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ガラス板の教訓。

一流に触れろ、というアドバイスがある。

どれだけたくさんの三流・四流に触れたところで、目も心も育たない。日々の暮らしを節約してでも、ときに一流を味わえ。芸術でも、ファッションでも、食でも、なんでも一流に触れてこそその真価がわかる。……という主張である。若いころのぼくは、こうした意見に反発心を抱いていた。そんなものはしょせん金持ちの自慢話であって、聞く耳なんて持たなくていい。そもそもおれはアンタら権威にかぶれた中年たちが低俗と蔑むポップカルチャーにこそ、生きた価値を感じているのだ。せいぜい定まった価値をありがたがってろ。と、鼻息を荒くしていた。

ところが実際、触れてみないとわからない一流の価値というものは確実にあって、ぼくがそれを実感したのは腕時計である。

これまでの人生のなかで、一本だけ「高級」に分類されるであろう腕時計を購入したことがある。高級とはいっても、腕時計を知らないぼくにとっての高級であって、パソコンよりちょっと高いくらいの価格だ。

買ってみて、腕につけてみて、ぼくはたいそう驚いた。

アンチ腕時計派の人がよく言うように、腕時計なんて本来は「時間がわかればいい」ものだ。そしてこれまた多くの人が言うように、いまはスマホがあるのだから時間はそれでわかる。さらに、ぼくの購入した腕時計は別にキラキラした宝石が埋まっているとかの宝飾品でもなく、ダイバーズウォッチとかパイロットウォッチとか、そういうカテゴリーに入る類いのものだ。

なのに左手首に装着したそれは、とてもよかった。過去にたくさん買いあさってきたリーズナブルな腕時計とは、あきらかに違った。気持ちいいし、妙にしっくりくる。なんだか自信まで湧いてきそうななにかがある。いったいなにが違うのか。「高いものを買った」という事実が、こちらの気分を高揚させているのか。


答えはなんと、ガラスだった。文字盤を覆うガラスの輝きが、その重厚感と透明度が、これまでに買ってきた腕時計とまったく違ったのだ。

いい時計は、ガラスがいい。腕時計好きな人にとっては当然の話かもしれないけれど、これは買うまでわからなかった事実である。少なくともぼくには腕時計をそんな目で見るという発想さえなかった。

なのでたとえば、ベンツとかポルシェとかの高級車も、実際に買ってみればなにか、あきらかに優れた点があるのだと思う。いまのぼくには想像もつかない、高級腕時計におけるガラス的ななにかがあるのだと思う。

一流に触れろ、のアドバイスはたぶん正しい。それは「世間で一流とされているモノは、こんなところにまで精魂込めているのか!」を知り、つまりはそこに考えが及ばなかった自分のダメさや、自分のサボり癖を直視するためにこそ、一流には触れておいたほうがいい。

まあ、若い時分の自分はきっと反発するだろうけれど。