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うどんの話を入口に。

ある意味あれは、家庭料理なのだろうか。

すうどん、という食べものがある。うどんの種類というよりも「なんの具も載せていないうどん」のことを、とくに西日本ではそう呼ぶ。漢字を当てるなら素うどんだ。一般家庭のなかにおいてはしばしば提供される料理であるものの、うどん店のメニューに「すうどん」の文字はない。あるのは「かけうどん」ばかりだ。そして「かけうどん」はさすがに具なしというわけではなく、ネギ、かまぼこ、天かす(揚げ玉)などが申し訳程度に載っている。

すっぴん、ということばもおそらく、すうどんと同じ発想なのだろう。つまりは「なんの化粧も載せていない顔」のことをすっぴんと呼んだのだろう。そしてこのことばは、べっぴんに対応するものとして俗語的に誕生したのだろう。

じゃあ同じ顔面を語ることばとして、「すっぴん」と「素顔」はどう違うのだろうか。

辞書的な意味からいえば、素顔も「化粧をしていない顔」のことではある。しかしながらビリー・ジョエルのヒット曲『素顔のままで』が、「ありのままの君でいてほしい」と語りかけるラブソングであることからもわかるように、素顔ということばにはもうちょっと内面的な要素が含まれている。つまり、「すっぴんの私は醜い」と言ったときには化粧を落とした相貌そのものを指していると思われるのに対して、「素顔の私は醜い」と言ったときには自分の内面は醜いんだ、ほんとうの自分は薄汚れた人間なんだ、的な告白をしているように感じられる。

あるいは「あの男の素顔を見た」なんて一文があった際にも、それは化粧を落とした顔を見たわけではなく、「あの男の正体を見た」とか「あの男の真の姿を見た」くらいの意味合いに読者は感じとるだろう。

と、なんだか話が逸れてしまったけれど、うどんに続いて書きたかったのは素ラーメンの話である。

たとえばインスタントラーメンをつくる。サッポロ一番塩ラーメンみたいなやつをつくる。パッケージには海老や野菜が色鮮やかに盛り付けられているものの、実際にあそこまで手の込んだラーメンをつくる人は少ない。ぼくはもっぱら具なしの素ラーメンを食べている。だいたいインスタントラーメンをつくるときには、猛烈な空腹に襲われているのだ。ちまちまと具材を準備している暇などない。

けれどもなぜか、そうやってつくられた具なしのラーメン、いわば素ラーメンを、うどんのように素ラーメンと呼ぶ人は少ない。なぜだろう、なぜかしら。

答えはおそらく付属の粉末スープに、乾燥ネギが入っているからだ。味的にはなんらプラスの貢献を果たしていないと思われるあのネギには「具なしと呼ばせてたまるか」「いわんや素ラーメンなどと呼ばせてたまるか」の意志が込められているのだ。いや、実際には彩りを考えてのことだったり、栄養がないわけではないことを誇示する道具だったりするのだろうけど。

その点で言うと、そういう乾燥ネギ的な小道具に頼らないチキンラーメンはとても好感が持てる。刻んだネギだの卵だのを入れたくなるのを我慢して、堂々と素ラーメンするのがチキンラーメンに対する礼儀だと、ぼくは思っている。ちょっと少なめのお湯で、スナック感の残る1分程度の待ち時間で、休まず一気にかき込んでいく。もりそばをたぐる江戸っ子のように、すっぴん素顔のチキンラーメンを一気にたぐるのが昭和っ子の粋だと思うのだ。