのなかにあるのみで、演者もスタッフも覗き見ることができない。そこで多くの監督さんは、ときに人の手を借りながら絵コンテ
ペットボトルのお茶の価値。
中高年がしばしば語る話のひとつに、ペットボトルのお茶がある。
お茶なんて、どこのお店に行ってもタダで出てくるものだ。家で茶を飲んでいるときにも、有料のものだという実感はない。喫茶店を名乗るお店であっても煎茶でカネをとるお店はほぼ皆無で、あそこで喫する茶とはコーヒーと紅茶のことだ。そんなタダ同然のお茶を、ペットボトル(初期は缶)に入れて販売するなんて。そしてそれが売れてしまうなんて。あの商品が出た
最近お気に入りのメニュー。
いかにも我のつよい食べものがある。
どのような料理に用いられようと、端役・脇役の座に甘んじることを頑として拒み、主役へと躍り出てしまう食べものだ。たとえば、アンチョビはそうである。風味づけくらいのつもりで少量をピザやパスタに投じたそれは、ときに厚かましいほどの自己主張をおこない、最終的にアンチョビが苦手な人にはぜったいに食せない料理を完成させる。似たところで言えば納豆もそうだ。納豆汁、納豆オムレ
ことばではないことばを。
しばしば犬は、身体を掻く。
おすわりの態勢で、うしろの脚を器用に使って、首のまわりを掻き、顔を掻く。ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ。その音からぼくはそれを、「ちゃっちゃ」と呼んでいる。「ちゃっちゃ」をするとあたり一面にちいさな毛が飛び散り、コロコロが欠かせない。コロコロとは小学館の刊行する小学生向けコミック雑誌ではなく、ローラー式粘着テープのことである。犬を迎え入れて6年。わが家におけるコロコロの使用量
更地になった一区画に。
いつも歩いているはずの住宅街。
数日ぶり、もしかすると数週間ぶりに歩いていると、ぽつねんとして一区画が更地になっている。砕かれたコンクリートやビニール片、木材などをそのままに、更地になっている。ああ、取り壊されちゃったのかあ。思いのほか極小な空間を横目に通り過ぎようとして、ふと思う。あれ? ここ、どんな建物があったんだっけ?
懸命に記憶の糸をたぐるも、なかなかもとの風景を思い出せない。そこにあ
大人になるということ。
きのうから、つかの間の夏休みをとっている。
近県のドッグラン付き貸別荘に出掛け、暑すぎるからと外に出掛けることもせず、ただ犬とごろごろしたり昼からワインを飲むなどの時間を過ごしている。実際にやっていることを挙げれば、すべて自宅でできることだ。ソファでごろごろすることも、昼間から酒を飲むことも、当然自宅にいながらできてしまう。そして自宅であれば Netflix のドラマを見たり、ウーバーイーツを注
うどんの話を入口に。
ある意味あれは、家庭料理なのだろうか。
すうどん、という食べものがある。うどんの種類というよりも「なんの具も載せていないうどん」のことを、とくに西日本ではそう呼ぶ。漢字を当てるなら素うどんだ。一般家庭のなかにおいてはしばしば提供される料理であるものの、うどん店のメニューに「すうどん」の文字はない。あるのは「かけうどん」ばかりだ。そして「かけうどん」はさすがに具なしというわけではなく、ネギ、かまぼ
満たされるべき欲望。
欲望の話をする。
夢はかなえるもの。自信はつけるもの。橋はわたるもの。そして欲望は満たすもの。一見すると当たり前のように映るこれら名詞と動詞の組み合わせは、よくよく考えると奥深いものがある。たとえば「夢を満たす」と言ったときわれわれは、意味的には理解しながらもどこか違和感をおぼえる。あるいは「欲望をかなえる」というのもうっすらとヘンだ。「かなえる」ということばは矢印が外に向かっており、おのれの脳
海外に行ったつもりで。
たとえば地方から友人が、東京に来たとする。
目的としては観光だ。観光において大切なのは「来たなあ」の実感であり、「行ったなあ」の思い出である。そこで友人を、都内のそれらしき場所に案内する。東京タワーでもいいし、スカイツリーでもいい。スカイツリーのついでに浅草寺に行くのもよかろう。ともあれ東京を象徴するような景観のある場所に案内する。あとはお気に入りの飯屋にでも連れて行って、おいしい料理を食べなが
そのレトリックはどうなんだ。
犬に比べて猫は。猫に比べて犬は。
人間を、犬派と猫派にわけて語りたがる人たちがいる。たしかに犬と猫は違う動物なのだから、「犬はこうだ」「猫はこうだ」とそれぞれの特徴を語ることはできる。そして、「それゆえわたしは犬を愛する」「だからこそわたしは猫が好きなのだ」と結論づけるのもけっこうだ。けれども犬なら犬のよさを語るとき、わざわざ猫の価値を引き下げる必要はない。犬だけを見て、自分の思う犬のよさを語っ