見出し画像

満たされるべき欲望。

欲望の話をする。

夢はかなえるもの。自信はつけるもの。橋はわたるもの。そして欲望は満たすもの。一見すると当たり前のように映るこれら名詞と動詞の組み合わせは、よくよく考えると奥深いものがある。たとえば「夢を満たす」と言ったときわれわれは、意味的には理解しながらもどこか違和感をおぼえる。あるいは「欲望をかなえる」というのもうっすらとヘンだ。「かなえる」ということばは矢印が外に向かっており、おのれの脳内・体内にうごめく欲望に呼応させる動詞としては、あまり適当に思えない。

じゃあなぜ欲望は、満たされるべきものなのか。完全な思いつきで書くとたぶん、それは食欲と関係しているような気がする。もっとも根源的な欲望として食欲があり、食欲といえば腹を満たすことによって解決に向かうものであり、結果として欲望は「満たされるべきもの」となった。これはとても自然な思いつきだ。

しかしながらこれが人間のおもしろく、また罪深いところで、仮に食欲が完璧に満たされたとする。さらに満腹の状態が永遠に続き、二度と空腹を感じなくなったとする。あれほど切望していた満腹だ。理屈だけで言うならば、うれしいはずだ。ところがきっと、永続的な満腹は猛烈な不満へと姿を変えるだろう。空腹を感じていたあのころが懐かしく、いまのおのれを不幸だと感じるだろう。

これは夢にも同じことが言えて、それをかなえたり、満たしたりすればもう夢ではなくなり、欲望ではなくなるのだ。山にたとえるならば坂道を駆け上がっている途中こそがいちばんたのしく、ゴール(山頂)にたどり着いたらダメなのだ。とはいえ山頂が近づいたからといって足踏みしていたらそれもたのしくないので、一度登りはじめた山なら最後まで踏破しないと意味がない。そして踏破したのち、「今度はあっちの山に登ろう」とか「次はこんな条件で登ってみよう」といった夢なり欲望なりをこしらえないと、人生つまらなくなる。


ライス付きのラーメンを食べて、現在かなり満腹になっている。しかも所望したわけでもない料理によって、腹が満たされている。早く空腹になってくれないかなあ、この状態がずっと続くのはいやだなあ、と雨音に耳を傾けながら、どうでもいいことを考えている。