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完成予想図がほしいのだ。

以前、ある映画監督さんに取材したときのこと。

その監督さんは映画づくりにおけるルールのひとつとして「絵コンテを切らない」を挙げていた。監督はみな、自分のあたまのなかに「こういう絵を撮りたい」とのイメージを持っている。それぞれの場面に持っている。しかしながらその「絵」は、監督のあたまのなかにあるのみで、演者もスタッフも覗き見ることができない。そこで多くの監督さんは、ときに人の手を借りながら絵コンテを描き起こし、みんなと「絵」を共有する。それが絵コンテに関する一般的な理解だろう。

しかしその監督さんは、何度か絵コンテを試したのちに辞めてしまったのだと言う。中途半端にきれいな絵コンテがあると、みんなが「それを再現すること」のみをめざしてしまい、それ以上の絵が撮れなくなる。というのが彼の主張だった。

なるほど、そういうものかもしれないなあ。取材した当時は深く納得したこの話、いまでもしばしば思い出すのは「ほんとうにそうなのか?」のこころがあるからだ。

たとえばぼくは、建築の「完成予想図」が好きだ。あるいは乗用車の「コンセプトカー」も大好きだ。このままのビルが建てられるわけではない、このままの車が量産されるわけではないとわかっていても、見ていてワクワクする。ある意味完成予想図は、めざすべき大ボラだとも言える。

日経XTECH記事より

もちろんこういう大ボラとしての絵はプレゼンテーション目的で描かれるんだろうけれど、自分が建築現場で働く人間だった場合、「あれをつくるんだよなあ」「いま、あれをつくってるんだよなあ」のモチベーションにもなるだろう。それが大ボラであることを知りつつ、あたまの片隅にこの絵を思い浮かべるだろう。

本の企画を練っているとき、どうにかして「完成予想図」的ななにかをつくれないかと考える。関わるみんながうっとりするような、あそこをめざしていけばいいんだと思えるような、しかもそれが空虚な文言によるものではなく、限りなく絵に近いなにかで表現できないかと考える。

ダミーの全五段広告とかを先につくっちゃうのもいいのかなあ。なんか自分の仕事にも「完成予想図」がほしいのだ。