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むかし話になっちゃった。

インターネットむかし話である。

むかしむかしのインターネット黎明期、具体的には90年代後半、ICQというサービスが人気を博していた。ICQ とは別に、インターナショナルなんとかの頭文字でもなければ、インフォメーションなんとかの頭文字でもない。英語における「あなたを探す」、すなわち I seek you の音を ICQ の3文字に置き換えた、イカした名前のサービスである。

簡単にいうとチャットアプリであり、インスタントメッセンジャーなのだけれども、そのおもしろさは ICQ の名が示すとおり、世界中のユーザーとランダムに接続され、会話を交わしていけるランダムチャット機能にあった。つまり、ICQ のアプリを起動させておくと、不意にどこかの国の誰かから着信(アッオー!という声)が入り、そのままチャットしていくのである。それはいかにも「インターネットしてる!」を感じさせてくれる時間だった。

ICQ 内の共通言語は、英語である。みんなバンバン英語で話しかけてくる。そこでぼくは、アメリカやイギリスなど、あからさまな英語圏ユーザーとは極力チャットしないようにしていた。それより、自分と同じくらいの英語力しか持たない非英語圏のユーザーと話していたほうが、ずっと気楽だった。

そんなあるとき、ぼくはロシア人の誰かさんとつながった。聞けば年齢も自分と同じくらい。もともとロシアという国に関心が高かったこともあり、たくさんのおしゃべりをした。お互い文法もスペルもめちゃくちゃなカタコト英語で、何時間もチャットし続けた。

ぼくは、ドストエフスキーの魅力を語った。彼は日本でこんなに愛されている、いつかモスクワにある彼の生家を訪ねたい、サンクトペテルブルクで彼の足跡をたどってみたい、と語った。すると相手は「ドストエフスキーを読んでるなんてすごいね」と驚いていた。「もちろん彼は有名だけど、いまの若いロシア人はあまり読まないよ」と。口ぶりからおそらく、彼も読んでいないのだろうなと思わされた。

やがて話は政治に及んだ。「エリツィンは大丈夫?」との問いに、「たぶんダメだろうね」と彼。「ゴルバチョフは素晴らしいリーダーだったのに」とぼくが言うと、彼はかなり口汚いことばでゴルバチョフを罵った。

外国人がそう思うことはよく知っている。実際にいいこともしたと思う。でもアイツは、ほんとうにダメなんだ。この国をめちゃくちゃにしてしまったんだ。頼むからあんなヤツのことを褒めないでくれ。あいつがいいリーダーだったなんて思わないでくれ。

訃報に接して、まっさきに思い出したのは ICQ の向こうにいた彼のことだった。顔も名前もわからないし、いまどこにいるのかもわからない。そしてぼくが会話らしきものを交わしたことのあるロシア人は、いまでも彼ひとりのままだ。あれほど念願していたモスクワにも、サンクトペテルブルクにも行けていない。この2月からのいろいろを考えると、少なくともあちらの政権が変わらないかぎりは、行こうとしないだろう。もしかしたらずっと行かないままかもしれない。

彼、どうしているのかなあ。ドストエフスキー好きの日本人と何時間もしゃべった夜のこと、憶えてくれているかなあ。世界はもっとよくなると思っていたし、仲よくなりたかったんだよね、みんな。